伏見街道の四河川(目次) 2008/05/16

国土地理院 航空写真
整理番号 CKK-87-1 地図番号NI53-14-3 撮影コ−スC8 写真番号17の一部を切り取り画像処理を施した。
原 図はこちら

東山区は幾多の小河川が存在し、鴨川の流れに合わさっていた場所である。このあいだレポ−トした清水音羽川もそうであるし、今回レポ−トする三つの河川+ 一河川もそうである。
なおこれらのレポ−トは下流から上流に向かって行うので注意されたい。

さて、京都の地形は京都盆地を北、西、東の三方を山地が囲い、南は大阪平野まで平地と言えばかなり語弊があるが、南の一方向だけ山地らしい山地が存在して いない。
これの意味するのは北、西、東の三方向の山地の水は何らかの形で京都盆地に下ってくると言うことである。
これが、山紫水明と言われた都を支えていたものであった。
豊富な伏流水や河川を利用して、古くは紙屋川(天神川)沿いでの紙の生産、堀川沿いの染め、伏見の伏流水を使った酒造りなど多種の分野に使われた。
 また、水運に使われた事も記しておかなければならない。
伏見から京都二条まで約10kmを角倉 了以、素庵の親子が江戸時代の初めに開削し水運の大動脈が開かれた。
底の浅い高瀬舟を造り、開削から300年近く、京都の水運を支え続けてきた河川、高瀬川。
 道路が造られ、鉄道が走り、車社会が到来するまではある程度、昔の面影を保っていた。

だが、今ではそれらの面影さえも見つけるのが難しい。

市電開設時に通りの軌道敷きを確保するために埋め立てられた西洞院川。
京都大水害で多大な被害を出し、河川がある位置を境に完全に廃川となった天神川旧流路。
おそらく同じ理由で廃川となった堀川旧流路。
都市化の進行により徐々に暗渠化されていった堀川現流路。
四条通と地下鉄の設営の為に地上から消え去った四条川。
七条通の拡張と共に消え去った鍋取川上流部と、暗渠になった鍋取川下流部。
五条通の拡幅と共に消え去った清水音羽川中流と、道路に転用された下流。
西大路通りの敷設時に消えたと言われている堀子川旧流路。
道路敷きを確保するために埋められたと言われている小川。
疎水分流のために河川が寸断され、付け替え工事が行われた太田川。
天神川現流路によって東西で全く異なる姿となった西高瀬川。
七条通り以南の屈曲部が廃川となった高瀬川。
鴨川の流れと切り離された東高瀬川。
2008年3月に暗渠加工時が始まった養老田川。

・・・・
挙げればまだまだきりがない。
東山は地形的には急峻な方で、東山山地から鴨川までの距離も短い。
そう言った河川は必然的に急流となりがちで、自身の流れによって深い谷を造る傾向がある。
それによって出来た谷を流れる河川を暗渠とし、その上を道路としている例が多い。

かつて伏見街道は4つの橋があった。明治期から大正期の地図であってもそれらは確認できる。北側から順に挙げていくと・・・

瀧尾川 源流 今熊野観音奥の東山山系。伏見街道と交差する場所には一ノ橋が架かっていた。
二ノ橋川 源流 東山区本町十五丁目奥付近(未確認)。伏見街道と交差する場所には二ノ橋が架かっていた。
三ノ橋川 源流 伏見稲荷官有地内。伏見街道と交差する場所には三ノ橋が架かっていた。
七瀬川(調査中)  源流 伏見区深草向ヶ原町付近(未確認)。伏見街道と交差する場所には四ノ橋(直違橋)が架かっていた。

伏見街道はそもそも京都と伏見を繋ぐ道として重要な街道であった。
古来は大和街道、山背路などと呼ばれ一街道に過ぎなかったこの街道も、豊臣秀吉が天下人となり政治の中心を伏見に持ってきた事から重要性が一段と上がった 様だ。
現在の伏見街道はこの時代にほぼ形作られたと言ってもよいのではないか?。
そんな伏見街道も江戸時代にはいると東高瀬川による水運の発展、他の街道の繁栄などもあったが、それでも伏見街道は存続を続けた。
明治、大正、昭和になるに従い重要度は増したが、残念なことにその作られた当時の幅であったのが幸いしてか災いしてか、車社会には対応できず現在では北行 き一方通行になっている。
と言うのか実際通って解るのだが、双方向での通行したら確実に事故、渋滞多発の路になっていたであろうと言うことは容易に想像が付く。
また、古い家屋が残っているのもこの路の特徴であろうか。
だが、この路も寸断されている箇所がある。七条から南、九条から北にあるJR東海道本線によって南北に寸断されているのだ。と言うかなんちゅう無茶をすん のよ。JRも、いや、国鉄も。
歴史ある道を見事に幅50m程寸断してくれている。
この街道の北端は五条通に面する本町一丁目。これが北端になる。
南端は・・・どこになるのだろう。深草の直違橋一町目あたりまでであろうか。伏見街道と名乗っているのだから伏見までの路と見てもいいだろう。
よって、勝手に終点は直違橋一丁目までとする(コラコラ・・・)。
その間四つの橋を跨いで伏見街道は伏見から京都に向かって延びていた。昭和に入ってから姿が見えなくなった河川があるが、昭和から平成に移った今現在、そ れらの河川はどうなっているのか?。
それらの川の姿を追っていきたい。

瀧尾川
瀧尾川・支川、一ノ橋川

二ノ橋川

三ノ橋川

七瀬川


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