紙屋川・西高瀬川立体交差(1860頃) 同場所付 近(2016)


1860年代の京都、現在の右京 区には幾多の河川が存在していた。
特に西院の地では、村域の中央を四条川が流れ、村の西側を天井川となった紙屋川(現・天神川)が、そのさらに西側を小室川が流れ、村の北側の三条通り沿い には幕末から明治初期にかけて開削された西高瀬川が存在していた。
 その中でも珍しかったと言えるのが、この西高瀬川と紙屋川の立体交差ではなかっただろうか?
最近でこそ、サイフォン式による立体交差こそあれ、当時としては非常に珍しい光景であったため、都百景でも描かれているのだろう。
今回はこの「西高瀬・紙屋川・水門」なる版が描かれた場所を探ってみたい。
 まず紙屋川の流路を調べると、現在のものと大幅に異なっていることが目につく。
太子道より南に向かい、三条通付近で西に向かい、現在の西小路付近で南に流路を変え、四条通りを越え、現在の阪急線直前で再び西に向かって流れる・・・。
 一つ特筆すべきは太子道から南側は天井川であったということだ。
つまりこの版の中央部にある流れは天井川である紙屋川を描いており、通船している下の川が西高瀬川ということになる。
西高瀬川も現在は三条付近を流れているが、幕末に開削された時は四条通を流れる流路であった
ただ、この水門(と書かれていると思う)という文字には違和感を覚える。
なぜならこの二つの河川は明らかに繋がっておらず、一つは河川の下に隧道を掘って流れ、もう片方はその河川の上を天井川として流れているからだ。
これは脇の人々が坂道を登っていることからも明らかで、地図上では距離0mであっても、このふたつの河川が平面交差や互いに影響のある交差をしているわけ ではなく、流れ的には全く別の河川が立体交差をしている。
 遠くに描かれている家屋の屋根はおそらく西院村の家屋の屋根であり、背後の山は東山山系であろう。
「西院昭和風土記」にも紙屋川堤防の強度を上げるために竹を植えたという記述もあることから版中に書かれている竹は紙屋川堤防のものも含まれているのだろ う。
場所の特定には「西院昭和風土記」や「西院風土記」が大きく役立った。
かつての四条通は現在の半分程度の広さで、西院から西に抜けるためには天井川である紙屋川を越える「一ノ坂」、次の天井川である御室川を越える「二ノ坂」 を登らなければならなかった、という記述も版中の坂道と一致する。
 さらに版の描かれた年代も1860年代頃であり、西高瀬川が四条通り沿いに沿って開削されたころであり、紙屋川と西高瀬川の立体交差ということでは、明 らかに現在の三条通り付近に流れる西高瀬川の流れと版中の流れは一致しない。
現在見られる西高瀬川は後年に京都府の手で付け替えられたもので、年代もと一致しない。
また、紙屋川の流れていた近辺にこのような天井川で、家屋のある場所も西院近辺しかなかった。
 この版に描かれている風景は現在の西小路四条交差点、四条中学校前付近から東を見た風景だったと推測できる。
 つまり、この坂も川もない西院西部のこの位置にはかつて写真中のローソンの看板の高さ付近に匹敵する天井川が存在し、その堤の下をもう一つの河川、西高 瀬 川が東西に向かって流れていた。
紙屋川自体が造り上げてきた堤を超えるために四条通はこの付近で4m近い高低差を長い坂によって超えなくてはならなかった。
そして、西高瀬川には嵐山方面からの物資を載せた船が通船していた。
この付近の四条通は1945年以降の拡張であり、ここに川にあったことを知る人も、もはや数少なく、このような古い版の情報もやがては消えていくのだろ う。
 今はただ、自動車道の上を自動車が行き交う郊外の日常的な光景が広がっているだけだ。

撮影機材 Canon Powershot G12 (SS 1/500 ,  A F5.6 ,  ISO 100 , WB Auto)
その後の河川たちはどうなったか?
 紙屋川旧流路、御室川旧流路、四条川、養老田川、地図に記載していないが、羽田川(呼称)などは近代化とともに、1935年に発生した「京都大水 害」で氾濫し、大きな被害が出たため、河川改修によって現在の姿へと付け替えられており、それに伴って西院村域で天井川だった紙屋川と、その西の御室川も 現在の天神川が完成したのち土砂を取り除かれ、四条通りに存在した一ノ坂、二ノ坂もなくな り、四条通り自体も拡幅され、現在に至る。
四条川は昭和初期の地下鉄工事の際に廃河川となったようで、その後も排水のために西大路より西側は河川としては存在していたが、これも1950年頃、廃河 川となっている。
養老田川はかつては西高瀬、(四条川)に注いでいた流れから洪水対策のためだろうか、直線的な流れで現在の天神川に合流する流れへと変わり、2008年に 三条から四条までが暗渠化された。
羽田川も住宅地化されていく過程で廃河川となっていて、現状で西院地区に流れていると言えるのは三条通りの西高瀬川、四条西小路西の養老田川のみとなって いる。
 ただ一つ異なった結果を享受している河川も存在している。
西高瀬川の天神川より東側の流路は、現在の天神川開削時に流路を寸断され、天神川を挟んで西側は嵐山からの水を讃える河川であったが、西側は天神川事態に 水路を遮られる形となり、「かつて」水が流れない状態となっていた。
しかし2016年5月現在、西大路三条付近を分水嶺とするポンプアップによって、西大路三条から現在の天神川三条への水流と、西大路三条から壬生の掘子 川、西大路五条南、月読橋からJR西大路、吉祥院方面に流れる西高瀬川への水流が蘇っている。




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