御室川旧流路 2008/07/31

国土地理院 航空写真 整理番号 CKK-87-1 地形番号NI-53-14-7 撮影コ−スC7 写真番号11に画像処理を施た。
京都市右京区、清滝、高雄方面の山々からは実に様々な水が流れ出て、この地域の平野を潤し、桂川や鴨川へと合わさっている。
瀬戸川、宇田川、紙屋川(天神川)、有栖川、そして御室川。
大きな流れはこの辺りであるけれども、小さな流れはそれこそ無数に有る。
そのような小さな流れも、平野部に出ると、徐々に大きな流れに合わさり、中流域では、ほぼその姿を消してしまう。
そして中流域からはこれら、名前の付いた河川が京都市の西を流れていくことになる。
 御室川は源流を周山街道の奥に持ち、そこから流れ出た水は周山街道に沿い平野部に出てくる。その途中で高鼻川、井出口川等を合わせ、鳴滝と言う市街地で は珍しい滝を抜け、市街地に出てくる。
市街地に出てからは、双岡を流れ、その南で宇田川を合わせる。更に南流して天神川御池で天神川と合わさって、御室川としての流れはここで終わる。

今はおとなしい流れの御室川。しかし、この御室川には天神川と同じく旧流路が存在する。
 かつて、昭和10年6月29日、近畿地方を中心に大雨が降った。
市内を流れる河川の殆どが氾濫し、市内南部の半分以上が浸水被害を被る大災害、西部を流れる主な河川、天神川、御室川も無論例外ではなかっただろう。
天神川は西院、その上流でも堤防や橋を損壊している。
御室川も又しかり、である。
その後、治水計画と洛西運河の設定により、御室川と合流させ、その直線上に桂川と交差する地点に吐水地点を設る事などが決定され工事が起工。
昭和19年度にはほぼ全ての工事が完了し、天神川旧流路は徐々にその姿を消していくことになる。
御室川の旧流路は現在の天神川との合流点より少し北になる。
大日本印刷(DNP)の工場敷地北端あたりから徐々に蛇行しながら南へと流れていた。
しかもこれから先は、天神川現流路に沿ってであるが、ほぼ、市街地の真ん中を流れていた。
・・・いや、その旧流路を埋めて、市街地が出来たと言った方が良いのか、時系列で言えば。
昭和21年の航空写真では、既に廃河川の様子が写し出されており、その流路跡に工場の一部や家屋が建っているのが見て取れる。
現天神川御池より南はそういったことだ。途中で西高瀬川と交差しているのが見えるのだが、これは立体交差なのかはたまた平面交差なのか、不明であるが、西 院昭和風土記内に
”西高瀬川では丸太流しが行われて・・・”と言う記述があったのを見ると、おそらく平面交差ではなかったのか?。立体交差にして丸太流しとなると、相当長 い区間、広い面積を立体にしなければならないだろう。
そして、現市街地の中を縫うように流れていった御室川旧流路。幾多の小河川を合わせそして現五条通を超えると何と西京極運動公園内を流れていたようだ。
西京極公園(総合運動場)は昭和天皇(今上天皇)のご成婚時に造られ、何期かの工期に分かれて作られたが、戦時中は物資不足のため、グラウンドが芋畑にな り、終戦後、一時期は連合軍に接収された時期もある。
昭和21年には、荒廃した国土を元気づけようと、この競技場で第一回国体が行われ、その後設備を拡張。ごく最近では阪急線を挟んだ南側に”アクアリ−ナ” というプ−ルが建てられ、より、市民の運動を提供するという場を鮮明にしている。
では、どこに流れていたのか?。五条通を過ぎた御室川旧流路は現在の西京極グラウンドの北東側、つまり、現在の内周道路の辺りを流れていた。そう、サッカ −場と野球場が斜めに接しているのは設計上ではなく、かつて、河川に面していたからだ。
そのままほぼ直線に流れ今度は天神川現流路を横切る形で西京極駅の西端を流れる。
これは現在の西京極駅のすぐ西を天神川通りが通過しているが、その通過している場所がかつての御室川旧流路。
少し斜めになっているのは天神川現流路の橋脚確保のためでも有ろうが、道が斜めになっているのは御室川旧流路の流れを利用しているからである。
ここから先は天神川沿いに流れているが、無論、河川跡など、無い。
60年以上経つともはや流路跡など、無い。
完全に住宅地へと転用が完了した例だ。探したが地形が残っているのかそれとも、天神川通りが後付けされたときに盛り上げられた地形なのかが、判断できな い。
 現在の西京極小学校西側、かつて、七条通りが山陰街道と呼ばれていた時期に、この辺りは勝川寺村と呼ばれ、この辺りで御室川を渡って、西へと道は続いて いた。
それから南の御室川旧流路はどうなっているのか?。それは、天神川現流路が引き継いでいる。つまり、この辺りから南は御室川旧流路の流れがそのまま使われ ているのだ。
そして、南へと流れる天神川現流路は一直線に桂川へと注ぎ、水の旅は終わる。

御室川は昔の人々からはどのように捉えられていたのだろうか?。
先ずは京都府地誌の中から流域各村々の記述を拾い上げてみたい。

常磐谷村
御室川 二等川に属す。水源同郡梅ヶ畑、宇多野の山間より湊流し村内を東南に下り
太秦村境に入る。本村の所係長さ八丁二十間 巾二間
平日水枯れ、大雨久霖に至れば時として堤防を害すること有り。
故に用水となり難し。僅かに田五反歩の養に充つ

花園村
御室川 二等川に属す。常時水僅少、大雨後七、八尺の深さに至る。
水源梅ヶ畑、宇多野の間より発し常磐谷村より本村の西部に入り南流して安井村に至り
安井川という。村内の流れ長さ三丁、巾二間五尺
村田三町歩の用水に充つ

安井村
御室川 二等川に属す 本村に於いて安井川とも言う。
源を本郡北方梅ヶ畑、宇多野二村の渓間より発し常磐谷村及び本村の西縁を経て
宇多野川を入れ西南流して桂川に入る。
水源より三十丁余、巾通して七、八尺、平時水少なし
強雨の時は非常に瀑漲して堤壊を決するに至る。

太秦村
御室川 二等川に属す。源水宇多野、梅ヶ畑村の渓間より出、北常盤谷村より来り
花園、安井二村を挟み本村の東境に沿い南西院村に入る。
平水微少、大雨後瀑漲時に壊岸決堤の患をす。

勝川寺村
御室川 中央にあり二等川に属す。
北、郡村より入り。南西中村に流る。
本村所帯長さ六丁巾二間平時水無し、強雨後瀑漲す。

西中村
御室川 二等川に属す。上流勝川寺村より来り
村内を経て桂川に入る。長さ八丁、巾三丁常時水無し
降雨日を経れば瀑漲す。

・・・これほどに嫌われている河川というのも珍しい。
平常時に水は無い。または僅少。
雨が降ると瀑漲し、堤防を損壊する。
しかも、上流から中流、下流域に至るまで、ほぼ全ての流域村が述べている。
天神川、御室川の二つの流れを有していた西院では村内の交通を天神川、御室川の堤がそれぞれ一の坂、二の坂となり、寸断していた。
それより南ではこのような改修まで行われていた。

場所は葛野大路七条西入る。つまり昔の山陰街道である。その少し曲がったところに、このような碑がある。
”改修碑”
そのままではないか。ちなみにこの碑にはこのようなことが書かれている。
     貴族院議員丞五位勲二等男爵北垣国道蒙額 山田保多書

平安城西雙岡以南田野平擴村落相望御室川貫其間南流入桂川平時水涸無濁

滴暴雨則濁流奔溢殷堤浚田其害甚大脩治之費後作之勞村民常患之京極村長

湯川半左衛門○相議太改脩之梅津西院吉祥院三村咸齎之遂請官○旡明治三

十三年十一月剏工三十八年一月告竣改流域減長十二間餘而加廣二間廃沿川

地五千八百九十歩脩兩堤長各千六百八十間餘高一間六分厚三間而其上綬三

分之二費金貳萬九百八捨圓其六出於官其四係村民出於是村民始免積年之患

矣乃相喜曰嗚呼足擧也能除難除之害以永福利宣建碑不朽其功遂来牽予文予

以郡宰親董是後當事吏胥皆能竭力槻書以致是喜而村民之喜乃予喜也因不離

而係以銘曰

不溢不壊    偉哉治水    一侘負○    紀功志喜

明治三十八年六月 京都府葛野郡長従六位勲六等 有告三七○ 
* ○は解読不能、又は当てはまる漢字が不明。
平安京西の双岡より南の村々は望んでいた。
  御室川が桂川に貫流する間、いつもは水が無く、大雨になると濁流が溢れ堤を壊し、田が浸水しその被害は甚大だった。
またその修繕の労も村々が常に患っていた。
京極村村長 湯川半左衛門は梅津、吉祥院、西院の三か村と相議して遂に政府に働きかけ
明治33年11月より明治38年1月まで、流れを変える工事が行われた。改流域は長さ12間(約21m)減り、廃河川地として5890歩(どなたか、どれ ぐらいなのか教えて〜)
堤の長さそれぞれ1680間(3024m)、高さ1間6分(2.7m)厚さ3間(5.4m)。
その2/3、工事費20980円(明治38年当時)その4/10を国が、6/10を流域の四係村が払うことになった。
この工事で村始まって以来積年の患いをはらい、互いに喜んで言った。これで〜
・・・漢文の勉強が不十分で私が解読できるのはここまでかな。こういった石碑の類も時として重要な情報をもたらしてくれるので、計らずしも、最近はこの解 読に精を出し、漢字に少し詳しくなれた。
明治時代に既に流れの改修は行われていた。
流域減21mと言うのはなんか納得できないが、おそらく堤の工事が大規模だったのだろう。長さ約3000mの堤を両岸に築いた。そんな土砂よくあったね、 と思われるが、おそらくこの土砂は”あれ”だ、”あれ”。
堀子川のレポ−トで書いた市立病院、その一部分に西院昭 和風土記の記述を書いたのだが、それは・・・

・・・またこの病院の土地は元々水田で、そこへ御土居の土、二万坪を入れ地上げして当 時、田圃の中にぽつりと立っていた。

これではないのだろうか。おそらく御土居の土をここにも使ったのでは。
 そんな膨大な量の土砂を一体どこから確保したのかという疑問には、御土居の土を使ったと答えれば確かに片は付く。まさしくリサイクル。
逆に言うならば、御土居が取り壊されたのはこういった大きな土木工事があったからではないのか。そうでもない限り、御土居は250年近く京都の町を一応で はあったにしろ取り囲んでいたわけであり、もし撤去すると成れば、それ相応の場所に使うというのがもっとも効率がよかったと思う。
つまりそれはこういった工事関係だった、と思われる。(あくまで推測です。異論のある方はもちろん、真実を知っていらっしゃる方は掲示板に書き込みよろし くお願いします)

つまり御室川は明治33年以前の姿と、それから昭和19年までの姿、そして、現在の3つの姿があったことになるが・・・
明治33年以前の姿は、残念ながら手持ちの史料がないために、追うことは今現在、不可能であるが仮に、これを旧旧流路と呼ぶことにする。
今回私が追ってみたのは昭和19年までの御室川の姿。これを旧流路と呼ぶことにするが、この流れになる。
しかしこれもまた・・・全く跡形が残ってなさそうなところだね・・・。

先ず見てみたいのが天神川現流路と御室川旧流路とが合わさっていた箇所、最下流部である。
どうだろうか?、ご覧になったあなたの目には合流地点が分かりますか?。
私にも分かりません。これは。第一、地形が完全に改変されており、改修工事が行われていた当時とは全く異なってる。
第二に河川跡が住宅地に変わっており、それによる地形の改変、もとの地形が残っているとは思っていなかったが、ここまでとは・・・

明治、大正期、の古地図、昭和初期の古地図と航空写真を見ていると山陰街道沿いに古くから人家があることが分かる。人や貨物の運搬がある場所には人家が建 つ、その典型的な例だろう。
昭和に入っても、この辺りはまだまだ一面の田畑である。それが変わり始めたのは昭和初期から建設が始まった西京極総合公園が作られてからであろうか。阪急 京都線もそれに合わせるように昭和3年西京極に駅をつくっている。
昭和19年に入ってもまだまだ大正当時の面影が残る地であったと思われる。
昭和28年に至り、家屋が増え始め
昭和32年以降同36年までに天神川通りも開通し
昭和36年、北方を五条通が開通し、高度経済成長時代に入り徐々にこの辺りの風景も変わり始め
昭和47年にはすぐ西を葛野大路が走るまでになった。
葛野大路は西大路と共に京都市西部の交通を支える要衝だが、その歴史は以外と浅い。
今現在、ごく普通の住宅地になっている。
しかし住宅地になっていることで、流路跡疑定地に近づけない。

で、どうやって流路跡を分かっていただくかが悩んだけど、取れる手段は限られているわけでして・・・。


とりあえず、電子国土の情報をSite上に表示してみました。
スクロ−ルしていって頂ければ河川の全貌の簡単な略図がご覧頂けると思う。

今回のレポ−トも、はっきり言って御室川旧流路自体が出てくることは、全くない。
痕跡もない完全消滅を遂げているからだ。
だから、ご覧になっていただく際は「お−、こんなふうに流れていたんだな〜」と脳内で補完しつつご覧になっていただければ幸いだ。

御室川旧流路(2)
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