東高瀬川机上調査編(2)

さて、机上調査編1の続きだが、色々と気になっているものがある。

それは、この付近を流れる「琵琶湖疏水」ができる前は、どんな地形だったのだろうか?ということだ。
琵琶湖疏水 それは1885年に工事が開始され1890年にほぼ完成、世界で3番目に古い湖、琵琶湖の水を「京都」まで通水させるための水道。
建設当時は2kmを超える隧道(トンネル)などは例がなく、また、工期を短縮させるために縦穴を掘り、途中の位置からも掘り進めるなど、例を見ない工法が 取られた。
完成した1890年には明治天皇の御幸行(あれ、字が逆だっけ?)もとり行われ、衰退しようとしていた京都に新たな資産が出現した瞬間だつた
(BGMは地 上の星でお願いします)

琵琶湖疏水は、京都の近代化と言う面で様々な分野に大きな影響を与え、工業的な利用価値が高かった(特に発電では)。
だが、琵琶湖疏水が今現在流れている流路に、かつてあった河川はどのような流れだったのか?ということに、私は非常に興味がある。


こちらは三の橋川、琵琶湖疏水の下を「ぶち抜いている」河川としては私自身が確認できる限り2本目の河川。
ただこの河川、「大丈夫?」と思える時がある。
だいぶ古い写真で申し訳ないのだが、三の橋川の琵琶湖疏水直下・・・ほら、見えます?
みずが”Byu-Byu-”天井から噴き出しているのを(シャッタースピードを上げて水が止まっているので大したことがないように見えますが、実際は結構 漏れてます)。
これ、まかり間違ってここから「圧壊」なんてことがあったら、もう大変。
この三の橋川付近で疎水の底が陥没して、三の橋川に水が漏れて、鴨川の堤防の中ほどに口を覗かせている河口部からまさに鉄砲水が吹き出すことになる。
また、ここ以外でも一の橋川と呼ばれる河川もまた、琵琶湖疏水の下をぶち抜いていた河川だったが、現在は下水道に転用されているようで、その流路跡が現在 のJR奈良線の鴨川鉄橋のすぐ下に口を覗かせている

一の橋川鴨川河口・・・危険?、んなこと、こちとらわかっとる!
(ちなみにJR鉄橋の橋台下にありますが、下水の臭いがひどく、近づくことが不快なレベルで、入り口がヘドロに覆われており、立ち入りは困難)

で、こちらがその上部、通水していない厳冬期に撮影に行った時に見つけたものだが・・・
疎水の底が「mokkori」と下を流れる河川の形で盛り上がってきとる・・・
ここで圧壊すれば「直ちに」危険だと思う。
何しろ吐水口がこの狭さなので、ここに疎水の水が押し寄せ河口から噴出、JR奈良線は安全確認どころの騒ぎではなくなる。
即不通になって交通は大混乱に陥るだろう。


次に調べていて不思議に思ったのが
この家屋の並び。
位置でいうと、京阪線伏見稲荷駅前の湾曲した道路である。
古航空写真でも家屋の並びやその状況が、どうしても河川跡に見えてくる・・・。
その考えを支持するのがこの付近の「町境界線」。
どう見ても、川が流れていたとして、その川を「町」と「町」との境界線として使っていたとしか思えない。
だが、追えるのは深草塚本町付近までだ、そこには現在「京都府警察学校」とその南に「深草龍谷大・短大」が存在していて、これでもかというほどの地形改変 が行われた場所・・・、さらに悪いことはもともとは「軍」の敷地であったため古地図からも割り出しにくい。
古航空写真なんかはすでに敷地が存在しているので、これまた割り出せない。

この付近にはいくつも河川跡と思われるものがあるが、琵琶湖疏水を隠したとしても、姿が見えにくい。
対抗策はある。
それ以上古い地図から情報を得ることと、「高低差」によって、流路跡を特定することだ。
東山や伏見の鴨川付近は高低差で見ればほぼ一様の地形となっている。

東山山塊が高く、鴨川が最低面、ということ。
そしてその間の地形も、それに沿った形だということ。
異質なのは琵琶湖疏水であり、明らかに「南北」の高低差では適切に流れてはいるものの、東西の高低差では「水みち」として、不釣り合いなほど「高い場所」 を流れている。
つまり、疎水を消してみて
その高低差的なものを埋めていく作業を行えば、ある程度琵琶湖疏水ができる前の河川の流れなどもわかるのではないかな、そう思っている。
ちなみにチクロ様から頂いた情報「〜砂川小学校の南側にも河川跡〜」ということも、調べてみたいが別項で書きたいと思っている。

七瀬川の付け替えももちろん興味深いが、付け替えられるということは、なんらかの理由がある河川だ。

GoogleEarthで何回も見ているが、何回見ても感想は「屈曲しすぎィ」ということ。
これ、いくら河口までの距離が(そこそこ)長く、勾配も殺人的な「修学院音羽川」より緩いとはいえ、この曲っている屈曲部は水の力が強く当たってくる箇 所。
そりゃ堤防を強固に作っても水が「越堤」しますわ、これは。
さらに昔は竹田街道を潜って今の流路にほぼ直角に注いていたため、その南側ではおそらく水害があっただろうと思われる。

さらに思ったんだけど東高瀬川と七瀬川の合流点付近・・・・これ、砂地ですよね?
明らかに暗渠内にも砂が堆積して、流れ出てきてますよね。
上流部の地名で「砂子谷町」「白砂町」「砥粉山町」なんていうのがあるのですが・・・これ、もしかしたら、天井川みたいに土砂を流すだけでなく、堆積させ 続けるタイプの川だったのか?


で、七瀬川も通り過ぎて次に不思議に思ったのが疎水の屈曲だった。

伏見に入る前にやや西に屈曲して再び南に流れている。
現在でいうと奈良街道の屈曲している部分、丹波橋の北側である。
なんで、ここで屈曲させる必要性があったのか、そして伏見の市街地に入ってからの屈曲はなんなのか?。

1890年代の古地図を見ても当然、疎水は書き込まれていて国鉄奈良線も「伏見まで」は開通している姿が見て取れる。この年代でも、まだ新しいと言うこと か・・・。

であれば、明治時代最初期の1873年頃(つまり琵琶湖疏水竣工17年前)でどうだ。

・・・・・なな、なんですと?!
疎水が通水する前から、ぐにゃぐにゃに屈曲する河川が書き込まれてる・・・・。
しかも、途中で途切れている・・だと?!
つまり琵琶湖疏水の伏見市街地を流れる部分は屈曲部からは元からあったということ?
いや、この地図からみると宇治川から直接流れ込んでいるということは・・・つまり河川ではなく「堀」であったということ?
これは今、伏見地誌を読んでいる最中なので、断定はしないでおく。
やっとわかった、伏見城の外堀だったんだ。
思いがけなすぎ。

さらに今の流れと異なる東高瀬川、調べることは山ほどある。
次回から、レポートに入っていきたいと思う。

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