京都市中京、下京区 堀子川 現流路(序)2007 12/18


堀子川は西院の東側、堀川の西側にあり、北に四条通があり、現在の西新道通で四条川(廃河川)と分流し南下していた河川である。
上の航空写真(昭和49年撮影)を見ていただけるとわかりやすいかと思う。
青色は今回レポ−トする堀子川。
赤色は以前レポ−トした四条川。
黄色は西高瀬川。
紫色は位置関係をわかりやすくするために書いた堀川。
である。
実はこの堀子川は、現状では西高瀬川になっている。実際、堀子川という記述を調べると、西院昭和風土記の中で次の記述が見つかった。
”西院昭和風土記より”四条川についての記述
四条川は道路(四条通)の北側を流れ四条堀川に堰があった。

西院村、西七条村の要求で堀川より四条大宮までを暗渠とし、大宮より四条川と名付ける。
千本四条で西高瀬川を合流。
四条通の下を流れ南側を沿い流れ堰をして西へ流し込んだ。

この文の説明があり

今の西新道の西側で堰を造りこれから西へ流し、その川の名前を堀子川とした。
四条川はそのまま西へと流れ、嵐電西院駅の線路の下を流れ高山寺当たりでは土手の松並木の南側を流れていた。

昔は四条川があり、西高瀬川も千本四条で四条川に合流し、そして、堀子川と分流していたようだ。
現在では四条川が事実上消滅し西高瀬川が四条通を越えて嵐電の下を流れ西流、そのまま堀子川となっている。

”西院の歴史”にも堀子川に関しての記述があった。

水源は堀川から四条川(一部西高瀬川)で西新道通り(高橋)辺りで分流し南下させた。
この水で下代(西院から見た南方)と言う平町、矢掛、寿、溝崎、高田など、現在の西院第二学区に相当する田畑を養っていた。
但しこの川は壬生地区内にある。

また、明治初期の”京都府地誌”にも次の記述が見られる。

四条以南は堀子川と称し水源を堀川とし、壬生村を経て四条通中川より南下し村内十四丁を過ぎ川勝寺村に入る。
濁流、飲用に堪えず。川幅三間。

とある。
更に決定的なのは西院の歴史p147にある鳥瞰図である。
右上に”文久発玄 西川通船路新開図”とあるのでだいたい1861−1863年の間に描かれた図であるが、この図は当時の水路を一望に出来る貴重な図であ る。
著作権の関係上、WEB上に掲載することは出来ない。が、これを見ると四条通に沿い流れ、地図上に示した分岐とほぼ同じ形で四条川より分岐し、南へ流れて いる。説明には”西高瀬 堀子川筋”とある。

しかし、堀子川とは一体どこから何処までのことを言うのか?。実際堀子川という名前を冠した橋が架かっているのは、ほとんどが四条川との分岐地点から五条 までの間であり、それより下流では、西高瀬川の名前が冠されている。
どこから何処までと考えた。実際一時は西高瀬川のかなり下流域まで調べたが、何せ、範囲が広くなりすぎる。
これは明らかに西高瀬川として書くべき領域だと判断し、レポ−トする範囲の選定にかかった。
何処から何処までが堀子川で何処から何処までが西高瀬川なのか?。
その答えは手持ちの昭和10年の地図から導き出された。
 堀子川は昔、現在とは全く異なる流路を流れていた。現在の西大路の手前、現在の七条第三小学校辺りで南に屈曲し南流、西大路通り沿いに流れそのまま東海 道本線を潜り、屈曲を繰り返し旧天神川と合流。しかし、この旧天神川の蛇行の具合やら堀子川の合流の具合やら、また調べないといけない物が増えちゃった。
と言うわけで、このレポ−トの範囲は四条川との合流点から西七条比輪田町辺りまでとした。いや、そこで区切らざるを得ない物を見つけてしまったのだ。今回 は。

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