天神川旧流路 五条南の支川(?) 2008/07/29


*地名間違いなどの指摘をいただきました。もしかすると支川ではなく、用水路であり、御室川旧流路から流れてきていたものではない可能性があるため、今 後、このレポ−トは大幅に修正される可能性があります。*

何なんだろうか?。喉の奥にこう、何というか小骨が刺さったままのような妙な感覚。
上の地図を見ていただきたい。
黄色で示しているが、天神川の旧流路に西方向から一つの支川(?)が交わっている。
おそらく下水か何かの放水路ではあろう、しかし何でこんなへんてこりんな場所から唐突に出てきているのか?。
その源流付近も全くの謎。阪急京都線のガ−ド下を潜る辺りでぷっつりと姿を消し、一体どちらから流れてきているのか、我々に検索する手立てさえをも示さな い謎の支川。
 我々の主な検証手段はもちろん実地調査であることには間違いはない。
しかし、実地調査の前に事細かく事前調査を行ってから実地調査を行うのが私のやりかたである。
その手段は主に古地図や文献、そして航空写真による検証である。
大きな河川、名の通った河川の場合はそのような古地図や文献、または現地の人に直接聞けば分かる、と言うことなのだが、こういった超マイナ−な河川は地元 の人も知らないと言った場合が殆どであり、縮尺率の高い地図でも省略されがちだ。
そうなってくると、それこそ航空写真のみが頼りになってくるのだが、これも年代が新しくなるに従い、当然河川跡も消えていく。
今まで一般的に上記のように利用できる地図は昭和47年のものが(京都市 内では)一応、一番古い。
しかし、今回はそれ以前の航空写真、米軍撮影の航空写真を閲覧できる場所を知った。
しかもそれは我々の身近な所にあった。
国土地理院が閲覧のみの条件で(京都市内では)昭和21年からの航空写真を公開していたのだ。
これを見て目玉が飛び出る思いをした。

正にとんでもない情報の宝庫である。
今では道路下に、住宅地に、または道路敷きとして再利用されているかつての川の流れが、正にそのままの姿を保って写っている。
そして、私は天神川旧流路の流路解明のために、古地図を見漁った。そこで得た数々の驚愕の情報。
昭和47年当時、つまり冒頭の航空写真、合流している河川は昭和36年当時、まだその場を流れていない。だがその姿をこれから現していくであろう河川工事 をしているのは伺える。
つまり阪急ガ−ド下を潜ってすぐに北に向かい五条通と隣接しているのまでは確認できた。

そして、もう一つびっくりしたのは、意外な場所から交わってきた支川があったと言うことである。
上記の支川ではない。
それは辿っていくと意外な場所から流れて来ていた。
天神川旧流路のレポ−トでも述べたと思うが、天神川はかつて水害対策のために御室川と合流させ、現在の天神川現流路が作られたと言う過去がある。
そして所々に天神川旧流路は河川跡の地形を残した。
当時、この地区を流れていた天神川旧流路。その一方で御室川にも旧流路があったと言うことを知る人は少ない。
 航空写真を見て思わず、何でこんな所を流れているの?、と言うかあなた(河川)のお名前は?。
と地図に向かい呟いてしまったほどだ。
 御室川旧流路は今でも下流部は残っている河川だ。
どこに残っているのかというと、七条通のかつての名称、山陰街道は御所ノ内村、川勝寺村を経て、桂川を渡り樫原方面に向かっていた。
 その川勝寺村、現在で言うと西京極小学校の裏手で、御室川旧流路を橋で跨いでいた。
そこから南、現在の天神川現流路はほぼ、この御室川旧流路が利用されている。
多少手は加えられているであろうが・・。

今回はこの御室川旧流路より流れ出ていたであろう河川をレポ−トしてみた。


(ダイアモンドシティHANAは現在、イオンモ−ル京都ハナになりました。誤表記に対してお詫びいたします)
さて、先ず天神川旧流路の五条以南を知っていただきたい。
上記の図を見ていただければお分かり頂けるよう、西院のS字カ−ブを曲がってきた天神川旧流路は西小路を離れ、もう一筋西の通りに沿って南流する。
そしてこの通り(名称不明)を七条まで下り、七条と交差する付近で東に向かって屈曲し、そのまま西高瀬川へと合わさる。
その途中、中堂寺南通で冒頭の支川は旧天神川に交わっていた、と言うより、付け替えられたのだろうね、この様子では。
今回レポ−トする河川は、その南中堂寺通りより50mほど南、今現在の東大丸公園のど真ん中を通過していたようだ。
この公園の北側や西側にある緑地帯、私はこれを河川を埋め立てて造ったものだろうと読んでいたが違ったようだ。
確かに東側は天神川旧流路を埋め立てて造られたものであろうが、北側や西側は余り関係していないようだ。

花屋町通豆田町の交差点を北に向かうと右にはたけびし、左には京都工業会館がある。
今は普通の二車線の道路になっているが、かつて工業会館側を河川が流れていたとはにわかに信じがたい光景ではある。
しかし、ここまで河川跡が完全に消えている例は少ない。
何かしら昔、河川が流れていましたよ〜的な跡は残されているものであるが、この辺りに至っては、全くない。
完全消滅。その一言がふさわしい。
唯一残されているこの緑地帯。
う−ん・・・しかしこれ、どこだ−、支川の合流点は?。

結果的に言ってしまうとこの途中の道辺りではなかったのだろうか?。
直線上で西側にはKPC会館と言う建物があるのだが、この辺りを流れていた可能性が高い。

しかし無情にも公園敷き、それも球技場に被っているではないか。
こんな所に河川跡を求めようとしても、無い。

中堂寺南通と天神川旧流路の交差付近。冒頭の航空写真ではこの辺りに支川が流れていたはずである。
駐車場があって、その隣が工場で・・・などという光景は全く残っていない。
高級そうなマンションが二棟立ち並んでいる。
その歩道部分の辺りをかつて流れていたようだ。
ふう・・・それでも諦めずに探すが・・・。
無理、これは無い。完全消滅である。
明渠を暗渠にした際に出来る、表面のアスファルトが下の暗渠の形に起伏する現象も現れていない。
この辺り、夕方でも車通りが結構ある。
あんまり道路に出ておちおちしていられないと言うのが本音である。

位置的に見ると、この辺りで暗渠に切り替わったようなのだが・・・。現状では確認不能です。
しかし、この移り変わりの激しい地区に於いても唯一の不動物がある。
目前の阪急京都線の土手。
これだけは昭和初期からであっても動いていない。
そして支川の位置はこれより少し南側を指している、と言うことはこの土手に沿って南側を潜っていたと言うことであろう。
土手に沿って南に向かう。
夕方、昨日の雨でやや気温が下がってはいるがやはり蒸し暑く、じとじととした空気が衣服の間に入って絶え間なく発汗を促す。
正直、夏に長袖を着て検索することほどつらいことはない。
汗だくになってしまうから。
しかしその場はつらいが、後が非常に楽になる。
直射日光をほぼ防げるので、肌の火照りを回避でき、日が沈んだ後は楽になる。

そして阪急の土手が切れ、橋梁になって・・・
あったぎゃぁ−−−−−−−
・・・今回はさすがに叫ばなかったよ、私。
橋梁の南側に、穴ぽっこり・・・と言うかこの穴も、二度と水を通じさせることはないであろう。
あれだけ昨日は凄まじい豪雨であったにもかかわらずだ。
 コンクリ−トの擁壁まで用意されているところを見ると、これが子共専用の通路で はないことは確か。
確実に水を流すために作られた河川跡である。
この橋梁、道もないのに何で塞がれているのか?。
それに何故この位置に橋梁なのか?。
後で調べてみるとここ、土手が続いていたのだ。
その土手に沿って支川は流れていたのだが、古い地図で拾い出すと、どうも土手の北側を流れていたように見えてならない。
しかし、水路跡が残っているのは土手の南側である。
何でだろう?。しかしこの場所に土手があったことだけは確かなのだ。
阪急京都線以外の土手が。
その土手は昭和36年の航空写真までは確認できるが、冒頭の航空写真では、見事に消滅している。
このように、宅地化の中で消え去っていったものは、なにも河川だけではないよ うだ。

 ちなみにここから東側は民家の軒先に組み込まれていたり、マンションが建っていたりと全く残っていないと言うか、撮影不能である。
手前にある柵から続くスペ−スがかつての支川跡だろう。
位置的に言うと、後ろに見えるマンションの裏手に、KPC会館があるというとお分かり頂けるだろうか。

当然反対側にもここまで残っているのであれば・・・と言う淡い期待を抱きつつ、歩を進める。
先程の暗渠になった場所を西に進んで阪急線を潜る。
その潜った直後、この通りを暗渠化された支川は五条通方面から流れてきていたようだ。
それも今では跡形もなくなっている。
北に向かっていけば、やがて養老田川と交差する。

で、そこから土手に沿って南に向かうと・・・やはり残っていた。
この道路に残るコンクリ−ト。
そして、土手に残る水路跡。
素晴らしい。河川の規模としては小さかったようだが、よもやここまで跡が残っているとは思っても見なかった。
こういったマイナ−な河川は有無を言わさず埋め立てて完全消滅、と言うのがおきまりのパタ−ンなのだが、この河川はよくぞここまで残った。感動した!!。
 しかもきっちりと欄干の一部まで残っているではないか。
巾1m、深さ70cm程。排水溝のような感覚か?。現在で言うならば。
いつ頃まで流れていたのか?。
先ず昭和19年(1944)頃には御室川旧流路とは分離されていたものと思って良いだろう。
(これについては、違うとの指摘を受けましたので、現在、情報を洗い直しています。)
天神川旧流路によって寸断された西高瀬川と同様に、東西で全く流れが異なる河川になった。
その後の河川の足取りを調べると、昭和36年(1961)の航空写真ではまだ、その場に存在はしている、ただ、河川として水を通していたのかは不明。
まだこの時期に東大丸公園は造成されていない。
ちなみに、先の方で書く西大丸公園はこの年の9月に完成を見ている。
その後、冒頭の航空写真でも分かるように、昭和47年(1972)頃、葛野大路が造成されこの時に流れは更に寸断されたようだ。
 今現在の寸断箇所は古地図から読みとると・・・
天神川現流路による寸断
道路による寸断
葛野大路による寸断
住宅地、施設による寸断・・・
ふう・・・これだけ寸断されるとね・・・。

しかしこちら側の入り口・・・もうちょっと草を刈っていただかないと、見えずらい・・・と言うのか普通はこれで良いのか。
こういった金網で入れないようにしているんだから、人目には付かない方が・・。

で、ここから源流部に向くと・・・おそらくこのマンションと住宅の間にあるスペ−ス。
これが河川跡だと思う。
向きにしても源流部から辿った場合の位置からしても、ぴたりと符合する。
 この辺り、以前は本当に見渡す限りの農地だった。
その中にぽつんぽつんと家々が並ぶ、正に典型的な近郊農村のような風景が広がっていた様だ。
もっとも現在の阪急線に乗車したときの風景も全く異なるものであっただろう。
昭和36年(1961)の航空写真で見る限り、五条通のを渡る橋梁からは、おそらく敷島紡績の煙突(2007年解体)やダイニック京都工場(1978年移 転)が見えていたものと思われる。
今はどうかって?。そんなものは望むべくもないほど住宅地が立ち並んでいる。
もはやかつての風景など忘却の彼方、だろう。

葛野大路側から河川跡のスペ−スを見る。これも正に奇跡的に残っている。
と言うよりも、上手く住宅地に組み込まれたと言った方がいいのか。
どちらにせよ、残存遺構を発見することが出来た。
いつになく嬉しい限りだ。
最近調べている河川は地形跡のみの場合が多く、こういった物理的証拠に乏しい限りなのだが、この河川はここを確実に流れていた時期があったのだ。
で、この後、すぐ西側を走る葛御大路をかつて横切っていたようだ。

現状。
完全消滅・・・かな。
うん。
どう見たって無いもん。これ。
う−む・・・。
とりあえず渡ってみよう。

この道路の傍をかつては流れていたようだ。
しかし、残念ながらもはやその事を想像することさえ難しいと思う。
というか昭和13年の地図ではこの辺りで北からの流れを合わせていたようだが、そんなもの光華学園と葛野大路で完全消滅。
おそらくこの流れの位置からすると道の南側に流れていたようだが・・・。
なんにもありましぇ−−ん。
西京極駅の近くだが、この辺りは昭和40年頃から急速に宅地化されたようだ。
ちなみに西京極駅は昭和3年(1928)開業。この辺りはまだ何もなかった頃だろう。
その後色々と調べてみるとやはり40年以降から急速に宅地化されたようで、昭和39年のとある写真には、西京極駅の周りにはまだ何もないと言った風情が窺 うことが出来た。

ただ、ここから天神川現流路までもう200mを切っているのではないだろうか。
にもかかわらず、全くそのような風景はない。普通河川とかになると、堤防があって、その上に桜が植わっていて・・・などと言うことを想像されると思う。
そういう風景も存在するが、この天神川現流路の場合は本当に川と隣接した地区だけだ。
それまでは、正にこういった住宅地である。

南側に西大丸公園がある。
この公園は昭和36年(1961)9月に造成され、近年この地下に駐輪場が開設された。
一日150円である。
違法駐輪して撤去されたらたまらないので私は大阪に出る場合などはここを使わせて貰っている。
 この公園から北、光華女子学園までの間、この場所には古くから住宅があったようで、昭和21年(1946)でも住宅が建ち地並んでいる様子が確認でき た。
そして、御室川から分かれた支川はこの公園あたりから民家の南側に沿って流れていたようだ。

この曲がっていく道に沿って河川は流れていたようだが・・・。

・・・あった。
・・・君も、ホントによく残ってるね・・・。
何というか、この支川は器用に消滅するのを逃れていると思う。
先程の阪急の土手と言い、この道路脇と言い・・・。
これがかつての支川跡だろう。
但し航空写真で分からないこと、それは地形の高低は1/8000等の縮尺倍率で撮影され、更に、真上から撮影される航空写真では全く分からないと言うこ と。影の出来具合なども判別できる写真であればいいのだが昭和21年の航空写真はかなり分かりづらい。
 しかし昭和21年当時からこのような坂道があって、その脇に支川が存在したようだ。
下に書いた”懐か写”と言う記事の写真があるのだが、どうやら土手が造られ、その土手沿いに東へと流れていたようだ。
しかもその土手、阪急線を越えて、天神川旧流路方面まで続いている。
ど−ゆ−こっちゃ?!。こんな土手があるとは認識していなかったぞ。
更に言うとこの写真は、葛野大路が完成する以前様子を知りうる、貴重な写真である。

あんまり民家が写り込まないように撮影しているが、この橋梁は何回か付け替えられているのではないだろうか?。

で、この坂を登ると、もうそこは天神川現流路の堤防上になる。
天神川現流路、昭和20年までには旧流路からの付け替えが完了し、現在の流れとなった。
中流部は天神川旧流路から切り離されて、西大路太子道から西南西に一直線。現在の天神川御池の北50m辺りで御室川を会わせそこから御室川は旧流路を付け 替えられて、殆ど直線で南へ流れる。
そして、最下流部は御室川の旧流路がそのまま利用され、桂川に合わさる。
 かなり深く掘り下げられた河床は東西の水の流れを完全に分かつことになった。
何度も話すが西高瀬川はこの現流路によって完全に分断されている状態だ。
その昔は御室川と交差していたときに、どのような交差方法かは分からないが水はまだ流れていたようだし、西高瀬川の中流域では有栖川とサイフォンによって 立体交差している。
 だが、この天神川現流路は河床が低い、低すぎる。この少なくとも地上よりも5m近く河床は低いのではないか?。
う−む・・・。
で、この支川はどのように流れていたのかというと、この曲がっていく辺りで一旦北に流れを振り、想像ではあるが緩い「へ」の字形を描いて西京極区運動公園 側に流れていたようだ。
 
その天神川の堤防上にもこのようにコンクリ−トの種類が違う箇所がある。
想像ではあるがここを支川が流れていたのではないだろうか?。

そりゃ、その当時の施工のものではないだろうし、或いはこの堤防上の桜並木を造るときに造成されたものなのかも知れない。
しかし、この数メ−トル間のみコンクリ−トが古いのだ。あながち間違いではないと思う。
 そしてこれは私の想像にすぎないが、天神川現流路が完成したときには河床がもっと高かったのではあるまいか?。
つまり、護岸が低く、水量もゆったりしたのが出来たての天神川現流路の姿。
しかし、治水上の問題もあろう、ゆったりとした流れであるのは大いに結構だが、大雨の際などには水が上がると水が越提する可能性もある。
そして天神川の両岸に高い堤防を築いた。
特に左岸(東側)・四条以南など昭和21年(1946)には、堤防の姿が無い様に見える。
こんなふうに書いたのには理由がある。

天神川現流路を渡ると、こういった水量調整、おそらく排水用の水門であろうと思われるものが、かつての支川の流路上に存在している。
普通であればこういった水門は河川に直接接するような場所に配置されている。
なのにここでは堤防上の道を挟んで存在している。
おそらくこの高さが元々のこの辺りの高さで、堤防や道は後に造られたのではないか?。
 そう考えれば辻褄が合う。つまり天神川通等は後付けの盛土の上に造られていると言うことだ。
同じ事が堀川現流路、最下流部に当たる上鳥羽口より南にも言える。
この辺りがこの付近では一番低い場所だったのだろうし、御室川旧流路が廃川となった後も、こちら側の支川は排水溝として存続していたのかも知れない。
だが、何となく言えること、それはこの水門等が、何年も動いていない雰囲気であると言うこと。
支川と同じくとっくに役割を終えているのかも。

で、もう、西京極総合運動公園まで100mほどの位置にいるんだけど、ここから先はかつての流路は完全に消滅していると思っていただいて差し支えないと思 う。
この水門から伸びる排水溝を辿っていくと・・・

このように道路の下に潜り込んでいる様子を窺いつつその先には・・・・。

あ〜あ・・・・。
体育館が建ってるよ・・・。
この辺りから西向きに直線で流れていくのだが、無情にも完全消滅のようだ。
昭和21年(1946)当時はこの辿ってきた道がどうやら車ではメインル−トのようである。
ちなみに鉄道であればやはり西京極駅がメインであったと思われる。
今と殆ど同じ位置に橋が架かっているしね。
だけどやはり、この辺りは畑の真ん中に西京極球場などぽつんと建っていたのが当時の風景だと思う。
その当時の風景を語るものとして、とある新聞記事を挙げる事が出来る。

 京都新聞の懐か写(なつかしゃ)と言う記事がある。日付は2005年8月18日。
そこには昭和32年当時の西京極駅周辺写真と、それを撮った方の文が載っている。
その中の一文を拾い出してみると・・・。

”蛇や虫など何でもいた。その名の通り京の果ての田舎でした。”と感慨深げに話した・・・
”手前を流れるのが天神川。当時は腰まで水があり、子供達は橋から飛び込んだりして遊んだ・・・

写真は珍しく西京極駅が俯瞰で撮影されていた。
撮影者の方は西京極駅近くの鉄塔に登って撮影、とあった。現在では、こんな俯瞰は撮影できない。
鉄塔に登ろうにも先ず確実に通報されるであろう。
しかし出来るものなら撮影したい・・・その写真との比較写真を。50年の時を超えて撮影される、”劇的 Before After”だな、これは。

西京極総合運動公園の中に入ってみる。

 昭和天皇ご成婚時に造成され、以後様々な拡張が施された西京極総合運動公園。
ごく最近では阪急線を挟んで、南側に水泳施設である”アクアリ−ナ”が新設された。
球場にしても珍しくなった鉄塔式の照明設備である。
こんな場所を御室川旧流路が流れていた、と言っても信じられないだろう。
だが、この位置を確実に流れていた。この西北西から南南東に走るこの外周道路部分を。
ここが御室川旧流路。
ここから南へ流れた旧流路は天神川現流路を越え、西京極駅の西側を通り川勝寺の山陰街道と交差する辺りで現在の天神川現流路に合わせ、桂川へと注いでいっ た。
上流側は・・・もう、検索するもの難しい住宅地の中である、現在では。
御室川旧流路から天神川旧流路へと流れていた支川。
町の流れ、時の流れ、人の流れに翻弄され続けた支川ではあったであろうが、今は静かな眠りの中にある。
だが、それらの源流である河川、水を合わせていた河川ですら既にこの世にはない。
その中で、こういった形で残りえた河川は果たして・・・。
・・・幸せなのだろうか?。
・・・不幸なのだろうか?。
私には微かに川の寝息が聞こえた気がした。

天神川旧流路 五条南の支川(?)(完)

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