天神川旧流路・暫定公開版 2008/03〜07/28・12/15

国土地理院 航空写真 整理番号 CKK-87-1 地図番号NI53-14-6 撮影コ−スC6 写真番号12の一部を切り取り画像処理を施した。
原図はこ ちら

お詫び、諸処の事情により、掲載した写真の季節、時間がバラバラになってしまいました。ここにお詫び申し上げます。
日付が付いていない写真は基本的に12/15撮影、それ以外日付が付いているものはその日時に撮影したものです。


天神川西京極橋付近・2008/04/08撮影
天神川、春には桜が見事に開花し、川面は桜に花びらが敷き詰められたようになり、我々の目を楽しませてくれる。
その桜並木は北は四条通から南は五条下るの西京極橋あたりまで続く。ずっと昔からあったような綺麗な光景だが、ずっと昔は、ここには川は流れていなかっ た。
1944(昭和19年)、天神川と御室川を合流させる河川工事が行われて、この地を流れることになった天神川現流路。
昭和25年頃の地図では御室川(洛西運河)の名前を冠されているし、天神川の名はあまり使われていなかった。

今回スポットを当てるのは現在の流れではなくかつての流れ、天神川旧流路です。
古くはこの天神川は西堀川と呼ばれ、現在の堀川の対をなすものでしたが、平安後期になると右京の衰退と共に、管理をされずに放置されてきたという歴史があ ります。
その理由は有史以来、度々水害を起こしていると言うのが主なものであり、またこの河川の特徴でもあります。
 この旧流路の特徴として、平常時には水がきわめて乏しく、河床が見えたり干上がったりして水の流れが一見無いように見受けられるようになりますが、ひと たび大雨が降ると暴瀑し、堤防の決壊など数々の被害を出していたと言うことでもあります。
更に、この河川は中流域に於いて河床が民家の屋根よりも高いと言われる天井川であると言うことです。
何度も書くようですが、有史以来幾度となく、この河川の流域は洪水に見舞われています。
 あるときに、「西院や川勝寺の上流の村が下流の村々の反対を押し切って天神川旧流路の上流に堤を築いた」と言う記録がありました。
しかし、2年ほどした後に、大雨で決壊し下流の村々に大きな被害が出た、と言う記録もまた残っています。
「その後、下流の村と上流の村とが互いに気を付け合い、堆積物を取り除く、又、河床に石を敷いて流れをよくするなどの対策を行って漸く水害は減り始め た。」
最終的には一つの村で解決できる問題ではなく、流域の村々が協力し会って漸く水害を低減でき始めたのが江戸時代後期、現在風に言えば、総合的対策をとり始 めた、と言えばいいのでしょうか。

西院の地にはこの手の史料が大変多く存在しています。
それだけ水害に苦しめられてきた土地であるのでしょう。
 まず西院の地形を見てみると、今現在では西に天神川現流路が流れ、西大路や佐井、西小路、横の通りでは五条、四条、三条が走り、鉄道では阪急京都線の西 院、嵐電の西院(さい)があり、交通の便も至極便利になっています。
が、昭和の初期までは・・・
西から、御室川、羽根田川、養老田川、天神川旧流路、堀子川が流れ、横の流れとして、四条川、西高瀬川、これに大小さまざまな溝があり、道と呼べるのは、 横の通りでは三条、四条で現在よりも狭かったようです。
特に天神川旧流路、御室川旧流路、これら二河川は、平常時には水は乏しいが、大雨になると暴瀑し堤の決壊を見るなど、常に頭を悩ませてきました。
又、交通の面でも四条通を東から西へ、梅津へ抜けようとすると、天神川と御室川の堤がそれぞれ一の坂、二の坂と呼ばれる難所となります。
堤が築かれているが故に、その堤が坂となって交通を阻害するという悪循環。水が普段ほとんど無い為に、灌漑用水にも適さず、大雨になると暴瀑するという暴 れ川。
この二河川は不要であり、西院にとっては邪魔者でしかなかったよう。
 その上に都市河川としては異様な屈曲がありました。

流路を文章で書き出してみると・・・
先ず、西大路太子道から蛇行し、南流、徐々に屈曲して三条通まで流れ、三条通の北側で西に向かい90°屈曲し西高瀬川と立体交差。
その直後、現在の西小路通りで90°南に向かって屈曲。
この辺りは当時の地形がかなり残されており、確かにこれだけ高い場所を川が流れていると、恐ろしい感じもすると言うか、実際怖い。
だって、これで川の底がこの高さだとすると・・・とんでもね−としか言いようがない。
当時周辺は東側に西院の家屋と、河川を挟んで田畑ばかりであったといえどもね。
そのまま西小路の東側に沿って流れ、四条通で今度は四条川と 立体交差。
四条以南も西小路に沿って流れ今度は阪急京都線の直前で、90°西に向かい屈曲。そのまま100mほど流れ今度は南に向かって屈曲。
この辺りで、四条川養老田川を併せた河川と合流している。と言うか屈曲点での合流で すよ、これ。
そしてまた100m程南流して今度は東に向かって屈曲・・・と言うか、書くのもめんどくさい。
要は”S”字を描いていたものと思っていただければいいです。
そして東に屈曲した河川はおそらく最大の屈曲点を迎えます。
これ、直角を越えてるんですけど・・・。
恐ろしく無茶な造り・・・。現在のイオンモ−ルHANAの西側で120°近く南南西に向かい屈曲すします(他の古地図を見ると徐々に東南東に向きを変え、 直角に曲がっているようにも見受けられますが・・・。)
どちらにせよ明らかに無茶な造りですよ、これ。
漸く落ち着いたのか、西小路の一つ西の通の辺りを南流し、七条通りで東に90°屈曲して、そのまま西に流れ、西高瀬川に合わさっていた。
・・・ちなみに西高瀬川が現在のように整備される前は、堀子川の旧流路がもう少し東を流れ現在の西高瀬川の流れを天神川旧流路が蛇行しながら流れていた。

ちなみに昭和21年度の航空写真を見ると、天神川旧流路は七条通りを東流している姿を見ることが出来ます。
しかし、TOKIWA氏や私がレポ−トした旧天神川は存在していません。
旧天神川が確認できるのは昭和36年(1961)の航空写真から。
この間の空白は一体何なのでしょうか?。
思うにこの間で七条通りを流れていた天神川旧流路の廃川化と旧天神川の造成が行われたのではないかと見ています。

昭和10年(1935)6月28日、近畿地方を中心に正に記録的な大雨が降った。
1時間に60mm〜70mmというバケツをひっくり返した、と比喩されるような、とんでもない豪雨であったようです。
 ちなみに1時間に60mmと言うのは実際どんなもの?。
単純に深さ6cmの水たまりが出来るというものではなく、雨とそれに付随するであろう風による、とんでもない状態。と言うのが正しいようです。
 私が過去体験した中でもっとも激しかったのは20分で90mmというもはや激烈なものでした。
時間にすると単純に・・・270mm。
昔の職場でその豪雨に遭遇しましたが、建物の中にいてもあんまり生きた心地はしなかったですね。
とにかく雨音と、周りが見えなくなる程の水煙、そして、足元の水たまりがどんどん大きくなっていく様は、背筋が寒くなる思いでした。
その中を合羽を着て出てみたが、もうそれはかろうじて動ける、と言うレベルのものでしかなかったです。
雨の粒が1cm前後もあって、当たると痛みを感じる、そして呼吸が苦しく感じる。それが20分で90mmと言う豪雨の状況。
それから私は、1時間に90mmを越える雨を”爆弾雨”と呼ぶようにしています。

今現在の治水でさえ100年に一度というような爆弾雨には対処できない・・・それが現実。
それが今から約70年前に起こった・・・たまったものではなかったでしょう。
無論、京都市内の殆どの河川で洪水となり、この天神川旧流路も例外ではなかったようです。
特に土地が低くなる円町辺りでは濁流が民家の屋根を突き抜け、深さ6尺(180cm)にも及んだという記録が残っています。
京都大水害、です。
この天神川旧流路は被害も大きかったですが、その被害を大きくした要因は、この複雑な川の流れにあったのは否めないでしょう。
事実、市議会ではこの複雑な河川の流れを改修しようと西部排水路計画として昭和4年2月に立案された。
総工費は最終的に400万円(現在の紙幣価値では200億円)。
内3/4(75%)は受益者負担、40万円は廃川敷きの売却、60万円は府費でまかなうことになっていました。
が、それにもかかわらず、災害の方が先にやってきてしまったというような格好になってしまいました。
翌、7月6日に緊急市会で水害応急工事費の支出を可決し、同時に災害土木工事に関する補助を京都府に申請する議決なども行い素早い対処がとられた。(西院 昭和風土記より)
 その後、第二次世界大戦に起因する物資の窮乏を乗り越え、昭和19年(1944)に新(現)流路が完成。
西院地域は洪水の心配から開放された。
それまでの旧流路は廃川となり順次払い下げられ、宅地や商業地として利用されていき、その場所を川が流れていたという記憶は徐々に消えつつあります。

次に挙げられるのが他の河川との関わりです。
河床が高く農業用水に使うことの出来なかった河川。いわば厄介者であったわけです。
そんなわけで、まともに合流していた河川は少なく、天井川ではなくなる下流域で漸く他の河川との合流を果たしていたようです。
羅列すると
三条通で西高瀬川と立体交差。西高瀬川が天神川旧流路の下を抜けていた。
四条通で四条川と立体交差。四条川が天神川旧流路の下を 抜けていた。
五条通北で羽根田川(仮称)と合流。無茶な屈曲点付近での合流であった。
七条通りで西高瀬川と合流。
これが近世の流路。

 これ以前は西高瀬川に沿って蛇行をして東海道本線を越えるまでに、幾筋かの小河川を合わせ九条通北で堀子川旧流路を合流。
そのまま蛇行して流れ、現在の吉祥院浄水場の北側から堀川旧流路(現、鍋取川下流部)の途中に合流。
そして、久世橋通りのあたりから蛇行して流れ、島田川を 合流。この洛南地域では、農業用水を合わせ、おそらく無数の小河川があったものと思われる。
それらを寄せ合わせた流れが天神川最下流部であった。
”史料 京都の歴史 13 南区”から
上鳥羽村
塔森村
吉祥院村
の三村の主な用水路を挙げると・・・。

上鳥羽村
町川溝
南田溝
卯の花溝
岩ノ本溝
神馬場溝
天神川溝
大井手溝
実相寺裏溝

塔森村
所川溝
江川溝
逆川溝
鯉取川溝
大抜キ川溝

吉祥院村
前川溝
西条川溝
長池溝
春日川溝
間川溝
中川溝

 これは島田川の項目でも書きましたが、かなりの数ですよ、これ。
他村の内容を見ると河川や溝は多くて2〜3,橋梁も特別多くない限り10を越えることは先ず無いです。
しかし、これら三村は溝だけでもこれだけの数がありましたし、溝としてカウントしていない水路を合わせると、やはりかなりの数であったと言うことです。
 これは、この三村が桂川と鳥羽川(現・鴨川)の合流地点に近く、地形的には、京都盆地の最南端にあったため水が必然的に集まると言う地形に起因します。
そんな中を天神川旧流路は流れていました。
これを見るとお分かり頂けると思いますが、上流部は河床が高く天井川であり河川と合流と言うことが不可能です。
しかし下流域に行くほど河川を合わせ水を増やしていった河川でもあります。
現在、蛇行していた天神川旧流路下流域は改修されて西高瀬川の流れが引き継いでいますが、河川を廃止してもその周りの地形だけはどうすることも出来なかっ たようです。
西大路通より三条を西に行くと、西小路通りの交差点付近で、少し坂になっている場所があります。それが天神川旧流路の跡地にあたります。その三条と西小路 の交差点付近は天神川旧流路の屈曲点にあたり、都市の中にしては異様な高低差がある場所です。

また生活道路として利用されている場所もあります。書き出してみると・・・
中京区西中合町の御池通側少し湾曲している道路
右京区西院金槌町の東側角の少し南に行った生活道(ここは天神川旧流路の堤防がそのまま残っており、おそらくそれをそのまま使っている)
右京区西院乾町の西小路四条の交差点脇にある道路(かつての河床部がそのまま道路に転用されている)
西院清水町と西院久保田町間の阪急京都線を潜る道路
五条以南の西小路より一つ西の筋の道路(ほぼ天神川旧流路を踏襲している)
西流していく天神川旧流路にある七条通
南区東浦町の吉祥院浄水場北側と敷地内道路
南区上鳥羽南村山町の蛇行している道路
これらは全て天神川旧流路の跡地利用です。
ちなみに判明しているだけでこれだけの数であり、判明していない場所を合わせるともっとあると思われます。

しかしこれだけ屈曲が多く、更に都市の中央部に近い場所が天井川というのは都市管理、計画上まずかったでしょうね。確かに改修したくなる気持ちも分かる。
その思いが現実となったのが天神川現流路になります。
この天神川現流路は昭和19年(1944)に完成し、延長13km。源流は鷹峯の山麓の中の小河川が集まり流れ出し、谷間を流れ北野天満宮の西側を通過し て流れる。
円町の辺りから西に向かって屈曲し、旧流路に別れを告げて西南西へと一直線。
更に御室川を天神川御池で合わせ、今度はほぼ南に向かって一直線。
この事は”西院の歴史”p288に詳しく出ていたので詳しく見てみましょう。


かくして天神川改修工事が昭和11年4月9日起工実施、同年11月には御室川流域の52世帯の立ち退き問題。(御室川改修工事実施を前に同川の流域に住む 朝鮮人52戸の立ち退き問題が紛糾、住民側は元来賃金借りの住居であり不法占拠ではないが適当な移住地への斡旋を要求。)
又翌年には、両川に河川法が適用された。
13年9月には上流の沿岸13ヶ町が施設紙屋川改修事務所を設置して独自にて改修工事に着手するほど、住民の神経も高ぶった。
抜本的に昭和14年3月、天神川運河計画が京都府で立案され、当初180万円の経費で両川を合流させ、御室川沿いに南流、桂川に落ち合わせる計画であった が、より大規模に400万円をもって洛西工業地帯の設定と洛西運河(天神川運河)の工事が施工され昭和19年には上流からの改修も全て完工した。

だがこの流れをとったために、西高瀬川はこの天神川現流路を境に東西で全く姿の異なる河川となってしまった。
治水の為、河床を深く掘り下げたので、西高瀬川の水は現状で全てこの天神川に合わさってしまい、これより東は殆ど水が流れていないと言う状況になっていま す。
ちなみに言っておくと天神川現流路に架かる橋は上記の説明にもあったように、全て昭和19年(1944)以降に造られたものです。(最下流部除く、かな)
これ以前は現流路自体が存在していません。確かにある地点から下流域は御室川の流路をそのまま使ってはいますが・・・。
また、幾つかの河川は西高瀬川と同じように天神川現流路によって、東西に寸断されたようです(調査中)。
 最終的に天神川現流路は南区吉祥院下向町で桂川に合流し、天神川という名称は消えます。
しかし、面白いことに昭和26(1951)年に発行された京都市の地図では天神川現流路の名が”御室川”となっています。
余程この天神川の名前は嫌われていたのでしょうか?。また、西院昭和風土記内では洛西運河の名前でも呼ばれていますが、いずれもその名前は定着していませ ん。
今では御室川は合流付近までの御室川上流部でしか使われていないうえ、洛西運河に至っては船運自体が存在せず、その名前自体が忘れ去られた状態です。

この河川、昔の人々はどう捉えていたのだろでしょうか?。
京都府地誌から、明治初年度あたりの天神川旧流路(紙屋川)の記述を拾ってみました。

右京区 川勝寺村
紙屋川
東境を流れ二等側に属す。北西院村より入り南西中村を流れる。
本村の長さ四町、巾三間、深さ三尺五寸、平時水至って乏しい。

南区 西中村
紙屋川
二等川に属す。御所ノ内村より村の東を南流し吉祥院村に入る。
本村の長さ十町、巾四間

南区 唐橋村
紙屋川
二等川に属す。西北方、紀伊郡西中村より南流し本村を経て吉祥院村の用水となる。
長さ一町四十間、巾四間、平水量三尺

南区 吉祥院村
上流を紙屋川と称し、下流を鳥羽川と称す。
西高瀬川の旧漕路なり。
北方西中村より上鳥羽村境まで長さ十九町二十間、巾平均六間、深処六尺
数村の養悪水路となす。

南区 鳥羽村
鳥羽川
二等川に属す。上流に於いては紙屋川と言い、中流に於いては天神川と言い、総称を西高瀬川という。
北吉祥院村より来り、南塔森村に通ず。
長さ十五町三十間、幅七間より十間。深さ、平均二尺。
数条の川に会い、濁流水緩流、数派に分かれて田の用水となり。
船行直に大阪に通ず。

西院昭和風土記内で河川改修に関する記述を見つけました。繰り返しになりますが・・・

天神川(紙屋川)は御室川と合流させる(合流点は御池通り、北50m、現、大日本印刷東側)
ここから御室川の吐口点(久世橋通りの北側、桂川合流点)を結ぶ線上に新河道を造る。(二条以南の紙屋川は廃川)
昭和11年4月、紙屋川改修工事が起工され護岸には堅固なコンクリ−ト石張り工法が用いられ、昭和12年3月河川法が適用される。
御室川と紙屋川の合流と、新河道(天神川)掘削工事が始められ、昭和19年に完成した。

とにかく厄介者であったという印象を文面からも感じることが出来ます(御室川旧流路ほどではないですが・・・)。


ではまずは旧流路と新流路の分岐点に当たる西大路太子道から見て行きましょう。
ここは京都市内環状線に当たる場所であり、終日車の流れが途絶えることはないです。
その北西側に天神川が流れている。
ちなみに西大路通りから、その上流側は見ることは出来ないです。
何故なら建物で覆い隠されているから。
ちなみに京都に住んで、西大路通りを通った方ならお分かり頂けるだでしょうか、円町の下り坂の前にある登り坂、おそらくではあるがこれ、天神川の堆積物が 作った地形だと、素人ながら思っています。
 これから先、旧河川の河川跡や橋梁跡などは一切登場しません。
そもそもそれらは廃川となって五条以北のものは殆ど撤去か廃棄されてしまったのでしょう。
残っているのは”河川が流れていたであろう地形、それを流用した道路”これだけです。



先ず、西大路を南向きに見てみると、このように坂が続いて、三条、四条、五条と言うふうに南へと下っていきます。
 ここは西大路太子道。
その西側から天神川現流路が姿を現します。
この現流路、隧道で西大路を潜って流れてきている、なんともハイカラ(!?)な河川です。
近年、親水性を高める工事が行われ、このように隧道を間近に見ることも可能になりました。
分からないがとにかく都市河川としては、まだまだ親水性のある方だと思いますが・・・
で、我らが天神川旧流路は、と言うと・・・こちら。
太子道の一つ上通り、旧二条通の際を通って徐々に湾曲していきます。
そして、現春日通と天神川現流路の交差する辺りを南南西に流れていました。

現在地
現在その場所。あなたには想像できます?。
ここに川が流れていたと言うことを。
そういわれたって殆どの人が想像など出来ないでしょう。
現在、河川跡は地形のみを残して消滅しています。
跡地には、住宅、商店、民間施設、工場などが立ち並んでおり、どう見たって河川跡は、ありません(涙)。
けど、それで当たり前、これが廃川後約60年の姿。
しかし、当時の流路を流用したであろうものが残されています。



ここから先が天神川現流路。
しかしあからさまにこう、”開削しましたよ〜”と視覚に訴えてくる河川ですね、これ。
かなり深く掘り下げたのは、下流との高低を合わせるため?、それとも、水の勢いを殺すため?。
いずれレポ−トしようと思うけど、この現流路にも色々と面白いところがありますが、今は先ず旧流路を見て行きたいと思います。
ここからは旧流路と現流路の分岐点を覗いてみたいと思います。



*注意 危険ですので、隧道内に安易に立ち入るのは絶対にやめてくださ い*
*また、このレポ−トを見て真似をされて重大な損失や損害が発生しても、当方は一切責任を負いません*
*検索を行いたい、と言われる方は、全て自己責任で行ってください*
*そしてこのレポ−トはそのような行為を推奨するものではありません*


佐井通りより西に行くと、河床に降りられるよう階段がついています。
近年天神川の水辺環境も整備されてきており、親水設備的な意志が河床部に並べてあったり、木材を沈めてあったりと、かなりの変容を遂げています。
さらにこの天神川現流路はご丁寧にも、源流方向に向かって両岸に人一人が歩けるだけのスペ−スが存在しています。
そこを辿って行きます。

結構この河川、地上から掘り下がっていますね・・・、多分深いところでは多分5m近く掘り下がってるような気がします。
このような無粋とも言えるコンクリ−ト擁壁ですが、起工時にコンクリ−ト石張りの護岸という記載があるので、・・・まさか当時のまんま!?。
いやいやいやいや、いくら何でもあり得ないでしょう。
だって、時間が経ちすぎてますもの。
廃川後60年以上経過しているんですよ。
いくら質のいいコンクリ−トでも、これだけの時間強度が保てるのでしょうか?。
この辺りを何かご存じの方、一報お願いします。



このような護岸の先にポッカリ口を開けている天神川隧道(仮称)(以下、隧道と記す)。
竣工年 おそらく昭和11年以降 延長50m前後 巾4m前後 高さ4m前後。
この隧道のもっともな特徴として、車を通すための隧道ではなく、河川を流すための隧道、というところです。
扁額も竣工日時や諸源表を示すものも全くない、極めて無機質なコンクリ−ト製の隧道です・・・いえ、逆に煉瓦積みで内部が崩落してたりしたら、それはそれ で嫌なんですけどね、というか問題あるでしょ、そんな強度の隧道だったら。
だって、この隧道の上には日夜、下手をすれば万を下らない台数の自動車が通行しているわけでして・・・。この隧道が崩落したりしたらもう、西大路通りが寸 断。付近は大渋滞!!!。
さらに紙屋川の水が滞留し始めて、ダム湖が造られて(!!)付近は水浸し・・・。
だって、近くに水を逃す場所がないんですもの、ここ。
・・・これ、嫌すぎるシナリオです。



そんな事は知ってか知らずか、あちこち継ぎ目からは石灰成分が結出しては来ているものの、何を隠そう、ここは河川が流れる隧道、河川自体が大雨の後などに 河川自体が綺麗に掃除しているのでしょうか・・・まさに自浄作用!?。
そして、隧道自体が綺麗なこと、おそらくこの隧道、造られた当時からメンテナンスらしいメンテナンスはなされてないのかな?・・・その割には綺麗。
継ぎ目からの石灰成分が垂れてきていたりすることを除けば、全然現役ばりばりの隧道です。



けど、そう言うわりにクラック(亀裂)が河床部から側壁まであったり・・・・。
 これ、大丈夫っすよね?。
いきなり亀裂が広がって土砂が出てきたり・・・なんて事はやめて〜!!(涙)
それに気が付いたことは、どんな隧道にもいえることですが、出入り口付近は傷みが目立つものの、中央部分はそんなに傷みはないこと。
この隧道もそれに当てはまってました。
そして・・・遂に行けなかった場所まで・・・場所まで・・・


現在地
元のファイルはこちら。*注意、600KBぐらいありま す。
石積みきた−−−−−−−っ!!
・・・っとよく見れば、何気なくご丁寧にも隙間にコンクリ−トが塗り込めてあるし。
しかしこれ、他の場所とは明らかに違う石組み。
煉瓦の積み方ににているっぽいです。これ。
けど、下の方は水がかかるのか・・・・かなりやせ細ってます。大丈夫だよね、こ れ、いきなり崩れたりしたら、私、行方不明になるんですけど・・・・(汗)。
おそらく、この場所が天神川旧流路と天神川現流路との分岐点。
ここから旧流路は旧二条通方面へと流れて、現流路はここから西南西へと一直線に近い流路を流れることになりました。


その証拠に対岸の護岸を見ると、若干ですが西に向かって屈曲がついていました。
ということは、対岸の護岸は、天神川旧流路改修時からの姿に近いと考えても言い訳です。
しかも、上流部の紙屋川や天神川でもごく一部にしか見られないこの護岸からすると、補修されているとはいえかなり旧い物だと思われます。


ここから先が紙屋川になります。
今回は普通のズックを履いてきているので、この「ちみたい」水は勘弁してください(涙)。
 えっ、行くんじゃないのか・・・って?!。・・・無理無理無理無理!!、長靴でもこれ、相当に冷たいですよ。
だってここ風が吹き抜けていく場所、更に日陰だから、体感温度はかなり寒い、というか、さっきからもう一枚着てきたらよかった、ってぐらいに寒いんです よ。
そのうえこの上流は住宅地のただ中っすよ、さすがに白昼堂々と河川を歩くのは気が引けますし、この状態で、川を清水音羽川のように逆行しろと?!、それに 帰り、私自転車ですよ、足を冷却しながら帰宅しろと!?
無理っす、これは勘弁してくださいませ・・・春の終わり頃であれば・・・また・・・。


天井部分はおそらく鉄板を宛われているのか、鋼材を組み上げた梁が造られてました。
けど、どれぐらいの時間、ここは人が来ていないんでしょうね・・・。側壁の日の当たる場所には細々とですが雑草達が生えていました。
再びここには来たいな・・・再訪を誓って隧道を戻ります。



するとね・・・何でこう、私が検索すると・・・
こういう下水を探し当てちゃうのかな?〜。というか、これは明らかに見た目もげ・す・い!!、誰でも気が付く!!!
なんでだろ〜ぉ なんでだろ〜ぉ なんでだなんでだろ〜〜。
なんかそんなコトバが突然脳裏に響いた。
 どう見ても・・・下水!!、GE・SU・I!!
このゴムのびらびら。
そしてほのかにかほる、このニホヒ(涙)。


下水!
2008/07/25撮影分使用
しかしこの下水口、親水性ありすぎ。
だってここだよ。
出口のすぐ脇まで行けちゃうじゃないか!!。
これ、中入れるよ〜。更に言うとその上の橋は佐井橋、佐井通りだよ〜(汗)
・・・いや、さすがに中は入りたくないけどさ・・・。
っていうか、その入り口に立つと一種異様な空気が流れて来てるんだって。
ついでにいつものように”ごぉぉぉぉぉ・・・・”っていう水音も。
こう、ぞくぞくっと来るような、生暖か〜い空気がさぁ〜〜・・・。
分かるかなぁ〜・・・表現しにくいけど、背筋が凍るような生暖か〜い空気なの。
こういう入り口に漂っている空気って。
いきなり夜道で首の後ろにこんなん吹きかけられたら、女性だったらまず悲鳴あげちゃいそうな空気。




天神川現流路を上がって、目の前にとっている通りは佐井通。
この通りを横切って旧流路は流れていっていたことが、航空写真より割り出せています。
 現流路を越えた辺りでぷっつりと旧流路の地形も消滅します。
たぶん私有地内に入ることが出来たら何かしらの跡を見つけることも出来ると思うのだけど、当然ながら進入不可。
しかし以外にも佐井通にも、河川跡の地形が残されています。
お分かり頂けます?。
道路が少し盛り上がっているのを。
これですよ、これ、奥さん。
これがかつての流路跡。
この盛り上がり、何とこの先の住宅地の中にまで存在している。
廃川されてなおも、その跡形は残り続けています。
この付近、南壺井町、西中合町に流れていた天神川。
これからその住宅地の中に入っていきますが、起伏は見事に残っています。
 町内を東西に横切っている幾筋かの道路、その途中が見事に盛り上がっている箇所もある。
先ず佐井通から南に一筋目、西入るの道路。


現在地
これでしょ〜、これ、奥さん^^。
この住宅地の中に現れる盛り上がり。
こんな住宅地の真ん中に突然この”もっこり”はなかなかやろうと思ってやれるものではないです(シティ−ハンタ−じゃないよ)。
しかもこれ、この南側にある二筋目、三筋目の道路にも現れているんです〜。
手元にある米軍撮影、昭和21年(1946)の航空写真を見てみると、やはりこの辺り。
著作権はないであろうが、史料を得てきた場所に許可を得ていないので、残念ながらこの航空写真は公開することが出来ません。
よって、もし現物を見たいと言われる方は、京都総合資料 館の3Fにて申請書を提出の上、閲覧して欲しいです。昭和21年前後にタイムスリップすることが出来るでしょう。



いつもの如くコメントは非常に少ない(涙)。
だって、河川の遺構も何も完全に喪われている状態なのです。
だが、この河川跡、天神川旧流路は豊富な史料もありながら、全く歴史の表舞台には出てこなかった河川でもあります。
しかし、その資料を基に現地を幾度となく訪れることで、薄紙を一枚一枚剥がしていくように、徐々にその姿を探し当てていく地道な作業。
この辺りは、最後まで残った場所であり苦労した、と言うか、なかなか分からなかった場所でもありますが、しっかり探し当てられました。



そして、河川跡はこの道路へと変わります。
この曲がり具合・・・まだまだましな方だ。これから下流域と比べると・・・。
住宅地の中を抜けていくこの道も、すぐに終わります。
御池通が目の前に現れて・・・旧流路は・・・お”っ・・・、目の前の工場敷地・・・というか天下の島津制作所三条工場・・・


島津製作所
これは無理。
さすがに取材もくそもないです。
ですが河川が流れていた跡はそのまま道路敷きで再利用されているようです。この道路の右側あたりをかつては流れていたと、航空写真からは推測でききます、 と言うより、そのまま道路に、工場内でも利用されているような・・・



敷地内に入れない以上、次の河川が現れる場所へと移動しましょうか。
それは西大路からやや西に行った場所。
中京税務署の北側あたりである。この三条通の北側に、天神川現流路によって水源を絶たれた西高瀬川が存在しています。
よくもまあ残っているな、と言うレベルであり、水は全く流れていない。完全に干上がったコンクリ−トの河床は何を思っているのだろうか?。
そしてこの先で、天神川旧流路の下を西高瀬川がトンネルで通過していた。
更に言っておくと、この辺りからが旧流路の本番、西院の天神川(紙屋川)、少し西の、現在西小路が通っている通りを南に流れこの堤防が延々とほぼ1km続 いていたような場所になります。
現在の天神川旧流路跡、道路に転用されていますが、その昔を知る人が見れば、驚くでしょうね。
川が消えてるんだもん、これ。
ここに流れているのは西高瀬川だけだよ、とコンクリ−トに固められた河床が澄ました顔をして話しかけてくるようです。


ここが西小路三条。
ここで、天神川旧流路は90°南に向かって屈曲していました。
東西に堤防がありましたが、特に東側に面する堤防は強固に造られていたと記録にはあります。これは、東側の堤防が決壊すると西院の市街地を濁流が直撃する 恐れがあるので特に強固に造られていたようです。
 事実、昭和10年の京都大水害の際、決壊したのは西側の堤防で、ごうごうと濁流が渦を巻いて流れていったそうです(西院昭和風土記より)
先ず、この屈曲の度合いもすごければ、この高低差もすごい。
消える魔球もびっくり、(ほぼ)90°直角タ−ンですよ、奥さん。


築堤
2008/07/25撮影分使用
つまり、東側が堤防の名残で高くなっており西側は切り崩されて西小路通りが造られたというわけですね。
当時の様子を無理矢理現すと・・・こんな感じ・・・?!(画像の上にマウスを持っていくと・・・)。
少なくとも高低差で3m以上!!。
しかもこれでも、もしかしたら低いのかも知れない。
あくまでこっちが勝手に想像している河川イメ−ジ図なので、正確な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご一報下さいませ。
 しっかし、これが天井川で決壊したと言われると、背筋が寒くなるのも当然です。あまりにも河床が高いのでは?。
 東側を見てみると少し中へと入っていく道がある。少し辿ってみるとこれは当時の堤の上の部分?。それを証拠に・・・



2008/07/25撮影分使用
西小路通を見下ろすとこのように見えます。
こういった堤の一部であろうものが今現在でも残されています。
もしかしたらこれ、本当にその一部かも知れないです。
だってこの位置と言い、この高低差と言い、古地図の位置と合致するものです。
まさか堤が土剥き出しと言うことではないでしょうし、何らかの護岸は施工されていたと思います。
その護岸を取り去った状態。それがこの場所に残されているものの正体かな。
 また、大正14年(1924)の地図を見ると、ここには・・・牧場ですか?!。
牧場、と記されているのでこの場に牧場があったのは間違いない。
そういえば、西院昭和風土記の中で牧場と言う記述もありました。



2008/07/25撮影分使用
ここまではそこそこ河川跡の地形を残していた天神川旧流路、だが、ここからは、一気に消滅の道を辿ります。
 いきなりの娯楽店舗の出現により、一気に何もない状態になってしまった・・・
文句も何もありません。
完全消滅です、本当にありがとうございました orz。
あの堤も、ここにはないですね・・・。
しかし、ここから先に住宅地の中の道路として、当時の河床が再利用されている様ですので行ってみましょう。


2008/07/25撮影分使用
場所は西院春栄町から、西院乾町にかけて。
西小路通の少し東側を、まるで沿うようにして走る道路。
これが天神川旧流路の河床に当たる箇所。河床と言うより、当時の川の流れに一致する場所と言った方が誤解が少ないでしょうか。
 南に進むと、直ぐに西小路と四条通の交差点に出ます。



2008/07/25撮影分使用
この辺りで四条川と合流・・・って、何も残ってないよ ね・・・これじゃ。
この付近で天神川旧流路は四条川と立体交差をしていたし、陸運を苦しめた西院の「一の坂」があったはずなのです。
現状・・・「んなもの、どこにもねぇ!!」。
 四条通が西院より西に拡張され、開発が始まった昭和30年代に、全てが無くなったのでしょう。
この西、約100mほどの所を流れる養老田川に架かる橋も、 全て昭和30年代以降に造られたり、架け替えられたりしたようです。
また、四条中 学校の沿革を見ても、この辺りは昭和30年代以後の開発であることが分かります。


築堤
2008/07/25撮影分使用
そこを抜けると、天神川旧流路は西小路通の東を少し蛇行しながら沿うようにして南へと一直線。
場所は西院坤町、西院久田町になります。
この辺りも・・・完全に跡形は無いですね〜(涙)。
右に見えているのは四条中学校の校舎を囲う壁。いつも思うんですが、こんなの必要なんでしょうか?。
・・・必要でしょうね、よく考えたら、今のご時世、いつ不審者が入ってくるか知れたものではありませんから・・・。
この辺りにあったはず・・・はず・・・(涙)
無い・・・・(大涙)
期待していた町境界のラインも直線そのものだし・・・。これはもう・・・完全消滅ですね。
地形の高低も残っていないから、もう、探しようがないです。
しかしこの後、天神川旧流路は阪急京都線にブチ当たります。



国土地理院 航空写真 整理番号 CKK-87-1 地図番号NI53-14-7 撮影コ−スC7 写真番号12の一部を切り取り画像処理を施した。
原図はこ ちら

島津製作所
2008/07/25撮影分使用
ここからが、めまぐるしく変化する天神川旧流路となり、いわば・・・クライマックス!?。
先ずここからの流路ですが、先に述べたように、都市河川としては異様な「S」字カ−ブとなります。
私はこれを阪急京都線が開通する為に付け替えられていたものと思っていましたが、それは間違いであったと言うことが後になって判明しました。
明治35年(1902)の地図に、既にこの屈曲は記されているのです。
明治35年以前の姿は分かりにくいですが、明治35年以降、昭和19年まではこの流れに近いものであったこともわかりました。
つまり、ず−っとこの流路のまま流れていたと言うこと。
確かに地図上で見てみると、当時は周囲は農地。
・・・これ、農作物は大丈夫だったの?。心配になってくる。
普段は水がないのは唐橋村以南は水量があったようですが、そこから以北は”平時水なし、大雨の後、暴瀑し堤などを害す”の状態であったのでしょう。
つまり、この辺りは川はあるのに、水がない状態だったと推測できる。
むろん、羽根田川などからの水はあったでしょうが。
 ただ、それにもまして洪水時は一番危い地帯であったでしょう。
何より、その直角に曲がる位置が危ない。
それもこの地区は直角カ−ブに近い曲がりが4箇所連続しているのです。
これは危ないでは済まないです、というか危険です、これは。
 そして、洪水になれば農作物も水に浸かる・・・いや、農地ごと流されかねない水の勢いであったはず。
 そんな場所の約60年後の姿。
先ずここで、一回目の90°カ−ブが来る。
むろん厳密に90°と測ったわけではないですが、昭和20年の航空写真から見ると90°に近い角度で曲がっているのが見て取れます。
今現在の地図上で示すのならば、こうです。
なんかスゲ−、と叫びたくなりますよ、これは。
一体全体なんでこんな屈曲点が集中する場所になったの、ここは?。


2008/07/25撮影分使用
この曲がりで流れは一気に西南西を向くことになりますし、現在の西院清水公園の辺りを旧流路は流れていたわけです。
この辺りは地形がおぼろげながらにも残っている場所です。
お分かり頂けます?。何となく、北側に低く、南側がやや高いのが。
 この地形はその後に、突然現れます。



2008/07/25撮影分使用
ここ。
ここが、今度は南に向かって90°曲がっていた場所。
更に、その屈曲の直後、羽根田川を合わせていた場所。
 無茶しすぎです!!。
屈曲点付近で別の河川を合わせるなど、無茶だと素人目には思うのですが、専門的見地の方から見るとどうなるのであろうか、はっきり言って興味があります。
そして上の写真にあるように、おそらくここが約60年後の位置に当たる。
地形以外何も残っていないですし、片方の羽根田川など跡形もないです。



2008/07/25撮影分使用
更に河川跡は続きます。
南に流れる旧流路は、おそらく現在の住宅地を流れ、ここに出ます。
天神川旧流路は屈曲を過ぎると、南南東に向かって流れていくようですが、さすがに面と向かって、人様の家を撮影することは最近のご時世、控えた方が良いの で撮影していません。
 四条川の末流、羽根田川(仮称)がこの付近で合流していたはずなのですが、やっぱり天神川としてのほうが地形の残り方が良好で、やっぱり羽根田川は完全 に消滅しています。



2008/07/25撮影分使用
阪急京都線の土手、先に見えるのは、2004年に営業を開始したイオンモ−ル HANA。
その西側に当たるこの道。
この道と阪急の交点あたりで3回目の屈曲を迎えます。
この阪急の橋梁もかつては道路を通すものではなく、河川を通していたものだと思われます。
大正末期や昭和初期ではやっぱり一面の農地のまっただ中。
けどこれ、増水した場合には当時の阪急も運行できなかったのでは無いでしょうか?。



2008/07/25撮影分使用
流れはこれで東を向き、西院追分公園を北に見ながら、イオンモ−ルの方へ。
この追分児童公園は今現在下水道の幹線工事を行っており、巨大な坊音ハウスが建てられており、工事がかなり長い期間続けられています。
そしておそらくこの追分け児童公園の南側を天神川旧流路が流れていました。
無論その先にあるイオンモ−ルまでは流れないです。今現在でもイオンモ−ルの北側を一つの細い道が走っていいますが、この道がこの辺りでは一番古いらし く、明治35年の地図でさえ、その姿を見ることが出来ます。
 その道はそのまま斜めに五条通方面、西小路の一つとなりへと抜けていたようです。



2008/07/24撮影分使用
そしてその道に面して旧流路は流れていました。ここで、旧流路最大の屈曲点を迎えます。場所は西院久保多町から西院追分町にかけて。
 ・・・どう見ても明治の地図では90°を超えて屈曲しているよ〜、これ。昭和8年の地図でさえ漸く90°の収まるかどうかの屈曲。
とんでもない。
その一言に尽きます。
ど−してこういう無茶な造りが多いのか?、この河川は。
どうあがいてもここ、増水時にはやばいでしょ〜、いくら当時は農地の真ん中を(常時水はなく、大雨の後のみに増水して)流れていたとは言え、この屈曲は。
逆に考えるなら、水の勢いをこれだけの多重カ−ブを重ねることで殺していたのかも知れません。
それでも、余程堅固な堤を造っておかないと、あっという間に決壊の危機でしょうし・・・。
これだけ複雑な屈曲は先人の知恵?!・・・それともやっぱり自然地形?!。
情報をお持ちの方、ご一報よろしくお願いします。


2008/07/25撮影分使用
そしてそれを過ぎた旧流路は漸く平静を取り戻していきます。
が、現状では・・・商業地の真下(涙)。
この建物や、ガレ−ジの辺りを徐々に南南西に流れていたようですが・・・。
追ってみても・・・私有地内で、全く立ち入り出来ません(涙)
それに、完全に整地された後に区画を定めて建物が建っているので町境界もまっすぐだし、河川跡の地形も全く残存していません。
それでも・・・と探しても、虚しく寂しい風邪が「ひゅるるるるる〜〜〜・・・」とか線跡疑定地を吹いているのみ。
イオンモ−ルHANAから五条通までの間は本当に「完全消滅」です。



2008/07/25撮影分使用
五条を横切っていく旧流路。
場所は西院久保多町から西院六反田町にかけてです。
五条通はかつて戦争末期に防火帯の目的で強制疎開があり、その際に巾が50m近くある空き地が形成されていました。
戦後になり、それを道路へと転用しバイパスを付近の住民や、大谷本廟の反対運動を乗り越えて建設され、今の京都の大動脈が形成されています。
この辺りまで五条通が伸びてきたのは戦時中から戦後にかけてで、巾も五条七本松あたりまで拡張されている姿ではなく、片側2車線のごく普通の都市道路と なっています。
ここを西に行けば葛野大路五条、光華学園が五条通によって分断されている様な状態で存在し、その西を天神川現流路が流れて、その昔はその更に西側を御室川 旧流路が流れていました。
ここを東に行けば西大路五条、そして市民病院の直ぐ西となりを堀子川(西高瀬川)が流れて、五条通が拡張されている部分に達し巾50mの幹線道路へと変貌 します。
その五条通を跨いでいた天神川。時間が違えば流れていた場所も違いますが、60年以上昔は、この地を流れていたのです。



2008/07/25撮影分使用
そして西小路の一つ西の筋に沿って南へと流れる。
ここも跡形もなく消滅(涙)。
河川が流れていたであろう位置に建物が建っているから。
昭和49年の航空写真でさえ、少し南の東大丸公園あたりからしか流れを確認することができません。
嘗てはこの東大丸公園の北東角で支川が合わさっていたようで、よく調べてみるとそれは昭和30年代に五条通の辺りから造られた下水の放水路のなれの果て だったのでしょう。
ここから下流域は旧天神川をご覧になっていただきたいです。


無論、地形跡としては若干残ってはいるし、ダイニックの会社沿革(80年史)(第 六章 複合・京都工場の滋賀移転)にも若干、天神川旧流路の記載があります。
しかし、もはや、七条以南は西高瀬川との合流点までの緑地帯、そして合流点付近の河川跡を覗いて、全く跡形がありません。
これが・・・廃川後約60年が経過した河川跡の姿。
更に最近に至っては、この旧流路から葛野大路と西大路七条に向かって下水の幹線が造られて、今現在シ−ルドマシンを用いたシ−ルド工法で工事が昼夜問わ ず、進められています(2008/12月現在)
天神川旧流路も下水の幹線として再利用・・・と言うか、最終利用されそうです。

暴れん坊だった河川も牙を抜かれるどころか、息の根を止められた姿、それが天神川旧流路。
失われた河川は失われた記憶。
そしてそれは二度と繰り返してはいけない災害と、二度と戻らない河川の記憶。
天神川旧流路(完)

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