瀧尾川・支川、一ノ橋川 2008/07/04

国土地理院 航空写真 整理番号 CKK-74-15 地図番号NI53-14-3 撮影コ−スC8 写真番号19の一部を切り取り画像処理を施した。
原 図はこちら

瀧尾川には幾つかの支川があったことが分かっている。

一つは大谷高校脇より新今熊野神社脇に流れ、現在の新幹線や東海道本線のある辺りが源流であった河川。
もう一つが醍醐道より今熊野泉山町〜剣宮町の山地北側を沿い流れ、最終的に剣宮町内で瀧尾川に合流していた河川。

どちらも明治期、大正期までの地図では流れが確認できるものの、昭和に入り、平成に時代が移った今、地図上から姿を消している。
しかし、瀧尾川を調査中に出会った男性の話を思い出した。

”滑石街道(現、醍醐道)と言う道がこの山(この時の現在地は剣宮町)の向こう側にある のだけど、その途中に落ち込んでいる谷が存在する。
その谷が、支川の源流のようだけど今は大きな砂防ダムだけが残っている。水は全くないよ。
上流部にゴルフ場やテニスコ−トが出来たから多分水道(みずみち)が変わってしまったんだと思う。
それらが出来るまでは結構な水量があったんだよ。”


・・・ふとその話を思いだした私は早速その支川を調査してみることにした。
昭和中期にはその姿を消してしまっている瀧尾川の支川。
まず何も残っていまいと思い歩を進めたが、そこで出会った幾つかの発見・・・。

ここは東大路、東大路通りと醍醐道の交差点。
少し南には東大路通りまで枝を伸ばす木を擁する新今熊野神社がある。
又、交差点のすぐ北側はJR東海道本線が存在しひっきりなし・・・とまでは行かないが、かなりの量の電車が行き来する場所でもある。

さて、これから辿っていく醍醐道であるが・・・何でいきなり登りなの〜(涙)
見る限り商店と住宅の混在している地域を登っていくようだ。
地図上で見ると、東山山地まで続く登り。
更に・・・狭くなっていくんですけど!。これ。
大丈夫ですよね・・・。
 この時は分からなかったが、事実、道はていく。
道沿いは商店と民家が混在しているが、この醍醐道は明治、大正期にもその姿を見ることが出来る古い街道である。
そもそも大石内蔵助が腰掛けたいし、なんて物があるぐらい古いのだ。
しかし、そんなことはお構いなしにドライバ−の皆様は歩いているこちら(本日は徒歩です)が顔を青くするほどの速度でびゅんびゅん登坂を上がって行かれま した。

 と言うか、道が狭くなるとこちらが民家の軒先に避難しなければならないほど狭いのです。
しかも2tダンプが2台連なって爆音を響かせて背後より接近してきたときは、本当に震えが来ました。
所々にあるミラ−が無かったら確実に事故多発の危険地帯になっているでしょう、この道。

途中、色々と道は分岐していくし、醍醐道自体もどんどん登っていく。
すぐに東山山地が間近に見えるようになってくる、所でありました。

”落石注意”。
何となくいや−な感じがしますが、これと言った危険地帯はありませんでした。(と言うか、この道自体が危険です!!)
途中のヘアピンカ−ブでコンクリ−トに固められた法面を見て、”ここだろうな・・・”と思う箇所はありましたが・・・。
 又、これ冬になって凍結したりすると非常に危険だろうな、と、車の運転素人の私でも分かります。
まぁ、最近は京都市内で雪が積もること自体希なので、なかなかつもったりはしないでしょうが、積もったらかなり危険。
しかもこの辺りは既に車一台の完全な一方通行に近い道なのに・・・、何でこう両方向からひっきりなしに車が来るのかなぁ〜。
どちらから来る車にしても、やっぱり完全に制限速度を超えているような気がする・・・。

この辺りから民家の軒先がヘアピンカ−ブと言うような異様な光景が見ることができる・・・と言うか、徒歩では怖い。
自転車で来るなんかもってのほかだ。
しかも途中の分岐などは坂の途中に車をバックで停めてあった。
少なくとも、私はこの付近へ絶対に車で来たくない。
と言うか、住めない。

途中、ヘアピンカ−ブ部分でいきなりの二車線・・・と思ったらここだけで、後も先も一車線でした。
少なくともここのガ−ド・・・大丈夫か?。
大型車が突っ込めば先ず大破して下の民家直撃・・・なんて事があったら。
それを越えると再び狭くなり、そして東山山地へと入っていく・・・その手前に・・・”あっ・・あれじゃない”。
いよいよお目当ての砂防ダムっぽい物を擁した谷状の地形が右手側に現れてきた。

しかし、竹林や柵に阻まれてなかなか姿を見せない。
と言うか見ることが出来ない。
その砂防ダムの北側を醍醐道は通っていく。
少し登っただけで、おそらく砂防ダム側に降りる道と、峠に向かう道との分岐点が見えてくる。

立て札がある。

なになに・・・?!
一言言って良いですか?。
そんな異常気象時でなくとも、十分にこの道は危険ですっ!!。
特に条件2!!、道路が危険な時。 常に危険です!!!
特に人為的な危険が・・・。

先ず、砂防ダムよりも私が気になったのがこの右側の側溝・・・。
これって、かつての支川の跡じゃないのかな・・・。
実際、明治期、大正期の地図と照らし合わせるとこの辺りを流れていたようであるが・・・。

しかしこの側溝も少し奥に行くとこの倉庫の東側で途切れてしまう。
しかも、もうこの辺りは東山山地のそこそこの場所まで登ってきているので、空が近い。
絶対この辺りに源流はあるはずだと探してみたものの・・・残念ながらわかりましぇ−ん。

多分この写真中央奥、電線の奥の谷あたりが怪しいと思うのだけど、手前の柵と多すぎる車が邪魔をして確かめる術がありません。

で、いよいよ砂防ダムの分岐点より降下を開始(砂防ダムの底に向かってじゃないよ)。

先ず入り口横にある”健康といこいの広場”なる運動スペ−ス。
私、絶対にここで運動していたくはありません、と言える要素をふんだんに持っている。
何より山奥で、しかもこの季節になると虫が多く(検索中も蛇さんに出会った)、その上に狭い。
だって、こんな所で夜になって運動をしていたい、と言わせる要素がない。
その上、入り口の扉にはこのように書かれている。

弁償・・・ってあ−た。
しかしこの地形・・・もしかしたらここは連続した砂防ダムがあったのではないだろうか。
と思って、帰宅後に航空写真を見てみると・・・・ビンゴだった。

上は(左)昭和48年(右)昭和55年の航空写真の一部を切り出したが、何これ、と言うほどの変貌を遂げているではないか。
昭和48年にはここには確かに池があったようだ。
古い資料でおそらくこれのことを指しているであろう記述を見つけることが出来た。
(史料・京都の歴史 10 p574)
”古名 瓦坂、 大仏町より智積院の南を越えここに一茶屋あり。
ここより東の山手をすべり石坂と言う。
路傍の池を俗に女夫(めおと)池という。峠を越えれば山科西の村なり。”
これではないだろうか。しかし昭和55年になると一気に砂防ダムに成り代わっている。
水道(みずみち)がかわったのだろうか、この月日の間に。

車止めを越えると道は下り基調になる。
下にはテニスコ−トですか・・・。
しかし、この擁壁と言い、まるっきり砂防ダムを転用しています、と言いたげ。
しかし草が生えていないところを見ると、そこそこ使用されているようである。
先に言ってしまうと、水が無くなったからこの下流二つの砂防ダムでも十分ということになり、上流側は運動設備へと姿を変えた・・・。

そしてテニスコ−トの端はすぐ砂防ダムの擁壁と言うことになる。

しかし、大きい砂防ダムだな・・・。
水位は・・・・ゼロ。全く水がないし、ついでにいうと、砂もない。
第一砂が流れ込むような構造になっていない。
水だけはパイプから出ているようではあるが、それもなくなれば、この砂防ダムはいったい何のために存在しているのか、と言うことになるだろう。
残念なのは柵が張り巡らされている上に、柵自体が高いので乗り越えてダムの底床に降りることが出来ないこと。

仕方がないので、道を下ると二段目の砂防ダムが見えてくる、と言うか、この二つながりのダムは一つの物、と考えた方が良さそうだ。
もしこのダムが満水となれば凄いことだろうけど、そんなことになる前に周辺が凄いことになるだろうから、このダムが水をたたえている姿を見ることは出来な いと思う。
探してみたのだが、ダムに関する銘板等は見あたらなかった。

ダムサイトの最低部にこのような排水口がある。
手を突っ込むことも出来ないので、仕方が無くカメラだけを柵の向こうに突っ込んで撮影した。

これ、地下に流れを変えるための設備でしょ。ここで水の高さを変えて、何処かへ流している・・・。後ろを見ると・・・・。
そこかっ!!
曲がりくねった道がある。

”君を忘れない〜 曲がりくねった道を行く〜”
spitzのCherryであるが、私の場合なら
”川を逃がさない〜 曲がりくねった道を行く〜”になるだろう。
ホントに曲がりくねってるよ。
正に山の際を走っていた河川、その上に造られた道。
しかし、ここでホントにあっているのかな・・・と思った私の目の前に・・・。

きた−−−っ!!暗渠の蓋−−−−!!。
と声に出したらそばの家で窓がぴしゃっと締まる音がしました。
皆さんも住宅地では小声でお願いします。

これでしょ。あからさまに水が流れてますよ−、この下にと、強烈に自己主張する、道路のど真ん中に続くコンクリ−トの蓋。
山の際際であるが、この石積みの石垣はかつての護岸か?。
何となく堅牢なのは良いのだけど、川が流れていた頃にここに存在していたのかどうかは疑問〜。
やたらと石が新しすぎる。これ、山際に道を拡張した際に造られた物かな。
しかし驚いたのが、ここ宮内庁との境界なんですな。
泉涌寺側に確か宮内庁書蔵なんたら〜と言う建物があったのを思い出す。
あの関連でこの山にも何らかの土地を持っているのだろうか、宮内庁は。

い−ペ−スで降りてきたが・・・。
おいおい、どこへ行くの暗渠ちゃ−ん。
ここまで私を導いてくれた暗渠がいきなり消滅。
おろおろ・・・はしていないよ。
私、もう大人だも〜ん・・・。

しかし良いペ−スで来てここで再び検索となるとはね・・・。
先ず左の道に行ってみる・・・が

ぶっぶー、赤いペンキで✖️を書いた缶版が目に浮かぶ
これは違うでしょ。
道の奥側から傾斜が付いているから、水は全部こっちに流れてくるということになるよ。
じゃ、右かと思ったものの、見た瞬間坂になっておりこれも違う。
と言うことは・・・・まっすぐか・・・。

う−ん、これ、ホントにあってるのかな?。
一応下り基調になっているのはこの道だけなのだ。
まあ、範囲はだいぶ限定されている。
時間は・・・夕暮れ間近だからあんまりないけど、とにかく進んでみよう。
緩やかにカ−ブしていく道を進んでいく。

・・・!

・・・・・!!

・・・・・・・!!!
”きた−−−−!!!!河川跡!橋梁!!現存してる!!!!!”
さっき自分で言ったことも忘れて叫ぶ私。
・・・やっぱりこう言うことだからいつまで経っても子共っぽいっていわれるのかな?。
そこは谷状の地形が道と隣り合わせになっており、河川跡が唐突に姿を現していた。
しかも、橋、橋梁が現存している上に現役!!。
”と〜べ〜そ〜な〜気〜が〜した背中 ゆ〜め〜か〜ら〜さ〜め〜ないつばさ〜”
spitzの「遙か」であるが、今の状況を言えばこうかな。
”あ〜り〜そ〜な〜気〜が〜した河川 ゆ〜め〜か〜ら〜さ〜め〜ない橋梁〜”
そこでも河川は暗渠になっていた。現実になっていた暗渠。
その現実から目を背けるように橋だけが夢から覚めずに、残った。
しかも現役、通行可能な形で、さらに親柱なども完全な形で残っていた。

西側の親柱にはそれぞれこう記されている。

”圓通寺橋”
”一ノ橋川”
初めて一ノ橋川と刻まれた物を見たような気がする。(一橋小学校校庭、伏見街道に架かっていた一ノ橋の親柱があるそうだが、私は確認していない)

橋の幅は約1.5m程。長さはだいたい20m前後。けどこれ、多分あんまり補修は加えられてなさそう。
橋の構造に詳しくないのだが、構造的には何となく橋脚部は疎水に架かっている一ノ橋に似ているような気がする。
しかし、あちらとは違い、この橋は男性的な雰囲気がするのは気のせい?。
しかもこの欄干、もしかしたら一度も手直しされず、当時のまま・・・か?、この錆び様は。
東側には建物があり、西側はおそらく河川が流れていた当時からあまり変わっていなであろう、谷状の地形が広がっている。

あれは旧道だろうか?。
何気なく民家の裏から川跡へと続く道のようなもの・・・。
続きを追っていくと・・・やはり旧道のようだ。
すると昭和36年以前、この橋が架かるまで、谷底まで降りていたというのか!?。
そして谷底に、現在よりもおそらく小規模な橋梁があって、それを渡っていたのだろうか。
しかも場所的に、明かりが少ない場所である、夜は全く明かりがなかったかも知れない。
現在でならば、怖くてとてもじゃないが通れなかっただろう。

上流側を見ると、これ・・・おそらく昔は滝状に流れ落ちていたのではないか?。
正直なところ見てみたかった。流れ落ちている様子を。
だが、それはもはや永久に叶わぬこと。
どう見たって、この暗渠が明渠に変わる日は来そうにもない。

素晴らしいのが橋の上にある藤棚。
藤が咲いている時期ならば、大変綺麗であっただろうが、私自身の発見が遅かった。
橋の東側の親柱にはこう記されている。

”えんつうじはし”
”昭和三十六年十一月竣工”
昭和36年までは橋を架けるべき必要性のあった河川であったようだ。
暗渠化されたのは実際いつ頃であろうか?。分からない。

そしてこの暗渠も、どこに至るかは、この時点で分かってしまった。あの場所に至るのだろう。
 道に戻り少し行くと”剣神社”があるが、今回は時間の都合で無理。
もう夕暮れ寸前でさっきから、シャッタ−スピ−ドを無理矢理落として明るく撮っているけど、実際にはかなり暗くなってきてる。
その前をそそくさと通り過ぎると、南側へと続く道を探す。

この道だろう・・・。凄い下りだ。
けど、道の先は再び登っている。もう、場所は完全に分かった。
あそこだ。瀧尾川の暗渠部付近に出る。
何となくこの辺りの風景が、海外の町のように思えてしまった。
あるでしょ、白い壁の町が。

そして出てきた場所。
ここは、瀧尾川を暗渠化して造られた道。
そして、先程の一ノ橋川は・・・ここに出てくる。

ここがかつての合流点。
しかし、双方とも、地上を流れることはなくなっても、暗渠内では水を通しており、ちゃんと水音がする・・・。
但し下水が混じっているのか、何となく、”あの”臭いがする、あれだよあれ、卵の腐ったような臭いだよ。

入り口にも柵が設けられて、”関係者以外立入禁止”とある。
では立ち入りたい時はどうすればいいのだろうか?。
連絡先すらないのは何とかして欲しいのだが・・・。

どうも先の方で屈曲しているようで、先程見た圓通寺橋までは見通せない。
100年前には一体どのような風景が広がっていたのか、それを想像するのも難しい。

で、現状ではこれ。
ここで合流した双方は、東大路を潜り、大谷高校の脇を通って泉涌寺通に架かっていた夢の浮き橋を下を流れ、伏見街道の一ノ橋を潜り、京阪本線を潜った後。
かつては鴨川へ、その後は疎水へと水を合わせていた。

二つの川が削って出来た地形も、住宅地となりもう、昔の面影はない。
ならばせめて、この二つの流れが末永く存在し、水が絶えないことを、私は切に、祈る。
瀧尾川・支川、一ノ橋川(完)

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