鍋取川(現流路)(3)2007/11/02


国土地理院 航空写真 整理番号CKK-74-15 地形図番号NI-53-14-7 撮影コ−スC10 写真番号12から一部を切り出し画像処理を施した。
なんだかんだ言って、南北に流れる川は非常に長くなるのが、京都盆地を流れる川の宿命。
さて、鍋取川下流部を見て頂きたい。
上の航空写真は昭和49年当時のものである。
オレンヂ色の線は、堀川旧流路、赤の線は今回の鍋取川、あと数カ所、道路や建物に名称を入れてある。
さて、ここからは本来は堀川の旧流路である。
70年以上前には前回の終了地点で堀川が南向きに屈曲し、その流路を変えた。
そして、大阪街道という道を挟んで鍋取川旧流路がこれまた道に沿うようにして南に流れた。
赤の破線がそれである。
旧い地図から拾い出したので、誤差もあろうかとは思う。
しかしこれこそ、完全消滅、である。文句無しに。
何せ、住宅地にもろに被っており、昭和49年当時でこの状態なのだから、現在では、推して知るべし。
堀川の旧流路を鍋取川がいつ頃受け継いだのかは分からない。
調査中であろうが、そのきっかけとなったのは間違いなく京都大水害であろう。
 おそらく流れを受け継いだ時期は昭和10年(1935)から20年(1945)頃迄ではないだろうか。
堀川の旧流路は大水害以降廃止となり、残された堀川下流域を鍋取川に合わせた。
そして現在に至る・・・前に、下流域は長い間明渠であったようだ。
おきまりではあるが3面コンクリ−ト張りの姿であろう。
普段は水が流れないが、雨の後になると濁流と化す・・って、現代版の天神川。
 長い間明渠だった川も、遂に昭和の終わり頃から平成の初め頃にかけて、暗渠となる。
昭和62年の航空写真では暗渠加工事の真っ最中であるのが分かる。
そして現状で川として残っているのは、西高瀬川との合流付近の手前、僅か50m程度が鍋取川として、残されているのみだ。

ここが九条通りから鍋取川への入り口である。
河川跡は遊歩道として整備されたようである。
アスファルトが敷かれ一見車道のように見えるが、たいていの場合は車止めのポ−ルが立っており車は進入禁止になっている。
そしてこの辺りから少し南辺りで、堀川旧流路が鳥羽高校の北側に沿うように流れ、南に向かい屈曲、この鍋取川の現流路を流れていった。
上のように自転車が置かれていたりするところも、所々にある。
が、いかんせん人通りが少ない。
夜になったら怖いよ、ここは。
只今の時刻16:35分。
やばい・・夕暮れが近いではないか。
仕事に行かなきゃ・・・。
これ以後は暗くなってきたので、絞りを若干空け気味にして、スロ−シャッタ−で撮影した。
手ぶれ下限は私の場合1/8秒だから静かに切れば大丈夫だろう、と言う判断だった。

川跡を進むと、先ず一つめの道路と交差する。
この附近を観察すると、この川跡に対して道路は東西とも若干下りの傾斜が付いている。
川の跡によくある地形だ。
橋などを架けるため、両側に盛り土をして橋を架ける。
その名残ではないだろうか。
この先十条通りなどは結構くっきりと、そういう地形が残っている。
まあ、素人の考え方だから、本当のことを知っていらっしゃる方は教えてください。

通りを越えると一気にまっすぐになって南へと進み始める。
この道幅いっぱいいっぱいが鍋取川であった。
深さはどんなものだったのか?。
合流地点の方は西高瀬川に合流するために若干掘られていそうだが、この辺りではそんなに深くはなかったのではないだろうか。
しかし、以前本の何処かで、酔っぱらった人が川に落ちて死んだ。
と言う記述を見つけているので、案外深く掘られていた川なのかもしれない。
そして、もう一つここが川跡だと思う事柄を見つけた。
下流の屈曲点辺りは別にして、住宅地の中では、この道路に面している住宅の入り口はほとんどなかった。
つまりこちら側から入ることは想定されていない。
左の住宅は壁の上にバラ線が設けてあった。
つまり、入り口をもうけられない事情があったということ。
十条を越える辺り迄は、両脇に生け垣を伴った花壇が配されている。
結構こぎれいに手入れされているが、ここ撮影しているときでも、だ−れも出会わなかった。

このようにネズミ返しに模した柵。
明らかにこちらが入り口と言うことではない。

九条通りから二つ下に下がった通りである。
まあ相変わらず何も書くことなどないが・・・川跡なんか・・全くない。
けど、この道は歩行者・自転車専用で正解であろう。
だってこれ、離合できないもん、車だと。
そうすると一方通行になるわけだが、そうすると抜け道として常時車が通ることになるだろうし、今度は狭いから歩道を確保するのが困難になる。
いや、変に歩道を確保して事故でも起ころうものならばコトである。
それに、変に信号も付けられないだろうし、信号がないと事故が多発しそうな雰囲気ではあるし・・・。
とりあえず、末永く歩行者、自転車専用であることを祈るばかりだ。

そうこうしている内に徐々に夕暮れは近づいてきて、私はますます焦ることになったヽ( ;´Д`)ノ。
ここは十条通りである。
明渠だった時代も暗渠になった今も、当然この通りを潜っている。
やや左前方に見えるのが鍋取川の続きになる。
当たり前だが、欄干など橋の遺構を探しても、ナイッ!!
そんなものはとうの昔になくなっている。
また、この十条通りには色々と不思議なものが残されてもいる。
 それはこの通りに面して不可解なコンクリ−トの擁壁があることだ。
はっきり言って異常なほどの堅牢さである。
これ道路の側に何であるの、と聞きたくなるぐらい。
何らかの河川が流れていた跡かもしれないので、目下調査中である。

済まない、近くに地名の入った物がないので、少し西側に行った。
十条旧十条。右は南西側から鍋取川流路跡を撮影したものである。
いづれか差し替えると思うが、右の写真、信号待ちの白い車2台の後ろ、少し地形的に盛り上がっているのがお分かり頂けるだろうか?。
その盛り上がりが鍋取川になる。
もっとも今はその場所に道があると言うだけで、川の跡など何も残ってはいないが・・・。

十条通りから南に入ると、道の雰囲気が一変する。
何というのか、明らかに生活に使われてるような臭いがするのだ。
無論本当に臭うのではない。
ただいきなり、ポ−ルが取り外されて車が中に入っているし、川跡のこの道路に面して入り口がある家が建っていたりと、十条以北からすると全く異なった 顔を見せる。
それに下のアスファルトを見てみると、微かにだが、轍の跡らしき物が見えるのだ。
少なくとも、轍は使われないと付かないものなので、大なり小なり、車が通行しているようだ、ここより南は。

十条より一筋下った通りである。
横にあるのは中ノ坪公園
この公園辺りから川跡のこの道の隣に道路が併走することになる。
道路にあるポ−ル達を見ると、少なくともこれを見て車が入っていこうとすることは先ずあるまい。
もう、何が何でも車を通さないぞ、と言う強固な意志を感じる。
これがポ−ル一本や二本なら、何とかしてやろうと思えるかもしれないが、やはり数が在ると効果は絶大である。
しかしこれ、別の意味で交通を阻害しているぞ。
これだけの数があると、歩行者でも、私の自転車でもあんま り通りたくない
強固なのは結構である、しかしもうちょっと、おてやはらかに願いたい。

十条より二筋南の通になるが、出口側にもこのポ−ルの数である。
何かあったのか!?
と勘ぐりたくなる感情はぐっとこらえて、先に進む。
横に見えるのは工場であるが、その敷地を取り囲む塀の高いこと高いこと。
これ、一体どういう考えがあって、こんなに高く堅牢にしたのか?。
だって次の写真を見ていただければ分かると思うのだけど・・。

視界の左半分が壁になるんだよ、ここ。
下に歩行者の姿があるが高さを比較していただきたい、街灯とも。
しかも、壁が継ぎ接ぎなんですよ。
だって、これ明らかに同じ時期に一緒に造られてないでしょ?。
下の壁がおそらく第一期。
中程が第二期。
一番上が第三期。
しかも所々に壁の色が違う部分が散在しているし・・・。
いったい何なのよ−、この壁。
 川の方はこの先で逆L字に西へ向かって屈曲する。
航空写真でも見たが、この辺りから、川幅も広くそして深くなっていたのではないだろうか。
しかし相も変わらず、遺構はない。
例えば橋の橋脚や、欄干などが残っていればいいのにな・・・と思っていても現実は無情である。
そんなものは全くなかった

ここが一番目の屈曲部になる。
街路樹が植えられて、小木が植樹されている。
夏の夕暮れなどには、案外涼しい感じがするかもしれないが、いかんせん人通りが少なすぎる。
この辺りから再び住宅地の中へと入り込んでいく。

前の通りが昔の大阪街道になる。
この道を越えた辺り、鍋取り川の旧流路がこの堀川の旧流路に合わさっていた。
大正期、昭和初期の地図で確認すると、通りに沿って、少なくはあるが家屋が建ち並び、後はおそらく、田畑。
 少なく見積もっても70年程前は、そのような風景だったのだ。
この辺りは古地図で見る限り。
この変わり様を、堀川の旧流路はどう見ているだろう?。
鍋取川はおろか自身すら暗渠となってしまったこの現状を、川はどう思っているだろう。
もう、出口のポ−ルには何も言うまい。

追記。大正7年の地図と昭和8年の地図を見比べてみると、更に面白いことが分かった。
現在の西高瀬川、当時の天神川もこの辺りで流路が変更されているようなのだ。
当時はこの辺りは天神川が蛇行して流れ、二つ下の写真の奥側、屈曲部で堀川と合わさっていたようだ。
おそらく下水処理場を建設するために敷地確保のためと思われる。

大阪街道を渡ったところにこのような小さな祠がある。
明らかにこの場所に移築されたものではあると思うが、もとは何処にあったのか?。
ここに奉られると言うことは、何らかの関係があったのかもしれない。
この祠辺りから、先に見える自動車辺りまでの間で鍋取川旧流路が合流していたっぽいが、それも確認する術を失っている。
北側は工場の敷地になっており、撮影はしていないものの、それらしき跡は何一つ残っていなかった。

うおっ。いきなりアスファルトの色が赤くなってるし。
透水性のあるヤツだったかな?。
これは。間違ってたらごめん。
しかしバイクが停まっていたが、ここに入ってきていいのかよ?。これ。
この先に見えるポ−ルの辺りで川は二回目の屈曲を迎える。
今度は西から南南西に向かい流れ始める。

右には吉祥院水 環境保全センタ−(長い名前)である。
この施設は京都市では最も古く、全国でも五番目に旧いという古株である。
調べてみると、昭和9年に稼働を開始したわけだが、着手は昭和5年。不況の時代。
失業者を助けるという意味合いでも建設されたらしい。
この下水処理場では散気式活性汚泥法という処理方法で下水を処理し、最終的にはオゾン処理と 言う先端処理を施した上で西高瀬川に放流する。
放水口は下にもあるが祥鳥橋の北側、西高瀬川に面している。
今現在(2007/11)、放水口の工事を行っているらしく、昔在った放水口は跡形もなくなっている。
ちなみに、京都市で最大の面積、処理能力を誇るのはこれより南にある鳥羽水環境保全センタ−(ホント長いで、この名前)である。
 ここは処理能力の面に置いては全国で四番目のものを持っているらしく、日々、施設を更新しているようだ。
詳しくはこ こを見て貰うとわかりやすい。(*Acrobat Readerが必要ですので、お持ちでない方は、自力で探して入れて下さい)
まあ、いろんなところにいろんな浄水場があるもんだねぇ〜勉強になっちゃったよ。

遂に行き止まりかと思っていると、ご丁寧にも道が用意されていた。
横の道が登っていく具合を見ると、この辺りは鍋取川としては相当に深かった辺りなのかもしれない。
しかし、本当に人いない。
まだ九条通り、十条通り辺りはいたけど、この道を歩いている人となると少ない。
十条より南では、犬の散歩などで歩いている人は見かけたが、これ、あんまり活用されていないね・・・。

赤いアスファルトを敷かれた坂を上ると・・・いきなり橋梁が目に飛び込んでくる。
ここが、西高瀬川と、鍋取り川の合流点付近になる。
しかもご丁寧なことに歩道が無いと思っていたら、すぐ隣に人道橋があった。
おそらく歩行者が渡るには結構危ないのだろう。
実際、車もかなり多いようだったし。しかし、その割に横断歩道が無いというのはこれいかに?。

祥鳥橋と言うようだ。ちなみに隣の人道橋は祥鳥橋人道橋と言うらしい・・・ってそのままやな〜。
ちなみに、ここで初めて、鍋取川の名前が出てくる。
今の今まで、一切この川の名前を記してきたもの、記していたものはなかった。
それもそのはず、暗渠化されるにあたって、橋梁は全て取り外され、親柱だけが残っていた例もあったが、銘板自体は一切無かった。
よってこれは実に貴重な銘板である。
後にも先にも、今現在、鍋取川の名前を知ることが出来る、出来たのは、これだけなのだから。
旧日の川は一体いずこへ・・・川は我々の立つ足元へ、姿を消した。
それから幾年月。再び姿を現す事はない。
ただ、川が合わさる場所は残された。
合流点だけが、そこにあった。

このような形で鍋取川はここで西高瀬川と合流する。
ちなみにここから急に西高瀬川の水量が増えるが、これは吉祥院下水処理場で高度処理された水が、橋の向こう側の放水口より放水されているためである。
ちなみに、水の色は、何故か薄い青緑っぽい色をしていた。
これより以北の西高瀬川は全く水量のない枯れ川である。
これは、水源が枯れているからである。
元々の水源、嵐山から三条天神川までは水が勢いよく流れている。
しかし天神川の現流路によって水源を絶たれてしまった。
その次ぎに、四条千本辺りで四条川と合流していたが、四条川はおろか、その水源であった堀川さえも暗渠化という憂き目を見る。
そうなると、もはや水源と言える水源がない。
雨の時は下水があふれ出て異臭を放つし、平常時は殆ど水がない、と言う姿をさらすことになる。
 しかしこの西高瀬川も、大きく変化する可能性が出てきた。
何故なら、只今急ピッチで進められている堀川の清流復活事業の一環として、二条城の堀へ導水した堀川の水が、どうやら、二条城南の西高瀬川へと流される予 定だ。
もし、この計画通りに進められれば、西高瀬川にも、清流が復活しうるやもしれぬ。
(現実はそうはならず、そのまま堀川暗渠部に流されてしまいました Orz )
当然、二条で放水と言うことだから、その流路は四条千本から堀子川、そして、七条からは西高瀬川と言うことになる。
あの枯れ川が、清流とし蘇るのか・・・。
その答えは早ければ3年後ぐらいまでに出ているかもしれない。
(2014年 注 そうはなりませんでした(-_-|||))

暗渠の口であるが・・・個人的にあんまり足を踏み入れたくないな〜。
堀川一条戻り橋の下、かつて小川が合流していた箇所にある(あった)土管の合流点は、土管から水はそんなに出ていないものの、強烈な水音が奥から響いてい た。
あの圧迫感のある土管の中からそれだけの水音となると、とてもじゃないが入る気になれなかった。
下手をすると、廃隧道よりも危険度は上かもしれない。
まあ、遠目に見るだけにしておこう・・・今は。
複雑な出生と、奇妙な関係。
もと、流れていた堀川は河川の付け替えに遭い、今では直接鴨川に注ぐ流れとなってしまった。
その堀川の下流部は廃川とはならなかったものの、今度は鍋取川としての流路となり現在に至る。
しかしその鍋取川も水源があるかどうか分からない状態でやがて、下流部も、暗渠になった。
・・・それでも、どこからともなく水はやってきて、高いところから低いところに流れ、ここまできた。
 その終の地。終着駅なのだろう。
ここは。

ごくろうさん

そんな言葉が出て、私はいそいそと仕事に走ったのでした。

鍋取川 了

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