養老田川 2007/06/01

整理番号CKK-74-14 地形図番NI-53-14-6 撮影コ−スC13 写真番号22 を切り出して画像処理を施した。

上記の航空写真は国土地理院保有の昭和49年度撮影のものである。
今回はえらいと書き込むものの量が多く苦労したが、この中の中央右寄り、東側を流れる養老田川(よろだがわ)をレポ−トする。
この河川は西院昭和風土記の中にもごく僅かな記載しかない。
先ず生い立ちが分からない。手持ちの古地図の中でこの河川の姿が確認できるものは1902(明治35年)の地図上で確認できる。
しかし、それは幕末に開削され、京都府で付け直された西高瀬川から分流する形で書かれている。
もとから流れていた小河川だったのか、それすら定かではない。更に時代を新しくして1915(大正4年)の地図では非常に詳細に書かれている。
その地図をもとに現在の地名で流れを書くと・・・
山之内宮前町にある山王神社の南南東側にある堰で西高瀬川より分流し、南流。
三条通を潜り山之内養老町、赤山町、西院小米町と流れ四条川と合流、西流し、再び南流・・・。
と言うのが、明治、大正の地図上での話。
これが現在では大きく流路が異なる。
山王神社から西院小米町までの流れはそのままであるが、それより先、四条通を潜り、西院日照町で90°西に流路を変えて、天神川現流路まで一直線。
四条通から南は明らかに取って付けたような流れになっている。
先に言っておくと、養老田川の旧流路は完全消滅している。第一、四条通を西進すると、現在では北に延伸した葛野大路にぶつかる。
それでなくとも、宅地化の進行著しい地域である。そのような跡など上の航空写真で見ることが出来るであろうか?。
現流路は皮肉にも、水源を絶たれながらも、河川として残った例である。
そして暗渠となる可能性も否定できない河川でもある(後述)。
また、古地図からは、幾筋の小河川が伺えたが、今現在、河川として残っているのはこの養老田川のみである。
この小河川の幾筋かが、羽根田川であり、探している河川なのだろうが、もはや河川を辿るどころか、跡形すらない。

場所は三条西小路を北に100m程上がった西高瀬川になる。この西高瀬川は桂川の嵐山渡月橋以東で分流し、そのまま東に流れ、御室川などと合分流し、山之 内宮前町辺り、山王神社の南東側で養老田川と分流していた。
かつては、嵐山からの木材を直接流していた河川。
当然ながらそんな事をやっていたという面影は、何処にもない。
この河川を使い流された材木は、千本三条辺りに貯木場があり、近辺には材木問屋が立ち並んでいたと言う記録がある。
確かに今現在でも千本三条近辺には材木問屋が存在している。こういう理由があったとは知らなかった。

民家の裏側を流れており、何とか河川の体裁を為している西高瀬川に突如として現れる水門。
この門の向こう側からが、今回レポ−トする養老田川になる。
おそらく農業用水として使われていたときの名残では無かろうか、この水門は。
また、両岸を堤防で囲っているが、堤防がない状態がもとの川幅であろう。
残念なら横で、お婆ちゃん二人がしゃべりまくっているので川面に降りると言うことが出来なかった。
よって、望遠側にズ−ムして撮影する。

水門は開け放たれているが、それだけの水量がこの場所を流れていくと言うことは、先ずあり得ない。
これから先ならば、あり得るかも知れないが、現状では、無い。
どちらにしても、西高瀬川が水源を絶たれているから、水が流れてこないのだ。
左の写真をご覧になっていただければ分かるだろう。コンクリ−トで固められた河床。
一応、と言う程度に、底にU字溝をあてがってあり、それに向かい両岸から傾斜が付いているだけの水路、である。
多分、夏になれば、蚊の発生が凄い場所であろうと思う。

川面に降りて先に進むわけにも行かず、仕方なく三条通まで行って、そこから養老田川沿いに進むと・・・うっわ−−−、これ、民家の軒先に繋がっちゃってる よ・・・・。
これはいくら何でもまずいでしょ。写真に撮っちゃ・・・。
ぎりぎりまで近づけるものと思っていた養老田川は、民家の軒先の奥を流れこちら側に流れてきていた。
そこで、近づけるところまで近づいて、南側を撮し込んだのが左になる。
この辺りは掘り下げられているようで、道路から川面まで2m位あるのではないだろうか。
右はその川面の状態であるが・・・あんまり足を踏み入れたくないな・・・・。
この色・・・。
多分足を入れると、ずぶずぶずぶと・・・、堀川の最下流部よりましではあろうが・・・

先に見える通りが三条通になる。
たまたま嵐電が走ってきてくれたので、撮し込んでおいた。
ちなみに、この直ぐ東側には天神川の旧流路が流れていた。
距離にして150m程である。距離的には近いが両者は異なった河川である。
養老田川にしろ西高瀬川の分流はそこそこ水量もあり、灌漑用水に使われていたようであるが、天神川はこの辺りでは民家の屋根辺りが川底になると言うぐらい の天井川で、普段は水がほとんど無いものの、大雨の後に暴瀑し堤防を決壊するなど、暴れ川であったようだ。
水がないので灌漑用水にも使えない。もっと南部に行けば一部で灌漑用水に使用していたとの記録があるようだが、この辺りでは、全くそんな事はあり得ないよ うな河川であった。
二つの性格の異なる河川が並んでいるもあんまり見られるモンじゃあない。
但し、片方は完全消滅しているが・・・

三条通を渡って養老田川をのぞむ。
うん・・・・完全に入り込めないね。
びっちりと家屋が建ち並んでるし・・・。
手元の地図、大正7年の地図では辺り一面田圃である。
するとそんなに川底が深くては用水に使えないので、掘り下げられたのはそんなに古くない時期であろう。
掘り下げられたのは、おそらく宅地化が進行し始め、田の面積が僅少となったとき、それは昭和の初期から中期頃ではないか?。
使われなくなった河川が大雨の後などに増水し対策のために底を掘り下げた。
この辺りの河川の変遷はそのように想像できるのだが、下流は全く不明だ。
緩い屈曲の先まではどうあがいても見通せない。
仕方がないので今度は四条側から遡れる場所まで遡る。

ここが遡れる場所の限界点。
これ以上先に進もうとすると、明らかに私有地内に入ってしまう為、諦めた。
四条通まで300m程である。
これから先、養老田川はほぼまっすぐに四条通まで流れる。
親水性はほとんどない。
但し、救いなのは三面コンクリ−ト張りのへったくれも何もない河川なのではなく、両岸はコンクリ−トが打ち込まれているにせよ、石垣であることぐらいだ。
高瀬川の旧流路、堀川の最下流部、堀子川や西高瀬川などの河川は三面コンクリ−トべた打ちの情緒も何もない河川だった。
見ていても、悲しい思いになってくる河川。
人が川とふれあえる機会も場所さえもなく、ただ、川は水を流すのみ。これではいけない。
で、直ぐ南に見える水量調整用の門だろうか?。
一体何時からここにいるのか?、そして、何時からその身は動かされることなく、止まっているのか?。
このような水門があると言うことはそこそこの需要があったのではないか?。
水の。無ければ、このような水門を作らないであろう。
水害対策にかもしれないが、ここで水をせき止めても、他に排出する水路もなく、設備もない様だ。見方が悪いのか、銘板の類が見えなかった。
その上、ここは住宅地のど真ん中。
これに登って住民の方に不審がられてもいやなので、余り深くは見るものの、実行には移さなかった。

少し南側に行くといきなり道が狭くなる。
車一台でもきついんじゃないのか、これ。
自転車でもすれ違いたくないぞ、この狭さは。
また、水門辺りからしばらくは、両岸も石垣ではなくコンクリ−トブロックになる。
それでもあんまり違和感を感じないのはこの河川の規模の小ささからなのか?。

左側は住宅地の中に入っていく寸前の養老田川。
ちなみに、この養老田川の四条以北に架かる橋は銘板が一切存在していない。
この養老田川という名前を知れたのは四条通に架かる橋から分かった。
右は住宅地を抜けて、再び接近できるポイントである。
その目前に四条通がある。
古地図では西流してきた四条川と橋辺りで合流してそのまま西に流れているが現状は全く異なる。

四条通に架かる橋。
初めてみる銘板を持った橋である。
この橋から南はおそらく養老田川としての新しい流路なのだろう。
川の幅も明らかに異なるし、その直線的な流路は人工的に開削しましたと言わんばかりの直線ぶり。
そう思ってると、この直ぐ近くにある四条中学校の沿革を発見し た。
 抜粋すると、養老田川は本校の西を流れ、野々宮神社の北側で西に屈曲し、天神川に注いでいた。
かつては一面の農地で縦横に水路が張り巡らされており、自然が豊富に残っていたが、昭和32年の四条地区、五条地区区画整備事業によって、工場や宅地が次 々に進出し、そのような風景も次第に失われていった。
四条通が拡張されたのは大正15年頃だったが、この辺りはそれより遅れていたのだろうか?。捜査中である。

左に見えるのが四条中学校、創立は明治41年、現在の場所に移転してきたのが昭和11年であるようだ。
まあ・・・何と言うべきか・・・あからさまに取って付けたような河川になっている。
この河川の形は堀川最下流部と同等のものだと思う。
途中に段を設けてその下に両岸へと鉄板を打ち込み、最低部を水が流れると言う形は。
けど・・・悲しいほど、水流れていない。

そして、異様に目を引く屈曲部である。
この直ぐ南側は野々宮神社となっている。この神社は”第11代垂仁天皇の第2皇女、倭姫(やまとひめ)が御祭神となっている。”とあった。
第11代天皇・・ってはっきり言って神話の世界まで遡れるような昔じゃないか。
もし、その皇女を祀ってこの地にその時代からあったとしたら、東寺や六孫王神社をも越える、ぶっちぎりの最古級物件である。
時間的に言えば、約2000年と言う月日を経ていることに・・・、まあ、場所がそうであっても、当時から残っているものはおそらく無いと思う。
そして右の屈曲部より西、も−凄い直線。
川の流れとしてはあり得ないほどの直線。
このまんま養老田川は天神川現流路へと流れていく。

河川の規模としては大きくなったものの、流れている水の量は極少。
だって、河床に草が生えることが出来るほど、常時水がないのだ。
但し、これが大雨の後は形相が一変する。
9月頃だったか、大雨の後、養老田川に行ってみると、途中の段の辺りに大量のゴミが残っていた。
と言うことはこの河川もどこから下水が流れ込んでいるのだろう。
その場所は四条通を潜っていく橋の下。
かなり大きな放水口が口を開けているの見ることが出来る。
もしかしたら、この放水口、昔の四条川を暗渠化したときに造られたものか、四条川の流れに沿って造られたものなのかも知れない。
放水口の向きのみから判断するのは危険であるが、方角的には四条川の流れに沿っている。

葛野大路にさしかかる養老田川。
取り立てて何も書くべき事がない。
通りを挟んで向こう側の来来亭というラ−メン屋は結構美味しいらしい。

行政側もこの通り。
橋の名前も”第一橋”、”第二橋”、”第三橋”・・・これ、やる気無いでしょ。
まだ、旧天神川と異なり各橋に銘板と竣工年月日が記載された銘板が存在しているのもポイントが高い。
と言うか、それで普通でしょ。
どの橋もだいたい昭和30年代に造られている。

あっという間に天神川現流路との合流点にやってくる。
場所的に言えば天神川四条下る、だろうか。
ここから南は堤に植えられた桜が春になると大変きれいな花を咲かせ、人々の目を楽しませる。
この天神川現流路は昭和10年の京都大水害を契機とし、その対策として開削された河川である。
旧流路はもっと東を複雑怪奇な流路で流れていた。
それは

西大路太子道西で現流路と分岐。
南西に蛇行しつつ流れ三条まで流れるとここで西高瀬川と交差、そして何を思ったか西に向かい直角に屈曲。
更に西に流れ、現在の西小路手前で南に向かい直角に屈曲。
そのまま一路南に流れ、四条通で四条川と交差し、四条中学の東を流れ南流。
そのまま南に流れると思いきや、現在の阪急梅田線と西小路が交わる辺りで再び直角に西に向かい屈曲。
凄いのはこの後、逆”コ”の字型に屈曲し阪急線を潜り、そして今度は”コ”の字に屈曲し五条通を潜る。
そして漸く落ち着いた様に南に流れ七条通で東に向かって屈曲し、現在の西高瀬川の流路に沿いつつ蛇行して、東海道本線を越えたところで凄まじい蛇行をして 南へと流れる・・・と言ったかんじだ。

このように屈曲部も多く、水害の絶えなかった河川であったが、昭和20年までに天神川の現流路としての流れが完成し、桂川に注ぐように付け替えられ、水害 を起こす暴れ川としての天神川は廃川となった。
天神川は現在、紙屋川、御室川、西高瀬川が主な水源となり、水量もそこそこある。
このように魚が泳いでいるくらい。
だが、西高瀬川はこの天神川の現流路によって東西に分断されてしまい、天神川より東側は枯れ川となってしまった。(天神川をサイフォンで潜り、西大路三条 辺りに水を流すという計画もあるようだ。)
更に追い打ちをかけて、養老田川は暗渠化が始まっている。
2008年2月より暗渠化の工事が行われており、四条側から早くも1000mm径ぐらいのコンクリ−ト管が既に設置され始めていた。
この河川はどういう姿に変わってしまうのか?。
記録し続けようと思う。

順次追記
養老田川暗渠化工事の記録を公開します。
養老田川(暗渠加中1)2008/02/26
養老田川(暗渠加中2)2008/03/09
養老田川(暗渠加中3)2008/03/28
養老田川・四条川合流点2008/05/26
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