御室川旧流路(2) 2008/07/31〜11/30 暫定公開版

国土地理院 航空写真 整理番号 CKK-87-1 地形番号NI-53-14-7 撮影コ−スC7 写真番号11に画像処理を施した。

今回の河川跡はそれこそ住宅地のただ中を抜けているために、そのものズバリという場所に行き着くのは非常に難しく、「おそらくここであろう」という推測の 域が多くなってしまったのは、謝りたい部分です。
加えて完全廃川なので流路跡が分かりにくく、赤のペイントで「だいたい」の位置を示してみた。
こんな感じ〜、のように受け取っていただいて、後は各自、適当に脳内補完していただきたいです。


それを踏まえていただいた上で、先ず見ていきたい場所は西京極堤外町と西京極西川町との町境界、天神川現流路と御室川旧流路とが合わさっていた箇所、最下 流部。
写真内の橋は川勝寺橋。その南側辺りをかつて、御室川旧流路が流れていました。
赤くペイントした辺りがおそらく、天神川現流路と御室川旧流路との接点。
どうですか?、ご覧になったあなたの目には合流地点が分かりますか?。
私にも分かりません。これは。
 第一、地形が完全に改変されており、改修工事が行われていた当時とは全く異なってしまっていますし、何より、天神川通りが全ての跡形を抹消し てしまっています。
第二に河川跡が住宅地に変わっており、それによる地形の改変、もとの地形が残っているとは思っていなかったですが、ここまでとは・・・
古くは川勝寺と呼ばれたこの地域は、市内中心部から伸びていた山陰街道に沿って栄えた場所でした。


現在地
では、おそらく河川跡であろう場所、それはどこになるのか?。
その答えは地図帳にありました。(転載は禁止ですので、各自地図帳を見て下さい)
昭文社の地図でも他社の地図でも良いのですが、私が使っている昭文社の「街の達人 でっか字 京都大津便利情報地図(2008年1版9刷発行)」内で見る と、この御室川旧流路辺りはそれぞれ「西京極西川町」と「西京極堤外町」の辺りにあたる。
その地図を見てみると奇妙に曲がった町と町との境界が見て取れます。
それを昭和21年当時の米軍撮影の航空写真と照らし合わせると・・・、この「西京極西川町」と「西京極堤外町」との境界が御室川旧流路に当たっていた可能 性が非常に高いと言えます。
かなり分かりにくいので図を描いてみました。こんな感じだったわけです。
で、その現状はというと・・・。



・・・住宅地のまっただ中です(涙)。
どこをどう見たって川跡なんかはないっ!!(滝涙)。
しかも町境が指し示すところにあるのは・・・・住宅地、マンション、墓地・・・。
無理無理無理、これはダメです、撮影できませんて。
差し障りのない写真は上記の道を撮した写真、この右側を流れ、先の行き止まり辺りで今度は西京極球場方面へと流れていくのが御室川旧流路になります。
適時脳内で補完しつつ見て下さいませ。


ここは花屋町通りと天神川通りの交差点。
先ずはここから南の御室川旧流路をご覧になっていただきたい。
・・・どうでしょうか?。
こんな感じです。
場所的に言うと「西京極西池田町」になります。
ちょうど中央に見える住宅の辺りから西京極球場方向に向かって流れていたようです。
そしてその河川は・・・



・・・よっと。花屋町と天神川通りの交差点北側。
横手には天神川現流路が流れています。
で、御室川旧流路はどこへ行くのか?。
当然、交差していくんですよ、天神川現流路と。
無論当時は交差などしていませんでしたが、御室川旧流路と天神川現流路とが「だぶって」いたところがこの辺りより少し先になります。
それで、どこに御室川旧流路が流れて行くのか、目の前の阪急京都線を潜っていきます。



ここのガ−ド下は電車が通ると、ものすごい音が下に響くので、出来るだけ通りたくないんですよ〜。
このガ−ド下を抜けて、新しく出来た西京極橋の付け根辺りから、西京極公園側へと流れていました。が、まるで跡形無し・・・。
 だって、廃川後からもう60年も経っているんです。
これだけ整備されてしまうと何も残ってはいない・・・残念。


現在地
ですが、西京極球場内に入ると河川跡は道路として再利用されています〜。
古地図と航空写真から割り出すと・・・って、航空写真でもそのものズバリが写ってました。
やっぱり河川跡は道路だ〜。
いやホント。だって西洞院川、堀川、鍋取川にしろ、悉く暗渠になってますし、やっぱりここも予想に漏れず道路でした。
この西京極公園は今上天皇(昭和天皇)のご成婚を記念して昭和3年から工期を分けて造成されていった公園です。
戦時中にはグラウンドが芋畑になったり、敗戦後の昭和21年にはこの場所で初めての国民体育大会(国体)が行われたりもしましたし、平成に入ってからは阪 急京都線を挟んだ南側に「アクアリ−ナ」というプ−ル施設が建設されました。
その時に徐々に設備も近代化されはいるのですが、照明設備がなかなか古いようです。



野球場脇の街路樹。
御室川旧流路はどこ?、と思われるかも知れないが写真でいうと赤のペイント辺りを流れていたと思われます。西京極運動公園内は何とか管理道路に転用されて いて、河川跡としては残っていませんが、地図上にその姿だけを留めています。 ここ、春に来ると、新芽が綺麗で、夏に来ると濃緑色に繁った葉が力強く伸び、秋に来ると、このように紅葉が綺麗です。
結構見ていると飽きない場所なので、私は好きです。


周回道路はそのまま北を走る五条通方面へと進んでいきます。無論河川跡を利用しているので、やや北西を向いてですが続いています。
大正後期から、終戦直前の地図を見ると、この横には牧場があったようです。
今もそれっぽい名前の建物があったりします。
この辺りは広場になっていて人通りもあり、明るく開放的な感じがします。
夜はあんまり通りたくないですが・・・。
ちなみにこの公園、朝は4時頃から歩いていらっしゃる方もいますし、まさに近隣にとけ込んだ公園となっています。
さらに「京都パ−プルサンガ」やプロ野球などの催し物がある場合は、阪急も普段は普通、準急しか停車しないこの駅にも、特急などが臨時停車するので、かな りの集客力を持った場所でもあります。



河川跡はというと、こんな感じ。
まだまだ周回道路に沿って流れていたみたいですが、ここから先、野球場を過ぎた辺り。
左手には陸上競技場、そして大きな木々が立つスペ−ス・・・・・え”っ・・・。


どう見ても残っていませんね、本当にありがとうございます Orz
行く手を塞ぐは市立体育館。
存在感たっぷりに河川跡の上に鎮座されていた。
航空写真から割り出すとね〜、どう見てもこの辺りを流れてるのよ〜(涙)
うむむ・・・。この体育館ですが結構頻繁に使われており、先日は大相撲が来ていたりもしたし、稼働率はそこそこだし、土日になれば何らかの競技で使われて います。
しかし航空写真で見ると、昭和49年当時でも既に流路に被るようにして体育館が建っているので、おそらく検索しても無駄だろうな、と思っていましたが本当 に無駄でした。

第一有無を言わせぬこ建ち方・・・どうしてくれようか・・・。
これはとっと迂回することにした。
航空写真では、御室川旧流路の屈曲点がこの直ぐ北にあったはず。
全くの道路敷きになっている旧流路跡付近。
この体育館は昭和47年度の航空写真でもこの位置に存在しいることから、不動物として使える。
五条通に面している辺り、陸上競技場へと続いていくこの通路入り口にある広場あたりが、おそらく御室川の屈曲点だった場所。



この辺りになるのかな?。
昭和21年当時の航空写真を今回は主に使い検索したのですが、言えることは当時はそれこそ田圃の真ん中であったと言うこと。
五条通もない。
御室川旧流路自体は当時は既に廃川となっていた。
その東方には天神川の現流路、当時は洛西運河とも呼ばれていた流れが出来ていた。
この屈曲点を期に、流れは方角的にいうと、北北東から流れてくるのが航空写真より見分けられる。そして、緩やかに北北東に流れつつ、小さな蛇行を繰り返し て、四条通方向へと続いている。


現在地

現実に戻ると、目の前の通りが五条通。
京都市を東西に貫いている交通や物流の大動脈にあたる通りであり、交通量は終日多い。
この五条通もこの辺りまで延伸されてきたのは昭和30年代後半になってきてからで、それまでは南方面からの道が主に使われていたようだ。
片方2車線のごく標準的な道路であるが、西大路を越えて暫くしてからは3車線、もっと行けば4車線の(京都にしては)語り幅の広い道路になる。
余談だけど、西大路を越えた東側は家屋の立ち退きなども進んでおり、2014年3月に西大路五条付近まで拡幅された。
 ここから先の御室川旧流路はそれこそ殆ど跡形もなく廃川化が完了していて、その殆どが道路敷きか住宅地となっている。
今の場所は五条通を越えて西京極郡町と西京極南大入町の町境にある道路を南から北に見ています。
おそらくこの近辺、少し東側を御室川旧流路は流れていたのでしょうが・・・



これは・・・残ってないよ(涙)。
うん、どうあがいても完全消滅。
住宅地だってば。
さすがに人様の庭先には行って撮影でもすれば不法侵入になりかねないので勘弁していただきたい。
しかし、この地域の人々は、御室川旧流路が廃川となると水には困らなかったのだろうか?。
たしかに水不足には陥りそうではあったけど、そんなに困らなかった(イヤ、農業自体はすっごくたいへんなことと言うのは分かっているんですが・・・)と思 います。
どうして、って聞かれると、こういう看板を見つけましたから。


場所は西京極郡町の五条通に面している道路を少し西に行ったところ。
住宅地の中に組み込まれるようにして残ったのうちの脇に、このような看板が掲げられてあった。
”西高瀬川改修水源代替保証事業 揚水機工事””昭和56年6月竣工”
・・・う−・・・なんで西高瀬川?。
net上を探してみたがそれらしい情報は何もない。
ここであれば・・・・どう考えても”天神川”でしょ?。
それに昭和56年であれば、御室川旧流路が廃河川になってから30年以上の月日が経っているし・・・。
この近くを昔は幾多の小河川が流れていたようですから、その名残なのかも知れませんが、詳細は残念ながら不明。
この位置に揚水場があると言うことは、井水(地下水)もあると言うことでしょう。
確か堀川筋では御池以北だと60m迄掘らないと井水にはたどり着かず、御池以南だと、それ以上の深度でなければ地下水は出てこない。
 天神川筋はどうなっているのかは分かりませんが、周りが全くのコンクリ−トやアスファルトで固められている昨今、ここでも結構な深度が必要なのではない でしょうか?。 五条通を超えた御室川旧流路は西京極南大入町と北大入町のほぼ真ん中あたりを流れていたように見受けられますが、今では「そんなもん、どこにもねぇ〜 (涙)」
このあたりではあろうけど、どこにもそんな痕跡すらない。
ここから先もしばらくは何も河川跡がない状態が続くので少し先を急いでみる。
とにかく全くこのあたりでは開発が完了してしまっている状況なので、河川跡など、当然ありません。
そして、漸く見つけた河川跡であろう地形跡は西院西貝川町の住宅地にありました。

どうでしょう、分かります?。
奥の住宅地に向かって、かなりの傾斜が付いているのが。
この辺りがおそらく御室川旧流路の西堤に当たっていた場所ではないでしょうか。
じゃなければ、こんな傾斜が付いているはずないですもん。
それに、ちょうどこの辺りは航空写真で見た河川跡と一致する場所にありますしね・・・。
で、ここに現れた河川跡らしき地形はと言うと・・・直ぐに住宅地の中に消滅しているのでした(涙)。
う−ん・・・ホントにないね、これは。
暗渠化されたわけで もないからね〜・・・、暗渠化されたら道路にコンクリ−トの蓋だのが残るんだけど、これには全くそんな物のこってないから〜。



この辺りから、もう少し北に進むと、北側には市西部土木事務所や建設局放置車両対策課、区役所証明書発行コ−ナ−などが集まる一角、南側には右京まち美化 事務所があるブロックにたどり着きます。
場所は西院西貝川町。
そのブロックの南西角から東を撮影したのが上の写真です。
道の真ん中に微妙な隆起があるのがお分かり頂けますか?。
多分そこが、御室川旧流路の跡の地形です。
ここから旧流路は徐々にかなり北寄りに流れていっていますが・・・
が・・・


現在地
どうみても工場内敷地です、本当にありがとうございました Orz
今いる場所は西院西貝川町と太秦巽町の境界、四条通南側から太秦巽町方面を撮影しています。

なにが、あっちゃ−って、目の前に建っている工場ですよ工場、奥さん。
天下の三菱自動車工業・京都製作所ですよ。
だってこれ昭和21年当時の航空写真にだって写ってるんですって。
つまり、この工場の敷地内を流れていたって事。
更にまずいのは、これ・・・中入れないでしょ・・・・。
むりむりむり!!!。
この工場では主に名前の通りに、自動車の部品製造から組み立てまでを行っているらしいですが、これ広大な面積ですね・・・。
地図上の縮尺から計っても、東西で1km近く、南北でも4〜500mぐらいあるんですけど・・・・。
しかもその四条通沿いを流れる・・・っていうか、そこにある側溝は”古高瀬川”の跡なんですけど・・・。
かつて、西高瀬川は江戸時代にはこちらの四条通沿いを流れていたという記述を見たことがあります。
そして四条通で四条川に合わさってそのまま、と言う言葉には語弊がありますが、南流していったのを、幕末に江戸幕府がまず三条側に付け替えたものを、明治 に入って直ぐに明治政府が更に改良したのが今の西高瀬川であると言う記述を見かけました。


 で、四条通を渡って河川疑定地に立ってみると・・・・嫌でも目に入ってくる古高瀬川。
まぁ〜、見事に三面コンクリ−ト張りの都市河川の典型例。
まさに教科書に出てきそうな端正な現在の都市河川です。
しかもこれって・・・・降りたらなかなか上がってこれないよね・・・(汗)というか、多分上がり口がなければ、まさか天神川現流路まで行かないと脱出でき ない(汗)とか。
 
合い言葉は「No escape!」降りたら上がってこられない(-_-|||)

少し東に行くと、天神川通りを越えていく寸前で深く落ち込んでいく古高瀬川。
ここだけ昔の石畳のような物が使われているっぽい。
いちいちそんなところまで改修しないんだろうな〜。
改修は河川課が担当しているのか、下水道課が担当しているのかはしらないけどね。
で、問題の御室川旧流路は、と言うと・・・。
残念ながら、やっぱり工場内を流れていましたので、現状ではこの工場内に入れなければ撮影できませんので、むり。
 そのかわりと言ってはなんですが、ここから先の御室川旧流路は面白い形で、流路跡が残されています。
地図をWEB上に公開することは出来ないので、私の使っている「街の達人 でっか字 京都大津便利情報地図(2008年1版9刷発行)」の中では町と町と の境界が描かれていますが、その境界線がどうやら御室川旧流路を境にしていたようで、太秦木ノ下町と山ノ内荒木町、太秦野元町、太秦野元町などの境界が曲 線に沿って描かれています。
この町境界が、そのまんま旧流路にあたるわけでして、そこを辿ればいい、と仰りたいのは山々分かりますが・・・



けどね、三菱自動車工業・京都製作所に隣接するように京都外国語大学の分館があるのよ〜、これまた何も許可を得ていないので、入るわけには行かないのよ〜 Orz
上の写真は歩道から望む、京都外国語大学のグラウンド。
申し訳ないですが、後ろが車道で引きが全くなく、この写真を撮影するので精一杯、ごめんなさいで す。
分かりにくいので、この置くにそこそこの広さのグラウンドがあり、その中央部分辺りを御室川旧流路が流れていたようです。
もちろんその流路跡は、昭和21年の米軍撮影、航空写真でさえ既に建物が建っている様子がうかがえましたが・・・



んでもってちょっと早送り。
上の写真は太秦木ノ下町内の生活道。
同町と山ノ内荒木町との境界、つまり旧流路の土手に存在したであろう道路がそのまま残されています。
左側の写真で道が屈曲している具合がお分かりになるでしょうか?。
この屈曲こそが、御室川旧流路に沿って そして、この直ぐ北側には西高瀬川が流れています。

現在地
ちょっとややこしいので図で説明するとこのようになっていたようです。
現在の位置にある不動物は、図中の天神川現流路と、三条通・嵐電、西高瀬川の天神川より西の流路は不動物と言っていいでしょう。
 そして御室川と西高瀬川はどのようにして交差していたか、ですが、おそらく立体交差。
御室川旧流路の明治初頭での各地域の記録では・・・”平常時には殆 ど水がない、雨になると増水して、堤防を害することがある”でした。
と言うことはおそらくこの辺りでも殆ど水が平常時には流れていなかったのでは、と想像できるんです。
そして、現在の天神川現流路も、一部分は御室川旧流路を使って造成、と言うかそのままこの箇所は流路として流用されたみたいです。
 更に河川の変更が行われたのはここだけではないみたいです。
西高瀬川の天神川東側も流路の変更があったようです。
しかし、今は御室川旧流路の検索なので西高瀬川は跡でレポ−トしたいと思っています。
今はまず、御室川旧流路。
では、西高瀬川と立体交差をしていたであろう場所に行ってみましょうか。


なにもない〜 Orz
・・・そりゃ残ってたら逆に怖いよ・・・。
ここが先程の道と西高瀬川が面する場所。
ちなみにここの直ぐ東側は天神川現流路と、天神川通り、さらには嵐電が入り乱れる場所。
目の前にはたか−いマンションが建ってるし、商業施設やらなにやらも立ち並んでるし、少し北に行けば今度は三条通が迫ってくるし・・・。
 なんかこう多重交差な場所なんだよね、ここって。
そして、我らが御室川旧流路は、多分上の図のように天神川現流路を流れていたものと思われます。



ここは見所一杯。
まず対岸に見えるのは寸断された西高瀬川の東側。
天神川現流路を造ることによって寸断されることになった西高瀬川の半分、その源頭部。
勘のいい方は気が付かれているかも知れませんが、この寸断された東側半分、どうも面白い特性を持っている河川みたいです。
この寸断された側の西高瀬川は、分水嶺が西大路三条辺りにあるらしく、そこから西に向かって流れる水と、東に向かって流れる水とがあるようです。
つまりこっち側は西大路三条からの流れの河口にあたることになります。
聞いた話なので不確定な情報ですが、いずれここにサイフォン式で西高瀬川の水を東側に越えさせるか、ポンプで送水するかして、西大路三条まで水を流し、そ こから水流を復活させようと言う動きもあるようです。
これが実現すればかなり凄いことですが、いつになる事やら。
しかし堀川は水の流れが復活しそうですので、あながち無いとも言い切れませんね。
そして、西高瀬川の天神川から西側の流れ、これの吐水口も少し南に曲げて造られています。
写真がごちゃごちゃして申し訳ないですが、この西高瀬川の水量によって、天神川の水が干上がるかどうかが決まってきます。
実際、夏の暑い時期や、冬の寒い時期には、八条通辺りから南側には水が表面を流れずに、おそらく伏流水となって流れていくため、都市河川のように整備され た姿でありながら、枯れ川の様になります。それはこの西高瀬川の水量いかんにかかっています。
上の写真、手前の下に見えるのが、その西高瀬川の吐水口、その向こう側の橋梁が嵐電、そしてその嵐電の袂に、分かりにくいので○を描いていますのが、西高 瀬川の東側河口。
 奥には三条通の橋梁があり、そこを昔は御室川旧流路が流れていたりして・・・もう、訳がわからん、なほど、過密していた場所なわけです。
今でも過密しているのに違いありませんが・・・。


で、ちょっと進むとあるのが、”サンサ右京”。
かつての右京区役所は広隆寺の近くにあって、道は狭いし車は多いし、行くのが不便なところだったのですが、3月にこちらに移転してからは、天神川通りに面 していて、交通の便も良く、さらには嵐電天神川、地下鉄東西線の「太秦天神川駅」も出来てかなり便利にはなってきました。
けど、河川跡を探している私にとっては、もはや後の祭りというような状況であることには変わりない訳で・・・(涙)
まあ、サンサ右京の中には右京図書館も移転してきたので、右京区の施設が集約されたと言ってもいいぐらいですし、無駄に広い建物になったな、と思う面もあ ります。
ちょうど写真の中央、南東側から御室川旧流路は流れて・・・


現在地 ここでも、再び、町境界が旧流路のようです。
太秦安井松本町、太秦下刑部町、太秦上刑部町の町境界に引かれている線、それの指し示している場所・・・。
サンサ右京とマンション郡、さらにその北側にある大日本印刷・・・。
も〜何も残っていないと言わんばかりに建物が建っている!!。
そして、その想像通りに何も残っていない。
更に、川跡には大日本印刷のでっかい工場が建っている・・・。
そのうえに、川跡を想像させるような俯瞰撮影の出 来る場所がない(涙)。
いったいどうしろと!?。



御池通の拡張部分から、南側にサンサ右京を望むと、ちょうど建物の北西角あたりを流れ・・・。


どう見ても絶望的です、本当にありがとうございました Orz
どないせいっちゅうの!?。
ここから先はまず地下鉄連絡口、その先に大日本印刷の工場地。
その間にも、当然柵が設けられていて・・・問答無用の立入禁止でありました・・・。


天神川御池の橋の上からは、天神川現流路と、御室川現流路の合流点が見えます。
 御室川はかつてはここを流れていたかも知れませんが、天神川は全く違う位置を流れていましたが、今現在では、こうしてここで水を会わせ、御室 川という名前も、ここで消えています。
全く違う場所を流れていた天神川が、こうしてここで合わさることになったのは昭和10年の京都大水害に端を発した河川改修によってです。
西院昭和風土記の中に以下のような記述があります。
 「天神川は御室川と合流させる。
その合流地点は現在の天神川御池、大日本印刷の工場地より50m南で、その地点と、桂川の吐水口を直線で結んだ線上に新た な川道を造る。
また天神川の二条以南は廃川とする。」
天神川のことについては述べられているが、御室川のことについては述べられていなかった。しかし、御室川も昔の流れは廃川となった。
昭和19年度にほぼ全ての工事は完成し、天神川と御室川旧流路は廃川となりました。
時、昭和20年に入ってからと記してあったような気がします。
こうすることによって、西院の地域内で天井川だった天神川、御室川の旧流路は消滅しました。

天神川現流路を横目に見ながら北へと進み、公園を対岸に見ながら走ります。ここの公園は、春になると桜がとても綺麗な場所です。
今はもう、枯れ木になりかけてますが・・・。

そして途中にある橋を東側に渡って来たに行ったところの対岸、この辺りが御室川旧流路と現流路の分岐点になっていたところです。
(赤いペイントのように掘り下がっていたとは考えられませんので、この辺りは適切、脳内で補完してご覧になっていただくことをお願いいたします)
これ以上先は、旧流路がそのまま現流路として使われているわけですし、いずれ御室川現流路としてレポ−トしたいと思っています。


水害に悩まされてきたのはいつの時代も同じ。
かつて明治時代にもこの河川には手が入れられました。
葛野大路七条を少し西に行った所、かつての山陰街道と呼ばれた路に「治水碑」と言う石碑が建っています。
石碑にはその治水と改修記録が記されています。

現在地


     貴族院議員丞五位勲二等男爵北垣国道蒙額 山田保多書
平安城西雙岡以南田野平擴村落相望御室川貫其間南流入桂川平時水涸無濁
滴暴雨則濁流奔溢殷堤浚田其害甚大脩治之費後作之勞村民常患之京極村長
湯川半左衛門○相議太改脩之梅津西院吉祥院三村咸齎之遂請官○旡明治三
十三年十一月剏工三十八年一月告竣改流域減長十二間餘而加廣二間廃沿川
地五千八百九十歩脩兩堤長各千六百八十間餘高一間六分厚三間而其上綬三
分之二費金貳萬九百八捨圓其六出於官其四係村民出於是村民始免積年之患
矣乃相喜曰嗚呼足擧也能除難除之害以永福利宣建碑不朽其功遂来牽予文予
以郡宰親董是後當事吏胥皆能竭力槻書以致是喜而村民之喜乃予喜也因不離
而係以銘曰
不溢不壊    偉哉治水    一侘負○    紀功志喜
明治三十八年六月 京都府葛野郡長従六位勲六等 有告三七○
* ○は解読不能、又は当てはまる漢字が不明
元のサイズの画像はこちら(*注意 900KB程度あります。)


田畑を広げ、人々の豊かな暮らしを実現するために河川は堤防を造りこそすれ、出来るだけ元の姿に近い形で、人間と自然は共存してきました。
しかし近年では、自然に勝ったと思えるような振る舞いをすることが多くなりました。
別にそれが悪いとは言いません。
実際私たちはその恩恵に浴しているわけですから、何も言うことなどできようはずもないでしょう。
 けど、私たちは常に自然と隣り合わせだと言うことを忘れてはいないでしょうか?。
川が無くなれば水に困る場所が必ず出てきますし、地下水の水位にだって影響を及ぼすでしょう。
確かに御室川は厄介者で嫌われていたかも知れません。
その厄介者を始末したからと言って、誰からも何も言われるわけでもありません。
しかし、ある意味合い私は人間と河川、どちらもが被害者になったと思います。
川はその姿を消すことで、色々な場所に影響を与えて、そして人もまた、自然と隣り合わせと言うことを忘れたのだ、と思います。
環境破壊など身近なところにはないと思っていても、思っている以上に身近なところで、それも大規模な環境破壊が怒っていることだってあります。
それに気が付けるかどうか。
自然を知らなければ、自然が壊されていくと言うことさえ分からなくなっていきます。
それが幸福なのか不幸なのか・・・・
過ぎたことは言っても仕方がありませんが、どうか、どうか再び私たちが自然というものに再び向き合えるように、祈ります。
御室川旧流路・完

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