二ノ橋川 2008/06/01

私とこの河川跡との接点は、小学校時代にまで遡る。
かつて私はこの方面に結構遊びに来ていた。
いつも使うル−トと言えば、九条通りを高橋に登り日赤前に出るか、九条通りから高橋の下道を走り東山橋、疎水、京阪線・JR線を越え東福寺に出るか、その どちらかだった。
  あの夏の日のことは今でもはっきりと覚えている。
その日も私は(もちろん宿題などそっちのけで)東福寺まで遊びに来た。
東福寺の北大門を過ぎる時にふと気が付いた。
”何でこんな所に橋が架かってるの?”
それがこの二ノ橋川との出会いだった。
あの殺人的な暑さも、吹いてくる熱風も、はっきりと思い出せる。
最近思っているのだが、35℃を越えると”猛暑日”と言う表現があるそうだが、38℃ぐらいからは”酷暑日”と言う表現を使ってみてはどうだろう。
40℃を越えると”危険日”など・・・・いや、危険日は別の意味で使われてそうだからやめておく・・・。
・・・思えばそれから随分と長い月日が経った。

そして先日、瀧尾川の調査中、一ノ橋、そしてすぐ南の三ノ橋を見つけたときだった。
なんで一があり、三があって、二が無い・・・?、私はふと、この冒頭に話た事を思い出した。
・・・まさか・・・あの橋?!。
一ノ橋と三ノ橋の中間点と言えばちょうど九条高橋から東福寺北大門辺りである。
と言うことは・・・やはりあの辺り以外あり得ない。

早速私は東福寺の北大門に走った。

ここが東福寺の北大門。
東福寺については私が語るよりも東福寺自身のSiteを ご覧頂いた方が良いと思う。
私がぶつぶつ書いたところで、まどろっこしいだけだ。
この北大門がいつごろからここにあるのかは分からないが、東福寺は度々火災による被害を受けているので、この北大門も創建当時のものではないと思う。
さて、その北大門の前を横切るようにして二ノ橋川は流れていた。
まあ・・・残っていただけでも良しとしなければならないだろう。
なにせ橋という名の構造物としては完全に残っている姿なのだ、北大門前の橋梁は(ただし、橋床部分はコンクリ−トなどにより補修されている)
この石組みの橋梁。
これだけは相当に古いかも知れない。

幅は3m程、長さは4m程か。
親柱は四基全てが欠損しており、橋の名前も知ることは出来なかった。
ここ、実は四輪車が通らない場所に残されており、四輪車通行止めが皮肉にもこのような橋梁を現存させ得たのかも知れない。
もし、四輪車が通っていたら、もっと保存状況は悪いだろう。
ここから北側は・・・何となく川跡のような地形は残っているが・・・トタンに覆われた塀の向こう側を望むことは出来ない。

もっとも、この写真に描き加えるならば、河川はこのように流れていたと思われる。
で、南側はと言うと・・・ってかあれなに・・?!

橋っ!?。橋があるのっ!?。

慌てて隣の道路に渡ってみた。
これは・・・確かに橋だわ・・・。けど何で、こんな所にあるのか?。
この道路は北大門のすぐ南を通る生活道路である。
昔の地図に記載がないところを見ると新しくできたか、単純に描かれていなかったかだが・・・どちらだろう?。
だが、こんな所にいちいち欄干を設けて橋梁を造らなかったところを見るとおそらく、橋梁が必要な河川であったことだけは分かる。
けどこの橋梁も、親柱は四基とも消失。
なんか恨みでもあるかのように親柱だけが無くなっている。
で、南側は住宅地の中に河川跡が続いている。

さすがに家の軒先に河川跡があるので写真は撮っていない。
しかし言えることは確実に流れていたであろうと言うこと。
しかし残念ながら、その後も、徐々に薄れていくやがて・・・消滅する。
住宅地の奥で東に向かい屈曲していたようだがそんな跡など、何も残っていない。
仕方がないので源流側に当たる場所まで東福寺境内を走って。

これ、これじゃないのか?。
この道路脇にある花壇。
こんな所に花壇など似つかわしくない。
これが河川跡か。
その河川跡を辿ると・・・一つの門に行き当たる。
私有地であるため入ることが出来ないが、この門の位置と言い、奥に続いているであろう道と言い・・・これは河川跡でしょ。
まるまんま、古地図と現代の地図とを比較して、河川跡をトレ−スすると、やはりこの位置に流れていたようだ。
で、この源流側を見ると、一つだけ、続きで花壇がありその先は・・・・完全消滅・・・か。
よくある完全消滅のパタ−ン。
道路敷きになり河川跡は消えていた。
一体どこを流れていたんでしょうかね〜。
暫く考え込む。
しかし考えている間にも太陽光線が”じぃぅわぁ〜”と優しくその強烈な熱光線で私の思考回路を焼き付くさんと、中天からがんがん太陽光線を振りそそがせて くださるこのごろ、皆様はいかがお過ごしでしょうか・・・・ってちっが−う!!。
あかん・・・思考回路がいかれしまったかな・・・これ。
もう、考えるより先に動こう。
先ず、古地図から読みとれたのは、この辺りから少し東に行った辺りで、南東側に屈曲していく姿である。
それを探そうと・・・結構な登りだな、これ。
ホントにこんな道路を流れていたのかと思いたくなるぐらい、何も残ってはいない。

この辺りだろうな、と思っているとそれっぽい場所が現れた。
確か斜めに流れていくと記憶していたが、この境内地と住宅地の境目。
これではないだろうか。
この地形に対しても斜めというのはあんまりない。この境界線を流れるのが二ノ橋川ではなかったのか。
漸く、斜めの場所に接近できる場所、と言うか路地があったので行ってみると・・・。
う−ん、なんともいえまへん。
河川跡だったのかどうかが、非常にびみょ〜。
石垣も組んであるがこれが護岸の跡かと言われてもびみょ〜。
地図上ではかなり近いところではあるのだけど、なんとも言えない。
これから先は・・って、完全に住宅地の中じゃん。
だめだこりゃ・・・。

一応住宅地の中も検索してみましたが、写真は住民の方々に配慮いたしまして掲載いたしません。
何一つ、それっぽいものはなかった、とだけ書いておきましょうか。

ここは日吉ヶ丘高校の南側の道。
この更に南側の山手あたりが源流なはずですが、何もありませんでした。
確かに付近にあるマンホ−ルからは結構な水音がするので、もしかすると暗渠になっているかも知れない。
しかし、ここも、かつては何もない山間の谷間だったみたいだけど、それを想像するのも難しいほど住宅地になっている。
 ここから上がっていくと、日吉高校の校門前に南に降りる道がある。
そこを降りていくと・・・今度は三ノ橋川の上流部に行き着いてしまう。
     いやいやいや、これじゃないでしょ、と慌てて戻ってきた。
やはり、地形的に見てもこの辺りなのだろう。
けど・・・う−ん、分からない。
流路が描かれている古地図と現状の地図とのギャップがありすぎて、分からない。

源流部は正に不完全燃焼に終わったが、下流部はどうだろうか?。
先程の東福寺北大門より河川は北に向かい流れ、九条号線橋の直前で西に向かって屈曲、そして、現在の疎水を越えた辺りで南に流れる流路と、西に流れ、南に 流れる流路に分かれていたように見受けられる。

一応最初の屈曲点を探してみるものの・・・こりゃダメだぁ〜。
だってこれだよ。本町通、九条号線橋、京阪、JR・・・。残ってた方がおかしいでしょ?。これは。
しかしここで一つだけ残された物がある。

親柱四基、歩道にど−んと組み込まれている。
異様に存在感のある扱いだね。
コンクリ−トの支柱を埋め込んであるのとは訳が違う、この風景。
かつては横に専用の場所を設けて安置されていたようだが、今ではこうして歩道に組み込まれている。
四基とも完全な形で残されており保存状況も非常に良好。

そして、ここで決定的な情報を得ることになった。
車道よりの南側にある親柱に文字が刻まれている。

伏見街道 第二橋

それは分かる。だが・・・この文章は・・・。
庇此処二ノ橋川ハ昭和三年
都市計画ニテ廃川ト成リ
依テ四基小○等受掃下為
記念永久ニ保存スル者也
発起人惣代 本町十五丁目 清水 茂吉
      本町十四丁目 久保 庄吉

ここ二ノ橋川は昭和3年
都市計画にて廃川と成り
依って四基小○等受掃した為
記念永久に保存するものなり
発起人惣代 本町十五丁目 清水 茂吉
      本町十四丁目 久保 庄吉
すんばらしぃ・・・。
清水茂吉さん、久保庄吉さん、あなた達の想い、確かに受け取りました。
末永くこの二ノ橋の親柱は保存されるものと思います。

二ノ橋川は昭和3年(1928)に都市計画にて廃川となる。
これに思い当たるのは京都市の都市環状線の構築時期と一致することだ。
都市環状線とはつまり、北大路、西大路、九条通、そしてこの東大路である。
市電の環状線を構築する為にこれらの通りは造られたようであるが、特にここ東大路は傾斜地と河川との間隔が狭かったのだろう。
またちょうど屈曲点を越えてすぐの辺り・・・。
九条号線橋と言う高橋で一気に京阪本線、JR奈良線、琵琶湖疎水、鴨川を越えて九条河原町へと接続される。
もしこれ、傾斜地の通りに道を造っていたらさぞかし渋滞する場所になっただろう。
何せ二つの路線を踏みきりで越えなくてはならないし登り坂に加えて、東大路が屈曲していく場所に当たっているのだから。
昔は現在の九条号線橋の存在する場所に東山橋が架かっていたようである。
ちょうど重なるので、おそらく架け替えられたものと思われる。

依って四基の親柱や他に何かを受領したために、その記念に永久に保存するものなり。
かつては親柱二基が歩道脇のスペ−スに安置されていたようだが、いつの間にやら綺麗に歩道が整備されて歩道に組み込まれる形になっていた。
これで良いのだろう。使われず片隅に保存されているよりも、こうやって、人とふれあえる場所にあった方がいい。
その方がこうやって私のように見に来たりする人も直接見ることが出来、触ることも出来て、満足できる。但し、御犬様のお小水をかけていくのだけはやめて。
しゃがんで文字を見ていたら、そこはかとなくお小水のにほひが鼻をついてきたから・・・。

思わぬものが思わぬ所に残されていたが、これから先の下流域は大いに心配だ。
昭和3年・・・80年前である。
まあ、なにも残っていないであろう。
先ず河川跡として接近できる最初の場所、京阪線と、JR線の間にある住宅地、ここで一人の女性に話を聞くことが出来た。

二ノ橋川証言 80代女性

川なら、小さいのが流れていたよ。直ぐそこだけどね。
ただ、あなたのいっているものとは違うと思うよ。
けど今はもう無いよ。
埋められちゃったから。
昔ね、凄い大きな土管を埋めてたことがあったから、多分、その土管を今は流れているんじゃないかしら。
 他には一の橋や三の橋とかがあったわね。
四の橋は大分南に行かないと無いけど、一と二と三はこの辺りにあるわよ。
三は直ぐ南に、あの橋は、下にちゃんと川が流れているから。
ずっと昔は鴨川に流れ込んで、疎水が出来てから疎水に流れ込んでいた。
鴨川に流れ込んでいたときの流れは、九条の高橋の鴨川下、西側に今でも残っていると思う。
暗渠になってね。
私もここに50年住んでるけど、それ以外の川は、ここを流れているのは見たことがないわね。

川は流れていたらしい。
しかし、今はない。
ここ50年以内で暗渠となったようだが・・・また暗渠に入らないとダメですか?!、これ。
 この付近で鴨川に顔を出している暗渠の口と言えば・・・あそこしかない。
現在の東山橋の袂、堰堤になっている箇所、上流側から見て左岸に暗渠の口が見える。
おそらくあれか・・・。
凄く大きな土管であるけど、おそらくコンクリ−ト製の管だろう。
昭和中盤に入るとさすがに陶器製の土管は極小規模なところでしか使われていないようであるし、それだけ大きなものになると、鉄筋入りのコンクリ−ト管だろ うな・・・。
ただ、あの暗渠・・・どちらに向かっているのか?。
昔、接近して見たことがあるが、北西に伸びているように見受けられた。
北西となると、全く見当違いな方向に伸びている事になる。
九条号線橋の真下に伸びているとなると・・・全く関係のないただの下水幹線ではないか。

一ノ橋も三ノ橋も探し当てた時だったので、ありますよね−、とお答えしたが、四ノ橋は余り調べてはいなかった。
後で調べると、四ノ橋を流れている河川は、七瀬川、四ノ橋の別名が直違橋(すじちがいばし)と呼ぶらしい。
まだ暫くかかりそうな上、それ以上にまだ何かありそうである。
この伏見街道沿いには。

琵琶湖疎水が出来るまでは、鴨川まで流れ、疎水が出来た後は疎水に合流していた。
そりゃ、この傾斜と流れから考えたらそうなるよ。
鴨川、桂川が京都盆地の中では一番低いんだから、そこに向かって流れるよね。
エッシャ−のだまし絵じゃあるまいし、東山山地に流れていったなんて事はないよね・・・。

さて、では、追跡してみよう。
先ず、琵琶湖疎水までの間、何も残っておりません。
まぢで。しつこく探してみたものの、全くない。
道路に転用されるか、建物の下に埋まったか、どのみち何もない。
全く。

琵琶湖疎水までは直線距離にして100mもない。

何処かに合流点があったのだろうが、護岸もコンクリ−トになっているし、当時のまま残ってはいまい。
しかし一箇所だけ護岸の組み方が違う場所があった。
そして、疎水一筋東の路地に川跡ではないかと思われる、地形の起伏があった。
しかし、西に向かって流れていたであろう流れも、見た限り、跡形もない。

では疎水を越えると・・・これではないのか?。
疎水の脇、師団街道を越えてすぐ南側に谷状の地形が見えてくる。と言うのか、谷状の地形に住宅が建ち並んでいる。
谷状の地形の東側、わかりやすく言うと、北から見て、鴨川寄りには石垣が組まれている。
確信は持てないが、おそらくこれだろう。けど、住宅地になっており近接撮影不能。

所々の空いている場所で写すとこんな感じだ。
80年以上昔はここを流れていたのであろうか?。
しかしそれも・・・住宅地の中で跡形もなく消え去る・・・。
これは消滅しているよ・・・。
無いよ、跡形もなにも。
谷状の地形も何もなくなって、ごく普通の住宅地の中を私は歩いていた。
すぐそこが鴨川左岸の堤防になる。そこを上がってみる。

現在の鴨川の流れが私を迎えてくれた。
この左岸の何処かに、昔は二ノ橋川の合流点が存在した。
そのころはこの様なコンクリ−トの護岸ではなく、石垣と自然とに任せたものであったのか?
地図の位置的に言うと、この辺りのはずであろうが、何も残っていない。
この辺りも稲荷山トンネルの入り口に向かうための工事が行われており、私が昔遊んでいた頃とはかなり違っている。
昔はもっと鴨川も汚く、この辺りにはヘドロが溜まっていて、川からも異臭がした。
水は濁って、少なくとも綺麗、とはほど遠い河川であるような気がしていた。
近年、河川の親水性を高めるため河川敷に遊歩道が北から延伸され、この辺りも随分と印象が変わってきているのも確か。
対岸では高瀬川を含めた右岸の総合的な治水工事が行われている。
昔を知る者(たかだか20年程前の事を知る者です)が、こんな事言うのも何ですが、時の流れは非情ですね。
けして留まることもなく、逆らうこともなく、ただ未来の方向へ向かって流れるだけ。

で、お待ちかね(誰が?)の暗渠に話を移そう。
場所は九条号線橋の下、東山橋の袂になる。先程書いたとおりの場所、堰堤になっている場所の東側、護岸に暗渠の口が開いているのだが・・・。
またこれ下水でしょ。
なんか、石鹸水のニ・ホ・ヒがする空気が穴から漂ってくる。
 他の穴と同じように、穴の中からは轟々と水の音がする・・・。
まあ、最近では慣れてきたけどね。ただ、やっぱり、独特の緊張感がある。
独特の臭いもね。
さて入り口付近はしゃがんで入らなければ、入ることが出来ないほど天井が低い。
以外にも、光は奥まで差し込んでおり、なかなか明るい。
しかしその先は、いつもと変わらぬ白と黒の奇妙なコントラストがあった。
河床部は荒いコンクリ−ト。
それも結構年季が入っている。
う−ん。
一体いつ頃に施工されたのか・・・あ−−−−っ!!。

これこ れなにっ?!
突如として現れた階段、しかも石組み。一体何?、ここは。
この階段の手前で、天井が高くなり、普通に歩行することが可能である。
しかもこれ・・・曲がってる・・・。
入り口からは北西に向かって伸びているように見えた暗渠は、なんと階段奥の辺りから徐々に南へ、つまり方角的に言うと東へと曲がっているではないか。
・・・これ、もしかしたら二ノ橋川の西に流れていた流路をそのまま転用しているのか?。
疎水を越えた辺りで二つの流れに分かれているように描き込まれていたのを覚えているが・・・その流れていた筋か。

階段を上ると・・・うわ、ヘドロだよ、ヘ・ド・ロ!!
河床部はまたしてもヘドロに覆われており、これ以上の進入不可を決定づけるものとなった。
その先の方に見えている。
合水式の下水道が。
雨で水位が増えるとこちら側に流れ出してくる仕組みである。
 京都市内で何カ所ぐらいあるんでしょうね?、こういった形の合水式下水道は。
私が知っている限りでも、天神川、清水音羽川、堀川(2008年封鎖)、鴨川(太田川暗渠)、西高瀬川、養老田川(四条川)と6箇所を知っているが、おそ らく相当な数が存在するのだろうな。
ふう・・・やっぱり出口が近いと、ほっとするね。
けど、何でいつも石鹸水の臭いがするんだろ?。しかも生暖かいし・・・。
まあ、あんまりいい気がしない場所であるのも確か(当たり前です)

東山橋と九条号線橋。
近代化の象徴であるこのような大型永久橋が架けられるようになったのは昭和になってからと聞く。
だが、それまで流れていた河川のことを気にする人は殆どいない。
こういった小河川は、歴史の表舞台に立つこともなく、ただひっそりと消えゆくのみ・・・。

二ノ橋川(完)

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