旧天神川 2008/01/13


旧天神川である。
はっきり言ってこの河川は情報が少ない。と言うのか、皆無に等しい。
そもそも何故に”旧”天神川なのか?。
 旧、と付くからには昔の、旧い、と言う意味合いなのだが、そもそもこの場所に天神川は流れていなかった。
以前にレポ−トした旧天神川・旧流路は七条通りを東に向かい流れ、西高瀬川と合流し、南に流れていた。
明らかに方向違いなのだ。地形的に見ても、明らかに妙な屈曲がある。
おそらくこの旧天神川は昭和10年の京都大水害に端を発した河川改修によって”造られた”河川ではないだろうか?。
どうも古地図を詳細に見てみると、この地域には、昔から小河川が幾筋もあったようである。
そして、上流が廃川化された天神川であったが、七条近辺では他の河川の水を引き継いで流れていた。
いや、何らかの理由があって流さざるを得なかった。
おそらく合流式の下水であろうが、航空写真で跡を追ってみても、その水路が何処から流れていたものなのかは分からなかった。
それに、上記の航空写真を見ていただければ地形的にも、やや斜めを向いた道や、家屋が斜めを見ているのが見えるだろうか?。
これ多分だが、河川の跡だろう。
しかし何度も言うが、あまりにも史料が乏しい。
何も断言できない状態なのだ。
今回のレポ−トはそれこそ現状を伝えるのみに徹してお届けする。
よって、ある意味、”暫定”公開版であることを言っておきたい。
今後、詳細な情報が得られれば、内容を更新していこうと思っている。


場所は七条西小路を一筋西の通りになる。
この通りの名称が今ひとつ分からない。
地図上でも示されていないので尚更そう感じるのか?。
旧天神川 旧流路が折れ曲がっていく場所、そこから南に旧天神川、現流路は存在する。
上の写真では、奥側に当たる。
この辺りの土地の特徴として、かつての屈曲点では土地が盛り上がっている様子を見ることが出来る。
コンビニの駐車場当たりから西と南に向かって、傾斜が付いているのだ。

以前書いたように、この階段を下りていくと細い道がある。
この部分は、どうやら暗渠を延長した部分のようだ。証拠に、なにやら計測器の類か何かが鎮座している。
ここの風景もホントに変わらない。
何年前から来ていても、全く変わっていない。
ず−っと同じ物が置かれっぱなしだから。

これが旧天神川現流路。昭和49年当時はこの場所から北側はまだ川が地上にあった。
多分相当に汚れた河川であったであろうが、水を通していた。
が、それ以降、一体いつ頃、どのようにしてこんな姿になったのかは分からない。

あなぽっこり”である。
この穴がどのよう地下を走っているのか、非常に興味深いものである。
ちゃんと降りるためにか、登るためにか、取っ手が用意されているではないか。
けどここ、降りたとしても、入りたくない。だってこの穴の入り口からは水音が聞こえてくるのだ。
その音が”ちょろちょろ”程度であるならば、私も、SF-303Xを持って、奥へと進もうとするだろう。
が、その音が”じゃぁぁぁぁぁぁぁ”や”ごぉぉぉぉぉぉぉぉ”だと、はっきり言って、こ あい
台風や、激しい夕立の後は、強烈な勢いで水が流れ出していたのを見たことがある。
下水の放水路にもなっているようなのだ、この河川は。
何と言えばいいのだろうか。
とりあえず、入りたいけど、かなり鬼気迫る感じがする、この穴。

これから先、旧天神川は住宅地の中を流れていく。
ちなみに最後まで、この河川も他の市内を流れる明渠と同じく三面コンクリ−ト張りの都市河川であり、その表情は最後まで変わらなかった。
このように橋はあるが、名前すら入っていない物もある。

名も無き橋、その1。
銘板も何も存在していない。
帰りにこの橋の下を通ったのだが、銘板らしい銘板は存在していなかった。
と言うのかこの河川に架かっている橋の殆どが竣工年月日不明の橋である。

橋の上より、南北をのぞむ。
左は北側、右は南側。
皆さんはこんな河川をどのように感じられるだろうか?。
汚らしい、と感じられるかも知れないし、気にも留めない、と言うのが殆どではないだろうか。
私とて、なにも仕事でやっているのではない。
これをいくらやったところで、一銭のお金ももらえることはない。
しかし何故、このような姿になったのか?。
それを知りたい。その一言である。
まあ・・・完璧にコンクリ−トに塗り固められている。
河床まで2m半ほど。だが、それだけの水があることは、先ず無い。

家屋が両岸に余地無く建っており最初の屈曲部から、しばらくは河川に対して接近できない。
しかし・・・何でこうも寒いのよ!!。
さっきから、雪がちらつきまくってるんですけどっ!。
手がぢみだい〜(涙)
こういう日はデジタル一眼レフじゃないと、まとまった枚数を撮影できないため、s2proを選んだが、レンズがまずかった。
Ai 20mmF4とAUTOの50mmF1.4。
特に50mmは金属ロ−レット。
これが意味することは・・・死ぬほど冷たい。
まぢで。
触るのも嫌なぐらいに冷えてる。
今回はレンズの電力をケチるためにMFレンズを装着したが、換えって仇になった。
しかも、こう言うときに限って、薄手の手袋を忘れる始末。
仕方が無く、手を”はぁはぁ”する作業がこれ以降の撮影時に追加された。

名もなき橋、その2。銘板の類も全く存在しないため、何時作られたかも不明。
但し、この状態からして、案外新しいかも知れない。

押して再びここから先は両岸に、家屋が建っているので、河川には接近できなくなっている。
都市河川を探すのは案外楽である。
が、難しいのは、こういった状況が多いときである。
だって、近づけないんだもん。
私有地内もあるだろうし、下手に撮影したら、場合によってはぷらいばしいの侵害とも言われかねない。
だが、旧天神川の場合、現在地上を流れている距離が短いため、川の全体像がわかりやすい。
堀子川とは異なり、一旦両岸を塞がれたら、次の大通りまで全く川面に近づけない、と言った状況にはなりにくい。
それが救いだった。
暫く住宅地の中を歩いてみる。
以下の航空写真の赤い破線であるが・・・これ、もしかしたら河川跡か・・・と思っていた。

どうやら、古地図から割り出してみると、確かにこの辺りに河川の流路は書かれており、その位置流路がこの流れの位置に類似している。
だが、いつもおきまりの台詞を言わせていただこう。
川跡なんてな−んもない(涙)。
どうすることも出来ない。残ってないんだもん。探しても、あるのはアスファルトとコンクリ−トに塞がれた路面だけ。
暫く探してみたが、何もないと判断して、次の旧天神川に接近できるポイントへと先を急ぐ。

住宅地の中を走る生活道が旧天神川に橋を架けて通過していた。
名前は向田橋。竣工年月日、不明。
上記の二枚は昨年12月上旬に検索したときのものである。
今回は橋の銘板がある辺りに車が停まっていて、撮影できなかったので差し替えた。
思うのだが、何でこうも竣工年月日が不明な橋が多いのだろうか?。
あえて付けなかったのか、何か理由があるのか?。
漸く河川の名称を示した銘板があった。
これ以前では、私の探し方が悪いのかもしれないが、河川の名称を示すものはなかった。

向田橋から上流部が左側、下流部が右側になる。
まあ・・・つまり、この向田橋辺りでは川面に立ち入る術はない。
両側に家屋や私有地が余地無く存在しているから。
南側も同じ事で、八条通りまでの間も全く立ち入れない。

住宅地の中を出て八条通りの西方面をのぞむと、旧天神川が見えてくる。
分かりにくいので青い線を描き足した。
まんま、都市河川。
悲しいほど都市河川の道を歩んだ川である。

八条通りに架かる西ノ庄橋(TOKIWA様より情報提供、西ノ庄橋の竣工年月日は昭和48年3月です。)から左、北側を撮影した写真。
上流に向田橋が見える。向田橋辺りからであろうか、川が直線化しているのは。
天神川旧流路から暫くこちら側に来た辺りは、微妙な屈曲が多く、緩やかに曲がっていると言った印象だが、これから先は、明らかに人工的に開削された河川と いう印象がある。
右はいきなり東に90°流路を変える旧天神川。
だけど、相変わらず全く河川には近づけない。
当然の事ながら、親水性は0である。
この辺りも、最初の航空写真の時代からは随分変わってきた。
田畑の面積が明らかに減ってきている。
何処の都市でもおそらく同じであろうが、発展すればするほどに、田畑は減っていく。
食料を生産する場所を無くしておいてからに、食糧自給率は低下するという悪循環をはらんでいるわけだな。

私有地の中には立ち入れないため、さっさと次の川の望める位置に移動する。
先程八条通りに出てきた通りをそのまま下ると、次の橋が見える。
西浦橋。竣工年月日 不明。
あのね−、なんか知られたくないのかよ、旧天神川の橋は。
悉く竣工年月日が分からないと来ている。
謎だ・・・。

西浦橋より下流部をのぞむ。
これ以降、再び両岸に家屋があっているので、川には近づけない状態となっている。

ちなみに東を向いて流れる旧天神川は西高瀬川に急接近していく。
八条通りを東に向かい撮影したが、画面の先に見える台地が西高瀬川になる。
また右側を南に向かうと直ぐ旧天神川に行き着く。
古地図で見ると、この辺りは七条で東に流路を変えていた頃の天神川が再び蛇行し始めていた場所のようである。
これについては調査中だがこの蛇行、相当に凄いものである。
グニャグニャに曲がって、下流域へと流れて行った。
そりゃ洪水でも起きれば最悪だわな・・・

八条通りを右折すると直ぐ、旧天神川。
青の線が流路になる。住宅地の中であるが、ここもかつては一面の田畑であった。
名もない小河川も幾筋も流れていたのであろう。
が、残ったのは、この河川のみであった。

場所は南区吉祥院西ノ庄淵ノ西町、になる。
ここで流路を南東に変える旧天神川。
その直ぐ先には西高瀬川との合流点が迫っている。
橋の名前は西中橋。欄干がきれいに補修されている・・・。(*TOKIWA様より情報提供、西中橋の竣工年月日は昭和34年11月です。)

タイムスタンプは左、2008/01/13、右2005/07/31である。
欄干がきれいになってる。
昔来たときはこんなふうに崩れていたが、修復されたようだ。

先の方に、西高瀬川との合流点が見える。
旧天神川としての河川も、後僅かだ。しっかし・・・・何でこんなに寒いのよ〜っ!!。
さっきから、雪はきつく降り始めてるし、手はかじかんでるし、いちいちレンズを触る前に”はぁはぁ”しなきゃなんないし・・・。
冬の撮影とは、常にこう言った事との戦いなのです。
あと、いかに上手く、トイレを確保しつつ進めるか、かな。

その側にある公園。
冬の日差しの中、暖かそうに見えるが、実際は雪が降りしきっており、更に若干の風もあって、寒いっ!!
この公園の縁を旧天神川は流れていく。

見えてきた合流点。
橋の先、広く開いているのが西高瀬川になる。
この辺りの河川改修は相当早い時期に行われたようだ。
西高瀬川、かつての天神川だが、既に昭和15年の地図では現在の流れに非常に近いものとなっている。
東海道本線を潜ってからの蛇行も修正され、現在の流れに沿っている。
そして、やってきた合流点。
左からが西高瀬川、下からが旧天神川。
朝の気持ちいい日差しと雪が辺りに降りそそいでいた。
そこにぽつんと佇む私。
旧天神川は名前さえ、忘れ去られようとしている河川である。
現在の天神川は太子道より西に流れ、御室川と合流し、そのまま桂川へと注ぐ流路になっている。
かつては市街地を蛇行し、昭和10年の京都大水害では至る所で氾濫し、深刻な被害が発生した。
西院昭和風土記の中にも、天神川、御室川の治水は常に頭を抱えていた問題であった。
昭和10年の大水害以降、河川の流路が変わり、天井川だった天神川は無くなった。とある。
それ以降も、五条以南では天神川の一部は残り続けていた。
昭和49年以降、七条までが暗渠となったが、七条から南は今現在も河川として残っている。
現在では天神川の旧流路は殆ど全てが宅地化されており、遺構は皆無に等しい。
そんな移り変わりの激しかった河川。
その終点なのかも知れない。ここは。
水を合わせた西高瀬川は東海道本線を潜り、住宅地の中を進み南流、かつての島田川を見ながら水量を増やし、鴨川と合流していく。
しかし、この親水性の違いは何?。
西高瀬川の方には飛び石まで用意されているではないか。
それに比べこの旧天神川の扱いは何なのか。
そんなことを思いつつ、私は帰ろうとしたが・・・・。


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