京都市中京、下京区 堀子川 現流路(2)2007 12/18


場所は西新道の四条川と西高瀬川の合流地点になる。
ここを堀子川の現流路起点とし、これより調査を開始した。
と言ったところで、堀子川自体はほとんど都市化のただ中でそのままが残っているので、道に迷ったりする事はない。
ただ二つ恐れていたことはある。
一つは都市化された中で川に近づけない場所が出来てはいないだろうか、と言う問題。
事実、これは何回ともなくあった。
近づきたくても近づけない。建物が両岸一杯一杯に建っている場所では当然撮影は不可能であった。
川が見えていても、私有地内のガレ−ジなどには当然進入不可能である。
もう一つはプライバシ−の侵害に当たらないかと言う問題である。
下手に都市の真ん中で広角レンズをガリガリに絞り込めばそれこそいろんな物が写り込む。
出来うる限り川が目一杯写り込むように撮影はしたが、どうしても両側の住宅や工場など写り込まざるを得ない物があった。
逆に川面だけとなると何処かが判別できないため、出来うる限り差し障りがないであろう範囲で撮影した。
もちろん苦情などがあれば、即座に差し替えますので、御当地の方々は言っていただきたい。

さて堀子川であるが三面コンクリ−ト張りの何の変哲もない都市河川である。
この辺りは川底の両脇に先ずコンクリ−トの護岸を付け、更にその上に石組みの護岸があるという大変にこった造りになっている。
川は徐々に南西方向へカ−ブしていく。
少なくとも普通の都市河川の姿である。
何ら特別なところはない。
もっと汚水が流れていて汚いのかな、なんて思っていたが、良い意味で期待は裏切られた。

川沿いの道はまだ続く。
徐々に真すぐになったかと思うと、写真の先で直角タ−ンに近い角度で南へと流路を変える。
この堀子川、おそらく周りが都市化されていっても、改修されることなくそのまま都市化の波に巻き込まれたのか、結構蛇行している。
こんな都市の真ん中の河川にしては珍しく。
川沿いの道はれっきとした生活道路である。
その証拠に、柵も非常に新しい物であった。
かつてはもっと低い物だったのだろうが、最近は安全性重視のため、川に近づけないようにしたのだろう。
良いことなのか、悪いことなのか・・・。

屈曲部の川面。
かつて壬生近辺に染め物工場が出来た時代、西院風土記の中にも、染めに使った水がそのまま河川に流されていたようで、あまり綺麗な川、と言 う印象はなかった。
と言う文があったが今は汚くはないと思う。
それ以前に水位が低く、なかなか汚れを排出できないのではないだろうかと要らぬ心配もしてしまう。
えっ?、何で水がないのかって?。
それは堀子川が水源としている川自体、水源をたたれている川だから。
四条川と分岐していた時期は、堀川が水源であり堀川も当時はそこそこの水量があったようだ。
だが四条川が廃川となり今度は西高瀬川からの水を流すようになっても、昭和10年の京都大水害を契機に河川改修が進み、昭和19年には天神川の現流路が完 成。
その際に、西高瀬川は三条天神川の辺りで天神川に水を落とすようになってしまった。
そこから東は全く水の流れない状態になった。
ただ、何処から水が流入してくるのかは分からないが、夕立のような激しい雨の後には、一気に水位が上がる。
ここから川は住宅密集地のど真ん中を流れていく。
はっきりと言って川面を一望できる場所はなく、細々と切り撮っていくしかない。
川沿いの道がいきなり民家の軒先を通り始める。
おいおい。こんなの撮影できないじゃないか。どうすることも出来ないので、ここは撮影せずに先へ進む。

すぐに堀子川に架かる橋の袂へと出る。
しかし・・・いきなり堀子川の”上”に家っ!!
シュ−ルな光景である。

この橋は綾小路橋である。
残念なことに竣工年月日を記した銘板や彫り込みが見あたらなかったため、正確な竣工日時は不明である。
が、だいたいこういった河川に架かる橋はその姿で架けられた月日が分かる。
これは今まで調査した河川でも言えることなのだが。
*橋脚を支えている橋台部分が石積みや煉瓦積みである場合は相当に旧い場合が多い。
昭和の初期〜30年代が多いのだが、橋の銘板灯も、この時代には流暢な平仮名や漢字で書かれている。
また橋の欄干も昔ながらの背の低く、川面が見える物が多い。
そして橋の路面はアスファルトになっているが、旧い物は欄干や親柱の一部が石で造られている。
たまにこの時代のコンクリ−ト製の橋にも出会うが、相当な年期の入りようになっている場合が多く、明らかに新しい橋ではないと分かる。
だいたいに於いて親柱に彫り込みか石の銘板かがある。
*逆に新しい物は、金属製の欄干を持ち親柱に相当する部分も金属製のポ−ルであり、銘板は横文字で黒字に金色で書かれている。
それが欄干の袂辺りのポ−ルに張り付いている形となる。
橋自体もコンクリ−ト製であり、石を利用している橋はない。
これらのことから考えると、おそらく昭和の半ばに架けられたか、架け替えられた橋であろう。

しかしこれ悲惨すぎるぞ。親柱四基の内一基が欄干の一部分ごと削られてしまっていた。
まあ、目的があって、結果こうなったのだからあまり言うまい。
また橋の付け根の部分に石が露出していることがおわかりだろうか?。
おそらく、昔はこの石材で橋の路面が出来ていたのでは無かろうか。
しかし、石の路面は濡れたときに抵抗が無く滑ることが多いので、アスファルトにひきなおされたのでは無かろうか。
まあ、どちらにしてもこの橋が出来たときは、周りはどんな風景が広がっていたのだろうか?。
今とは違う風景だったことは疑う余地もないが、まさかここまでの変貌を遂げるとはこの橋自体も思ってはいなかっただろう。
そうそう。この橋の袂付近で、こんな物を発見した。
なるほど。
やはり、友禅流しが行われていたようである。
おそらく地元の小学生の作った物であろう。
良くできてます。
けど、今は「水が汚れたので」という自覚もちゃんとあるんだ・・・

そして、遂に恐れていたことが現実になってしまった。
川の脇の道はここで終わってしまい、両岸ぎりぎりに家屋が建ち並ぶ住宅密集地の中に入っていってしまった。
さすがに川に降りて進むというわけには行かないので、仕方なく川に架かる橋から撮影することになった。
しかも、堀子川は何度も書くように都市化に合わせて改修はされたものの、この辺りの流路に関しては全く手が付けられていない。
つまりグニャグニャと曲がっているのである。
そう言った河川は見通しが利かず写真を撮るにしても局所的なものにならざるを得ない。
何とかしようと頑張ったが、情報が断片的なものになってしまった感は否めない。

いきなり場所は飛ぶ。
一つ南にある橋だが、辨(べん)天橋と銘板にある。
かなり難しい書体だがおそらくこれは弁と書くのではないだろうか。
この橋にはちゃんと竣工年月日の銘板が残っている。
”昭和三十二年八月竣工”である。
しかしこれは狭い。
四輪車は幅が広い車だとちょっと無理っぽい。
言わなくても分かるだろうが。

ちゃんと堀子川と言う銘板も存在する。
おそらくこれは歩道橋専用の意匠なのか?。
これに似たデザインは紙屋川で何橋か見かけた。
こういった川面が見えない欄干を持つ橋は。
実は遠く福島県万世大路の大平橋や杭甲橋にも何となく似ている、と思うのは気のせいか。
でも、だいぶ年季が入っているなと言うのが正直な感想。

しかもこの橋の袂、何と神社の参道になっている。
豊康神社と言うそうだが・・・あんたは国家暗康 君臣豊楽の方広寺の鐘かよっ、って突っ込んだのは秘密です。
まあ、今度は文字を分断しているわけでもなく、豊康が同時に書かれているから、家康も秀吉も何も言うまい・・・。

この狭い道を抜けると・・・こんな感じで鳥居があるのだが、この神社、民家と民家の間に挟まれてえらく窮屈そうな感じがする。
この神社ですがお土居の上にあったものですが、移転させられたようで、そのたたりというのか、なんかすごいことが起こったようです。

この参道橋から南を望む。
あのう・・・・道ナイ(涙)

次に来る橋が仏光寺橋である。
この橋は新しい。
それもそのはず、橋の銘板には”平成十六年四月完成”とある。
おそらく旧橋は老朽化したため掛け替えられたのだろう。
撮影しているときも結構車の通行があった。
この辺りまで来ても変わり映えしない堀子川。
相変わらず三面コンクリ−ト張りの川面。
まあ、逆にいきなり石垣が組まれていたりした方がおかしいんだけどね・・・。

このように、川の上にも建物があったりするのも、何処の都市河川であっても同じである。

再び徐々に屈曲し始める堀子川。
つぎに川面が望めるのは、御前通りに面している場所になる。
無理矢理位置を示すと、御前通り高辻になるのだろうか。
とにかく交通量は狭い通りながらも多め。
残念ながら車がきれることが無く、車も一緒に入れて撮影せざるを得なかった。
 御前通りは北大路御前から九条御前まで、京都を縦に走っている通りだ。調べてみると、どうやらこの通り、北大路から南辺りで紙屋川の御土居とも接してい るようだ。

高辻橋も最近かけ直されたようである。

今度は竣工年月日から、橋の構成、さらには施工業者までが記された銘板付きである。
2000年3月・・・それでももう7年近く過ぎてしまってます。
橋の組成を示す鋼合成サンドイッチ構成ですが、私が説明しようにも訳が分からないのでこちらをご覧になっていただきたい。
つまりは鋼版を架設後に高流動コンクリ−トを打設して合成橋床を作る工法らしい。
一般的な工法よりコストも圧縮でき耐久性も優れているようだが、本当の耐久性はおそらくこれから試されていくであろう。
この辺りは通りぎりぎりまで堀子川が屈曲してきているが、再び住宅地の中へと進んでいく。

が、何気に川の横を進む道があったので進んでみる。
けど、ホントにこんな川が残っていたものだと思う。
この屈曲の具合なんて、そのまんまが残ってるんだから。
改修を受ければ、先ず間違いなくこんな屈曲など直線化されてしまったであろう
。おそらく改修しようにも、既に住宅地の中に取り込まれてしまったため改修不能だった、などかな、理由は。

まさにS字カ−ブ・・・とまではいかないけど結構大胆な屈曲具合である。
だが、肝心の川には悲しいほど水が流れていない。ゴミも目立つし・・・。

いきなり場所がとびとびになって申し訳ない。
正直出来うる限り川に近づこうと思ったが・・・
隙間ナイっ!!(涙)
川の両岸にぴっちりと住宅や私有地が面しており、下手に川に近づけないのだ。
こればかりは何ともならない。
場所は御前松原。道に似合わない、かなりの交通量の多さでありながらおそらくこの橋、旧橋のままじゃないだろうか。

少なくとも銘板も”ほりこがわ”とあるし、さらには”松原橋”と刻み込んである。
見えにくいので画像上に赤いマ−カ−で上書きしたが。
おそらく昭和30年代の元の橋の姿が、この松原橋であろう。この通りに面して京都市民病院がある。”西院昭和風土記”に、この病院に関しての記述がある。

”・・・今は御前通りに面しているが元は松原通から入った。
またこの病院の土地は元々水田で、そこへ御土居の土、二万坪を入れ地上げして当時、田圃の中に ぽつりと立っていた。
元々は伝染病患者専門の病院だった。建ったのは明治中期の頃だった。”(一部追記)

御土居の土2万坪と言ったら、結構な量である。
私は坪や丁、尺や 貫などの日本古来の単位には明るくない。
だが、これは調べてみると・・・
一坪とは3.30857平方メ−トル、略すると一坪=3.3平方メ−トルと言うことである。
つまりは3.30857*20000=66171.4平方メ−トル・・・てどんなものかがピンとこないので、よく大きな広場などと比較される”東京ド− ム”と 比較してみよう。
東京ド−ムは調べると・・・あったあった。
46775平方メ−トル。
な〜んだ。東京ド−ム1個半じゃん、なんて言う人は甘い。
あくまでこれは面積上、つまり平面の話である。
先程書いてあったとおり、”そこへ御土居の土、二万坪を入れ”とあるではないか。
平面だけでなく上方、つまり立体的に入れているのだ。
しかも元は水田。
もうこうなると軽く一山、とまではいかないが、”一丘”は軽く入れないとだめである。
プロジェクトXの羽田空港建設だったか忘れたが、土砂を入れども入れども沈むとまではいかないが、それに近いものはあっただろう。
しかも羽田空港は昭和に入ってからの話。
ここは明治中期に行われているのである。
おそらくほとんど総てが人力。
いくら西洋から機械類がもたらされていようとも、運搬は総て人手によるものだろう。
 なんかここでもプロジェクトXが展開されていても良いような気がする。

さて我らの堀子川は・・・なんな変わりもない。
橋の上から左が北側を、右が南側をそれぞれ撮影したものである。
 古地図を見ると・・・ごめん、結構流路が変更されてる、この堀子川。
そんなに大規模なものではないにしろ、明治後期と昭和初期でも御前通りが通り、それに伴ってやや東寄りに流れが付け替えられてるのが分かる。
さらに、少し上流では堀子川の分流か堀子川に流れ込んでいたのかは分からないが、分岐があった。
しかし、今ではその全てが住宅地や、道路の下になっている のだが・・・。
この辺り川堀子川は御前通りに近づきつつ、徐々に東へ流れる流路をとっている。
この区間を撮影しようと近所を走ってみたが、撮影不能
両岸に住宅地や私有地が隙間無く存在しており、これは無理。

仕方なくそのまま御前通りを南へ下ると五条通と交差する。
堀子川はやや東側にその姿を現しているが、その存在感のなさ、水量の少なさでもはや気にかける人などいようか?。
忘れ去られた河川かもしれない。

五条通に架かる橋の上から撮影。
左、北側、右、南側である。
南側の西側、空き地には最近までガソリンスタンドが建っていたがついこのあいだ更地になってしまった。
どうやら五条通が拡張されるようだ。
この辺りも相次いで今の五条通に面している部分の家屋が移転するか、取り壊されている。
まだ暫く住宅地の中を流れ続ける堀子川。
しかしここからは改修の手が入っているのか、屈曲はなくなり直線的な形状の河川になっている。

一つ橋はこの橋以北に架かっていたのだが、正直私有地かどうかの判別が付けられなかったので、撮影はしていない。
安念ながらこの橋は銘板の類が一切見つからなかったので、竣工年月日や工法などは不明である。
銘板はおそらく裏面か、袂の下当たりにでも付いているのだろうと思ったけど、残念ながら橋脚の裏側にも何もなかった Orz

場所は”西七条赤社町南部”になる。
もうなんて言うのかこれ、排水路だね。
全く普段は水が流れていないのに、雨後だけ強烈に水かさが上がるもん、この堀子川は。

そこを過ぎると川はいよいよ堀子川最大の屈曲部を向かえる。
いきなりの90°直角タ−ンである。
南向きの流路をいきなり西向きに転換する堀子川。
旧い地図で確認すると本来の流路は屈曲部のやや南側で、このような逆"L”字型の屈曲ではなく、緩い"U”の字型で西へと流れていた。
ここからは確実に改修によって手の加えられた堀子川な訳だ。

その屈曲部の手前に架かる行衛橋、新しいな・・・。

と思っていたら、何と私より1X歳も若いじゃないか(涙)。
御歳20歳、ぴちぴちだね(2008)

それを越えると今度は初めて御前通りを潜っていく。
橋の欄干に掲げられている標語であるが、まことにその通りである。
川にゴミを捨てれば、巡りに巡って、そのゴミは還ってくるのである。
捨てた人の所へと。因果は巡る。まことにその言葉通りである。
ここで、一旦そこそこの水量になった川は一路西を目指す。
両側には道が整備されており、川を辿ると言うときには最高の好条件である。

この辺りも昔はやはり水田だったようである。
すると、この堀子川というのはまさに命の水であったと言っても過言では無かろう。
たとえ”濁流、飲用に堪えず”であってもだ。
そもそもこんなに川底が深かったのか?。
いや、おそらく掘り下げられたのだろう。水害を防ぐためには。
ただ、結果的に水害はなくなったものの水田や耕作地は命を奪われた結果になる。
最も、都市化が進み始めていたからこそ、改修も出来たのかもしれない。
今ではもはや水田や耕作地など、見あたらない。
菜園なら近くで見かけたこともあるが・・。
今、この川はどういった想いで周りを見ているのだろう。

少し進むと石ヶ坪橋がある。
これは旧い。
こんなかっちりとした書体で刻印されている橋というのは。
親柱自体はおそらく昭和初期のものではないだろうか。

あ、ありのままに今おこったことを話すぜ・・・俺は掘子川を撮影していたのに、いつの間にか、川が西高瀬川になってたんだ・・・
Pルナレフさんのテンプレにも使えそうなこのかわりっぷり・・・。

だが・・・何故に”西高瀬川”なのか?。
おいおい、いつの間に切り替わっちゃったの?、堀子川さ〜ん。
どうもこの橋、親柱とは別に架け替えられたようだ。
親柱は旧いが橋脚は新しい。
いつの間にやら切り替わってしまったがもう暫く、この先、西大路通近くまで進む。
今回のレポ−ト最大の発見はそこにあったから。
親水性は皆無なものの、河川の様子が変化し始めるのもこの附近から。
ただ川面に降りようとすると、取っ手かはしごでしか下りられないので、基本的にこの河川はNo Escapeです。

もうただ、ま〜すぐに西を目指す堀子川。
旧流路はこのすぐ北側を流れていた。
写真左は石ヶ坪児童公園。そして奥が七条第三小学校である。

壁面のタイル地が変わった。
何でいきなりこんなケバケバしいデザインになったのか。
しかもこの一帯だけである。
う−ん・・・学校からの要望で何か行われたのか?。
謎である。
何も史料のような物が見あたらなかったので正直分からない。
何か情報をお持ちの方はご一報お願いしたい。
で正直、ここでも探してみました、堀子川の旧流路跡を。
おそらくこの七条第三小学校の西端付近を抜けて南に流れていたものと思われますがこのレポートはこちらで書きたいと思っています。

しかし、以下の思いがけないものを発見しました。

小学校川を調べて対岸を撮影したときに対岸に一本の杭を見つけたわけです。
ん、あんな所に杭があった?。
私、いつもここら辺通ってるんだけどなぁ〜、と思って近づいていくと・・・

き、き、き、き起点キタ−−−−−(゚∀゚)!!!
これはさすがにびっくり。
と言うか、河川改修されてしまっていたので、当然起点標など残っていようはずもないと思ってましたから。
見つけたときはさすがに灯台もと暗し、というのはこう言うことを言うのだろうな、と思ってしまいました。
この杭の刺さっているこの場所こそ、西高瀬川の源流になるのでしょう。
水は漸く流れるぐらいになってはきたが、この辺りでは河川と呼ぶかどうかは微妙である。
実際西高瀬川が河川と呼べるほどの水量を持つのは、吉祥院下水処理場から高度処理水を合わせてからである。
それまではこのような殆ど水の流れない河川が、これより下流に広がっている。

それにしても、何という哀れな扱い方をされているのだろう。
先日天神川の源流まで行って来たが、もっときっちりとした起点標が建てられていた。
それに比べてこれ・・・ガ−ドレ−ルに縛り付けなんて・・・・(涙)
書かれている文字は次の通りである
”起点”
”○○○(判読不能)一級河川淀川水系西高瀬川”
”工事番号 京10みやこ1第1052号1の3”
”請負者 森田土建株式会社”
残念ながら日時は書かれていなかった。
書かれていたのかもしれないが消えたのかもしれない。
ここまでが堀子川、と言うことになる。
実はこの50m手前にもう一箇所起点標のような物があったのだが、こちらは殆どペンキが剥がれ落ち判読不能であった。
こういった物は大切な物なのだから、経年変化に堪え得るように造って於いて欲しい。
そうじゃないと、こういう物の意味がない。
掘子川旧流路はここから南に流路をかえ、流れていった。
正直ここから南にあるのは住宅地であり、さらには西大路通りが通っており更に東海道本線まである。
川の遺構が残存している可能性は少ないものの、地形まではかえられない。
そこで、思わぬ遺構に出くわすの、少し後の話。

堀子川は確かに現存している。
かつて、堀川より水を分け流れていた河川は今も確かにここにある。
だが、これでは死んでいるのも一緒のことである。
かつて水運にまで使われていた河川は役割を終え静かな眠りについている。
川に持ち主から捨てられた傘が落ちていた。もう、持ち主の手に返ることもなく。
忘れられたように、そこにあった。ふと川が私に言ったように聞こえた。
私もこうなってしまうのか?。
元の姿に戻ることはないのか、と。
私は何とも言いようのない、いたたまれない悲しさを覚えて、この写真を撮影後、口をつぐんで立ち去った。

堀子川 完

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