東高瀬川机上調査編 2015/07/15


higashi takase1東高瀬川は京都市内の東側、十条通りのやや北側から、鴨川 と平面交差して存在していた河川である。
この河川は、江戸時代に入ったごく初期に角倉了以により、京都と伏見の港を結ぶ水運の運河として掘削されたという。
 京都は江戸時代、まさに物資の一大消費地であった。
その物流を支える要、まさに大動脈としての運河であったようだ。
だが、内陸の運河であるため、外洋などの底の深い船では船体自体がつっかえて運搬には向かないため、そこの平らな、高瀬舟を用いて物資の運搬は行われた。
 最盛期には200隻以上の高瀬舟が、引き子と呼ばれる人夫の手で引かれながら伏見から、京都に向かって登って行った。
京都市街地の物資の積み下ろしなどを行う集積所は二条通り南に今も存在している一の舟入と呼ばれる、場所があり、その舟入が三条、四条と南に行くにつれ、 二の舟入、三の舟入などというふうに、数字が大きくなり、計9カ所の舟入と、数カ所の舟廻し、そして伏見側から見て最初の集積地が塩小路通と、河原町通の 交差点付近に存在した「内浜」と呼ばれる集積所となる。
 この近辺には材木町、塩屋町など、扱っていた物資の名前が、町名として残っている。
長らく京都の物流の大動脈を担ってきた高瀬川に陰りがではじめるのは、江戸時代も終わり、明治時代になってから整備され始めた鉄道網や、近代に入り自動車 が台頭してきてからであった。
 まず、近代に入ると、高瀬川の付け替えが頻発する。
特に鉄道が通った塩小路付近では、数える限りでも3回以上付け替えが行われた。
その南側である東九条付近も、付け替えが何回か行われている。
そして東九条の南、鴨川が徐々に屈曲する付近で、鴨川に杭を打って船の通行を可能として、高瀬川と鴨川の平面交差が行われていた。
 鴨川を渡った場所は福稲高原町の「若草児童公園」付近である。
ここから東高瀬川の流れは始まっていた。
この付近には、かつての流路を偲ばせる水両調整用の堰跡と思われるものが残されている

そこから南側には、2008年に完成した高速道路のインターチェンジが存在しており、旧日の姿を探ることは実に難しい。
なにより、地形が改変されすぎており、もはや、これができる以前の姿は、古地図などから拾い出して、想像するより他無い。

十条通りを潜った東高瀬川は、その近辺で分流していた。
上記の赤い線で書いたものが、古地図から拾い出してきて、現代地図にトレースしたものになる。
伏見工業高校付近を流れて稲荷新道や砂川通りを潜って、現在の京都府警察学校、かつての「京都兵器支蔽」の北側から西側に沿って流れると、現在の竹田街道 と東高瀬川が交差している付近まで流れ、再び東高瀬川に合流していた。
ただ、明らかに京都兵器支蔽を造成するために流れを変えられている節があり、これができる以前はもっと異なった流れであったことは、想像に難くない。



higashi takase2東高瀬川だけに目が行きがちではあるが、この近辺に地形 や、境界線で残っているのはそれだけではない。
 かつての鴨川は、勧進橋を渡ったこの付近で大きく屈曲しており、現在でもその姿は航空写真からでも読み取ることができる。
この付近は、1935年の「京都大水害」で大きな被害を出した地域であり、このような屈曲した部分では破堤して、深刻な浸水被害が起こっている。

また、竹田街道も右図上、紫で示したように現在よりもやや屈曲していた。
勧進橋を渡ったこの地域では、竹田街道を頂点として、鴨川と東高瀬川に向かってなだらかに下っていく地形だったものと思われ、竹田街道自体が一種の堤防の 役割も担っていたようだ。

この付近の情報は、掲示板にて情報提供してくださった「チクロ」様の情報を大いに活用させていただいています、この場を借りてお礼申し上げます。
ここではその一部を抜き出してみたいと思います。
チクロ様曰く
・・・この水路の続きと思われるものがあるのです。それは、その先の西浦 町をさらに南に進み、自動車道を渡ると墓地があるですが、その向こうの名神高速の高架下に水路(汚水と泥がたまっていますが流れはありません)が地上に現 れているのです。(途中の西浦町にも地上にあらわれている箇所があったようなきがします)この水路は、高架下を抜けるとまた暗渠になるのですが、道路を 渡ってすぐのフチ町にまた現れます。ーーーちなみに高架下を抜けて暗渠になってすぐの地下で、名神高速の南側に沿って京阪藤森駅の方から伸びている別の水 路(チョロチョロだが透明な水が流れている!)と合流しているみたいです。
 そして、フチ町に現れた水路ですが、曲がりくねりながら七瀬川公園あたり まで続いています。そこから先は分かりません。おそらく、七瀬川に合流していたのではないかとおもわれます。ただ、この水路も最近通りかかったら、大部分 が暗渠になっていました。
 あと、24号線との交点の所にある行き止まりの橋は駐車場として使われて いました。20年ぐらい前の事なので今はどうか知りませんし、本来の用途なのかわかりませんが・・・
 まず、先の高瀬川分流が存在する、「深草川久保町」の現在の東高瀬川から、東へわずかに伸びている分流跡であるが、明らかに流れの方向と向きがおかしい と思って、調べていくと、上記の分流の合流点であったという推測が成り立つ。
現在では深草ヲカヤ町に残されている流路跡は、古地図から調べていくと、かつては繋がっておらずに、現在の位置でいうと、竹田街道脇にあるマンション付近 から、別の分流で流れていたようである。そのまま、家屋の合間を縫うように流れていく河川は深草西浦町付近を流れていたようだ。
だが、これも市街地化が著しい地域であり、もやは、古地図と航空写真から出来得る限り正確な位置であろうものをトレースしたものが下記の地図になる。



higashi takase3先ほどのチクロ様の情報
・・・この水路の続きと思われるものがあるのです。それは、その先の西浦 町をさらに南に進み、自動車道を渡ると墓地があるですが、その向こうの名神高速の高架下に水路(汚水と泥がたまっていますが流れはありません)が地上に現 れているのです。(途中の西浦町にも地上にあらわれている箇所があったようなきがします)この水路は、高架下を抜けるとまた暗渠になるのですが、道路を 渡ってすぐのフチ町にまた現れます。ーーーちなみに高架下を抜けて暗渠になってすぐの地下で、名神高速の南側に沿って京阪藤森駅の方から伸びている別の水 路(チョロチョロだが透明な水が流れている!)と合流しているみたいです。
 そして、フチ町に現れた水路ですが、曲がりくねりながら七瀬川公園あたり まで続いています。そこから先は分かりません。おそらく、七瀬川に合流していたのではないかとおもわれます。ただ、この水路も最近通りかかったら、大部分 が暗渠になっていました。
 あと、24号線との交点の所にある行き止まりの橋は駐車場として使われて いました。20年ぐらい前の事なので今はどうか知りませんし、本来の用途なのかわかりませんが・・・
から割り出していこう。
西浦町付近の東高瀬川分流は現在の竹田街道の東側に沿うように流れ、その流れは高速道路のひとつ手前の道路付近で大きく屈曲して東南方向へ流れていた。
この付近は、日本初の高速道路が造成された地域であり、もはやかつての地形がどうだったかを知る手立ては、古地図と航空写真から導き出すしかない。
・・・その向こうの名神高速の高架下に水路(汚水と泥がたまっていますが 流れはありません)が地上に現 れているのです・・・
屈曲した流れはやがて、高速道路の高架下に現れる。
汚水や泥濘が溜まっているものの、川がかつて流れていたという姿はかろうじて残されている。
古い航空写真から得た情報では、この分流の位置は高速道路ができる前と、できた後でもほぼ変わっていない。
そしてその手前、北側の流路は、コンクリートの蓋が被せられて、そのまま暗渠化されているようだ。
・・・ちなみに高架下を抜けて暗渠になってすぐの地下で、名神高速の南側 に沿って京阪藤森駅の方から伸びている別の水 路(チョロチョロだが透明な水が流れている!)と合流しているみたいです・・・
確かにこれは藤の森方面から伸びる別の水路と合わさっている。
しかし現地に行って感じたことは、水路の高低差と、地形の高低差が一致していないことだった。
もちろん、水路を逆流するような逆勾配にはなっていないものの、地形の勾配と比べると、水路の勾配は弛く、古い航空写真からは、高架付近を潜った分流は、 深草フチ町付近に向かって流れている。
なぜこのようなことが起きているのか、原因として考えられるのは、やはり高速道路の造成時に何か行われた、ということであろうか。
まだ机上調査の時点では答えを導き出す資料には当たっていない。
 現在の藤の森合同宿舎の北西側を沿うように流れた分流は、ひとつ向こう側の道路まで流れ、そこで暗渠となり、姿を消す。
その姿を追っていくのが下記の地図となる。
また、砂川小学校の南にある河川跡は、古い航空写真から見ると点線で、分流に合わさっているように見えるが、これも見方ひとつで変わるものであり、この答 えは出せていない。



higashi takase4暗渠となった分流は、そのまま道路に沿って南に向かう。
そして、七瀬川児童公園の西側で地面にコンクリートの蓋が現れ始めてその姿を表す。
家屋の裏手を縫うようにして流れていた河川は、ここで、出所不明の暗渠からの流れを合わせる。
これはおそらく、雨水排水用の水路だとは思われる。
ここから先しばらくは、分流は地上を流れており、全く問題なく追うことができる。
しかし流路を路地に転用したと思われる細い道を通り、住宅地に出た瞬間に流路跡が消滅してしまう。
この流路後は点線で右図に示したが、これは自信がない。
おそらく、こうであったであろう的に受け止めてくださると幸いである。
流路はそのまま南にある七瀬川に向かうのではなく、西に向かい、竹田街道手前で七瀬川旧流路に注いでいた、ように見える。
なぜこんな流れになっていたのか?
この答えはまだ出せずにいる。
 次に伏見街道を潜って流れる「七瀬川」だ。
この河川は現在では改修が行われて、非常に親水性のある河川となっている。
七瀬川児童公園付近から南西方向へ直線的に流れて、竹田街道が南東に屈曲した直後の付近で竹田街道と、近鉄京都線を潜って南西に流れ、そしてすぐに西に流 れる。
そして、現在の東高瀬川に注ぐ。
チクロ様曰く
・・・サングレールアベックスというマンションのあたりから24号線と交 差する所までの区間は今は暗渠になっていますが、この区間の西側の護岸のどこかに(正確なポイントは忘れました)子供が立って入って行けるほどの大きさの 丸い横穴がありました。
 私は子供の頃によく友達と一緒に七瀬川に入って遊んでいましたので、この 穴にも一度入ってみました。
 入る前はずっと奥の方へ入って行ってやろうという気持ち強かったのです が、少し入っただけで気味が悪くなって引き返した記憶があります。
 この横穴は位置的に考えて例のフチ町の水路の南端であり、七瀬川と合流し ていたのではないかという気が子供の頃からしていましたが、どうでしょう・・・
この付近に穴があるとの情報をいただき、「穴菌」に取り憑かれている私は嬉々としてプレ検索に向かうも、改修後の河川の姿を見てリアルで「Orz」となっ たことは秘密である。
さて、この穴であるが、これは合水式の下水道ではなかったか、ということ。
入った時の石鹸のような匂いと、奥から轟々と流れる水音が聞こえれば、その穴は合水式の下水道
である可能性が非常に高い。
ただ、この穴は、かつての分流の流路を転用したものである、という可能性は高くはないのではないか?。
あり得るとすれば、七瀬川自体の旧流路を転用した可能だが、この答えも、未だ出せずにいる。



higashi takase5七瀬川旧流路は竹田街道を潜った付近、加賀屋敷町の東端で 現在の流れに合わさっていたが、この直角に近い曲がり方は、非常に危険だと思われる。
増水した際にこの直角部分はまともに水を受けることとなり、破堤する可能性が高いからだ。
現に1935年の京都大水害ではこの七瀬川でも水害が発生したものと思われ、その結果として、1946年の航空写真では、付け替えられた現在の流路と、そ の北側にある旧流路が同時に写り込んでいる写真となっている。
だが、東高瀬川の付け替えもこれだけではなかった。
加賀屋敷町の南、竹田狩賀町付近で、またもや90度の直角カーブで、さらに100mほど流れたところで、次の直角カーブで南に向かって流れていた。
消える魔球も真っ青の連続直角カーブ(私が知る限りこれ以上すごいのは、紙屋川旧流路の現・阪急と交差していた部分で、リアル「S字カーブ」状に折れ曲 がっていた箇所だけだ)
 この地図上の「新高瀬川」は、東高瀬川や疎水と比べると新しい河川で、疎水の水を東高瀬川に放流するために開削されたようで、1910年の地図上では、 まだ未開削であった。
(当レポートでは、新高瀬川とは表記せず「疎水放水路」として表記する)
疎水放水路の付近まで流れてきた東高瀬川は現在の流路の東側を流れていた。
 現在の流路はおそらく、京都大水害後に改修されたもので、1946年の航空写真からは、新流路を流れる東高瀬川を見ることができるので、河川改修は、 1945年以前、1935年以後の期間に掘削されたものと思われる。
旧流路は残されていないかというと、そうでもない。
「上板橋通」付近から南側には、水はわずかしか流れていないものの、旧流路がそのまま残されている。
また、この付近には月桂冠酒造などの酒造会社が存在しており、豊富な地下水があった頃の名残だ(これと似たものが、西高瀬川三条付近の木材問屋であろう。 かつて、嵐山から木材を流し、その集積地が三条通付近に存在していたので、現在も西大路三条より東には木材問屋が多く存在している)
現役で使われていた東高瀬川がどれぐらいの川幅だったのかがわからないが、現在のように、溝、と言っても差し支えのない規模ではなかったことは確かだろ う。










higashi takase6鴨川東岸から流れてきた東高瀬川も、ようやく終点が近く なってくる。
魚屋橋通付近で、旧流路は東に流れを変えて疎水と合流する。
 現在では、もやは、申し訳程度の水しか流すことのできない東高瀬川旧流路だが、かつてはこの伏見に港が存在していたことからもわかるように、水量も豊富 であった(その上、宇治川の河床が高かったので、三栖閘門も存在していなかった。)
そして、伏見は大阪からも通船が行われてたため、物流の拠点でもあった。
水運が廃れ出したのは前述した通り、鉄道や道路などの陸運が台頭によって水運が効率的ではなくなったからだが、まず廃止されたのは伏見ー京都間の高瀬川の 水運だった。
京都、伏見間に鉄道も敷設されついに1920年代には廃止となった。
今日とー伏見間廃止となったが、大阪ー伏見間はまだ水運が行われていたが、京都大水害を契機に各河川の改修が本格的に行われ、宇治川の俊堞が行われた時 に、宇治川水位が低下したため、三栖に閘門を設けて通船を計っていただ、最終的に1950年までには廃止。
 (お隣の西高瀬川(堀川)には戦時中にはなんと50tクラスの船舶を通船させるための運河計画もあったとかなかったとか、もし、この計画が実現されてい たとすれば、京都の河川図は大きく変わっていただろう)伏見港の高瀬川、宇治川の水運基地としての役割は終わった。
ちなみに、伏見にはもう「港」はないが「港格」はそのまま存続しているようだ。
中書島ももともとは河川によって分断されていた「島」であったが、これもまた、埋め立てによって、現在の姿となっている。
 伏見の寺田屋もこの界隈に存在しており、決して浅くはない歴史を持っているのも、この地域の特徴だ。
幕末にはこの一帯が戦場となり、伏見市街地の大半が灰燼に帰した。

その時も、高瀬川は水を通し続けていた。
やがて、その川も都市化、特に近代に入り著しく発展した道路、とくに自動車が走るようになってからは、非効率という名のもとに水運から切り離されて、通水 する河川としてそこに残った。

流れが変わってから少なくとも80年の月日が流れている。
昔の流れに、どこまで迫れるか?、できるだけ頑張ってみたいと思う。
今少し机上調査にお付き合い願いたい。

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