鍋取川(現流路)(2)2007/11/02


さて、ここは京都市南区、六孫王神社の南側である。
この六孫王神社、歴史は古くリンク先の”由諸”を見てい ただければわかると思うが、六孫王神社としての始まりは平安時代中期までに遡る。
江戸時代に入り、五代将軍綱吉の時代に現代の本殿、拝殿が再建された、とある。
・・・文章ではかあるく”旧い”と書いているが、どちらも1000年前後の昔と350年前後の昔と、とんでもなく古いのだ。
特に前者の話が本当だとすれば、この位置の不動物件として調べ物にも使えると思っている。
また社域の中央に神龍池という池があったのだが、現在、水を汲み上げていたポンプが故障し、残念ながら昔の池の半分ほどの面積の池となっている。
どうやら新聞記事を見ると、地下60mに設置したポンプが故障、とある。
修理も出来ないので、仕方なく住職が池の面積を縮小し、作り直している、と言うことが出ていた。
住職さんのDIY能力パネェッス。

私のSSDの中にあるアーカイブの中に記録されている写真である。
タイムスタンプは左、2006/04/20と右、2007/11/02である。
使っているレンズが違うので画角が異なっているがご了承いただきたい。
このような感じで池の面積が縮小している。
 ところでこの六孫王神社であるが以前は北側にもっと大きな境内であった。
ところが東海道新幹線の開通時にどうやら境内内北側を用地として提供した、と言うのか、とにかく北側に新幹線の橋脚が建てられてしまった。
と言うわけで、現在のようなこぢんまりした境内となったようだ。
境内は季節ごとに非常に美しい景色を見せてくれる。

参道であるが、紅葉すれば非常に綺麗。
ここ。春は遅咲きの桜が見られる。
関係ないが私の高校の課題研究にここの湧水を使わせて貰った。
後で、機器を使用して調査したところ、結構綺麗な水であったと言うことが判明した(1996)。
ははは・・・・あれからもう11年も経つのか・・・。
全く変わらないよな、私も、ぜんっぜんかわってない。
我ながら呆れるというのか。

境内東側の鳥居である。
この鳥居の面しているのは壬生川通り。

・・・え”っ・・は、橋が在るぅぅぅぅっ!!
おいおい、聞いてないぞ、こんなところに橋って言うのは。
橋があるって事は・・・・河川が在ったって言う事じゃないか(嬉)。
これも後で古地図を見て分かったのだが、どうやらこの橋、と言うかこの六孫王神社には堀があったようなのだ。
しかも水源を辿ってみると、どうやら鍋取川の分流の一流が七条通りを南流して今の梅小路公園の北辺りを西流し、大内小学校辺りから南流、この六孫王神社に 流れてきていた事までは読みとれた。
この神社の東端に接する路は壬生川通、ちょうど七条の大内小学校東端の直線上にあたる。
しかし残念ながらこの流れも、この遺構を残して完全に消滅しているようだ。
先ず七条から南と言うと梅小路公園(1994、建都千二百年記念事業)東海道本線、大宮高橋、東海道新幹線が存在しており、それこそ開発されまくった地域 で ある。
確かに当時の溝か何かは分からないものの、それらしき一部分は見つけることが出来たが、それは東海道本線を越えた辺りである。
おそらくこれは東寺の外堀へと繋がっていた流路の遺構であろう。
七条を西流と言うが、もう梅小路公園が造られたときに、何もかも改変されてしまった。
私が中学生の頃は、まだ引き込み線が残っており、貨車やプラットホ−ムなどがそのままであった。
ちなみに屋根などにも登り、中央には照明用の鉄塔があった。
高さ2−30mであるが、それの上まで登って遊んでいた。
本当の勇気を試すとか何とか言って登って、風が吹くだけでも鉄塔は左右にグラグラ・・・((((; ゚Д゚)))。
あれこそ蛮勇、と言うのだろう。
ちなみに私の足の裏にある刺し傷は小5ぐらいの時、この車庫内で遊んでいたところ、割れたオロナミンCの底部分を踏みつけてしまった事で出来た傷であっ た。
痛かったよ〜。
割れたガラスは靴底なんて一瞬で貫通したし、一瞬飛び上がったし、靴の中は血塗れになるし・・・。
帰って母上にはこっぴどく叱られたし。
まあ、そこに忍び込んでは遊んでいた。
 しかし1993年頃にはそれらは全て撤去されて、更地になっていた。
何が建てられるのだろう?、子供心に思っていた。
今から思えばそれが、永劫の別れだったのだ。
今からすれば巨爆(爆竹の火薬を集め造った爆弾)やたいまつを使って夜も遊んでいた。
まさに黒歴史である Orz。
 また、人のいない広大な空き地であるから、中3の時に文化祭の劇のなかの台詞を大声で友人達と練習したこともあった・・・。
思えばあの夏こそ”当時の”梅小路を見た最後の夏、となった。
今はみなさんのご覧になっているとおりである・・・。
整備されて、非常にきれいな公園となった。
そんな懐かしい場所、それがこの梅小路・・・

昔話が過ぎた。
では、いよいよ鍋取川の中流から西高瀬川の合流点までを辿ってみよう。

写真は八条通が新幹線の屈曲にあわせて曲がりだす附近。
先に走っていった車のタイヤ部分が見えないのがおわかりになるだろうか?。
つまり、撮影位置から車が今走っている位置の間が盛り上がっていると言うことである。
  この盛り上がりこそが、鍋取川の暗渠部分。
どうやら旧流路は、この辺りから更に西へ徐々に流れて行ったらしいが、今は暗渠になった部分をお伝えしようと思う。
道路が整備され家屋が建ち並び、昔の面影など、なにも残っていない。
その家屋が建ち並ぶ所に、一筋の路地があり、それを入ると下記の写真のように、新幹線ぎりぎりまで近づくことができる。

ちなみにこれが限界まで中流の源頭部まで近づいた写真。
かつて、ここは公園であった。
小さな、寂れた公園が・・・。
誰もこの公園のことを知らないのではないのか、と思うほど草がぼうぼうに生えて、もう二度と遊ばれる事が無いであろう滑り台やジャングルジム、鉄棒がた だ、遊ばれるのを待っていた。
いたたまれない気持ちになったのは言うまでもない。
ここは、廃河川ならぬ、”廃”公園か、と。
錆びついて、茶色くすすけたようになった滑り台、鉄棒。
それらが唯、寂しそうに、また恨めしそうに私を見ているような気がしてならなかった。
結局私は持っていたフィルムカメラで撮影することもなく、何とも言えない悲しさを感じて、その公園を後にした。
どうしてもシャッタ−を切る気になれなかった。
あのときは。
そして、そう遠くない昔、あるいは最近だったのかもしれない。
明日撤去される、と言う日の夜、それらはどのような感情で過ごしていたのだろうか?。
どのような感情で、今日までのことを思っていたのだろうか?。
 どのような感情で、最後を迎えたのだろうか?。
最後はありがとう、だったのか?。
それとも最後まで、遊んでくれなかった、だったのか?。
いずれにしろもう、それらはここにはない。
この場所さえ、ここが公園であったと言うことを覚えてはいないだろう。
・・・私が写真で時を止め忘れた事例である。
奥のトタンに覆われた下がおそらく鍋取川の暗渠部分になる。
今ではこのように駐車場になっている。この柵の新しさからして、たぶんここ一年以内の施工であろうと思われる。
残念ながら私有地である為、中に入る事はやめた。
仕方がないので再び八条通りに出て、いよいよへと暗渠部に近づく。

八条通の屈曲開始部分、ここにはこのような暗渠部分が頭をのぞかせている。
これを見る限り、鍋取川は三面コンクリ−ト打ちの河川であることは間違いないだろう。
いや、今では、天面を含む四面コンクリ−トの暗渠だ。
もはや再びこの天面が取り外されることもないであろう。
先程の明治時代の情報では八條村内では、長さ七町二十間(約800m)巾は一部文字が判読不能だったのでおおよそ2m半前後、そして深さは約0.3mで あったとすれば、これまた結構な河川である。
当時は一体何処からそれ程の水があったのか?。
これはおそらく伏流水だと思う。
京都は盆地であるため、山からの伏流水が北から南へと流れる。
昔は町中でも5mも掘れば井戸として使えたと言われるほどに水が流れていた。
しかし最近では道路の路面がアスファルトによって固められ、雨水なども、地下の配管を伝って川に流されるなどするため地下水の水位は低下、結果、町中を 流れる河川も、徐々にその水量を無くしていったものと思われる。
まあ、原因はそれだけではないが。
おそらく農業用水など地図に書かれていない、書けないような細かい流れが集まり、やがては大きな川になった、と言うことか。

赤いペイントで示したのが鍋取川の暗渠部になる。
ここで、川は南に向けて流れ始める。
ちょうどここが一種の屈曲点となる。

もう、おわかりいただけただろう。
この足元のコンクリ−ト。
おそらくこれが天面のコンクリ−ト。
暗渠部の蓋である。
しかし、結構年季が入ってるぞ、このコンクリ−ト。
凄いのは民家の軒先を掠めるようにして南流していく流れ、である。
これが、鍋取川、現流路だ。
このまま、ま−−−−すぐ、九条通りの北側、羅城門跡まで続くコンクリ−トの暗渠。
 最初にも書いたように、この見える形でこれだけの距離、河川の暗渠が残っているのはこの鍋取り川ぐらいな物ではないだろうか。
西洞院川にしても残っているのは200mも無いし。
あちらは路面とほぼ面位置になって、車道に使われているけど、こちらはどう見ても車道には使われていない。

(翌日撮影)このように道が沈んだのか、暗渠が浮いたのか、どちらかは分からないが、このような車には無理な段差が存在する箇所もある。
よくよく考えてみると、段差が少ない部分は、道との交差部や下流部に多いので、おそらく、このまま双方とも、この位置にあったのだろう。浮き沈み無く。
しかし、周囲は家屋だけなので、あまり撮影できない。
下手をすればプライバシ−の侵害だと言われかねないので、必要最小限の撮影で済ませた。

最初に交差する東寺道の一つ上の通りである。
ご覧のように上手く橋の在った部分を道路が通過している。

O・Y・A・B・A・S・H・I・R・A(親柱)!!
 親柱は一応残されているものの残念な事に銘板の類は、これから先、 残っていた橋の親柱も全て、無くなっていた。
出来れば残っていて欲しかった。
在る程度暗渠化の正確な年代も分かったであろうに・・・。

次に交差するのは東寺道である。
交通量がそこそこ在る上に、周りはそれこそ住宅地の中であるために、広角で絞り込めない。
絞り込めば、何もかもが写り込んでしまうため、ここでは川跡に限って撮影した。
しかしこれ、もう少し残してよ。
親柱とかさ、せめて何かの碑ぐらい在っても良いものではないだろうか。
そりゃ、二の橋川みたいにごーぢゃすな残こし方をしてとはいわないからさ・・・。
ただ鍋取川の暗渠の蓋だけ・・・と言うのも寂しい気がしてならない。

光工業株式会社と言う会社が下水道改修工事を行っているようだが、結構色 々な工事を行っていらっしゃるようだ。
事業紹介を見ると、木屋町や先斗町、鴨川の遊歩道・・・。
なかなかなところが請け負ってるじゃない。
東寺道から南になると暗渠と道路が面位置の場所が多くなる。
徐々に歩道化してきている。
自転車も置かれてるし。

東寺道の一本下の通りになるが、この辺りに来ると、橋があった形跡が無くなってくる。
親柱もろともに撤去されてしまったのか?。
現在の時刻は16:30分。だんだん赤くなってくる空に、タイムリミットを感じながら焦っていた頃。
 大正期の地図を見ると、この近辺から西は一面の田畑だったようだ。
しかも本当に、見渡す限りと言えるほどに。
そうすると、やはりこの鍋取川は重要な農業用水だったのであろう。
幾本もの河川が描かれている。
天神川、堀子(小)川、鍋取川、堀川、西洞院川、高瀬川・・。
それらの河川は今では殆どが暗渠化か埋め立てられている。

大分南に下ってきた。
住宅地である。
すいません、色々と写り込んじゃいました。

そして、屈曲部にやってきた。
地図上で見る限り、旧流路はここから20−30m西を流れ、九条通りを潜り、大阪街道の西側に沿って南に流れていた。
残念ながら、その跡は全くない。
私が探してみた限り。
もし、何か跡をご存じの方がいらっしゃたら、ご一報お願いしたい。
暗渠はここを西に屈曲していく。

道を挟んで右側のポ−ルが立っている場所が鍋取川の暗渠。
昔はここに橋の欄干がそのまま残されていた。
まだ私が小学生だった時分である。
コンクリ−ト製で欄干なのだからちょうど、道をふさぐ形で残っていたのだが・・・
いつのまにやら、綺麗サッパリ撤去されていた。
その替わりと言っては何なのだが、川跡が綺麗に整備されていた。
緑色のタイルを敷き詰めて段差もなくし歩行者や自転車が通りやすくなっていた。

ここが羅城門跡。
当然のことであるが、何も当時を偲ばせるものなど残ってはいない。
いや、そんなものが残っていたら逆に怖いのだが・・。

(翌日撮影)このように一応跡を伝えるものは残されているが・・・・。
あんまりにもぞんざいな扱いじゃないか・・・これ。
小学校のスト−ブじゃないんだよ、これ。
明治28年健立の石碑なんだぞ。
まあ、子共が遊ぶから危険防止のために、だろうけど。

裏面はこのように明治二十八年三月。
と書かれている西暦で言うと1895年・・・。
これを建てた人々は、一体どのようは風景を見たのか。
見渡す限りの水田、西山まで見渡せる視界、車もなく、道とてアスファルトすら敷かれていない、そして道行くのは大八車を引く人、徒歩の人、飛脚・・・。
全てが忘却の彼方。

そしていよいよ、川は羅城門跡を横手に見つつ九条通りに達する。
いつの間にやら綺麗になっている。
かつて、桂川などに行くときはよく使った通りである。
もっと、何というか、電線が張り巡らされて、せせこましい通りだったはずなのだが、うん....綺麗になってる。

この九条通りは元々非常に狭い通りであった。昭和初期までは。
京都市の北大路、西大路、東大路、そして、この九条通りは昭和の初期に拡張されたという歴史を持っている。
 手持ちの昭和8年(1932)の地図など、拡張の真っ最中の九条通りの姿を見ることが出来る。
昭和15年(1940)には、ほぼ、現在の市街地の枠組みが出来たようだ。
  そして市電が走って、車社会が到来して・・・今では市電も川も残っていない。
この辺まで堀川が西流してきてこの写真の左側で、大きく南へ曲がった。
またその少し西、写真の右側では、この鍋取川の旧流路が大阪街道を挟むようにして南流していった。
今、それらの面影はない。
何度も書くが堀川の旧流路は鍋取川の現流路に付け替えられて、更に、昭和の終わり頃から平成の最初期に暗渠化されている。
っていうのか、京都市は、本当に暗渠化が好きねぇ〜。
どんどん歴史のある河川でも暗渠にしちゃったんだ。
その割に町家再生事業や、高瀬川源流付近の保護はやるんだ・・・。
こういうダブルスタンダードなことをやると、住民の支持を失うよ。

さて、今現在、鍋取川の下流はどうなっているのか。
長くなりそうなので、それらは”鍋取川(現流路)(3)”として書くことにする。

続く
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