旧天神川 旧流路 2007 12/09


上の写真は昭和49年(1974)当時の京都市西南部、西京極地域を写した航空写真の一部を切り抜いて加工した物である。
 オレンジ色で示したのが七条通り(山陰街道)、左右の青い線は左(西)が旧天神川、右(東)が西高瀬川である。
一見何の変哲もない郊外の航空写真ではあるが、昔、天神川は七条通りでほぼ直角に流路を東に向け通りに沿い流れていた。
その痕跡が僅かではあるが残されている。
赤い表記がそれである。
今回は短い区間ではあるがそれを辿ってみようと思う。
場所は京都市右京区西京極大門町周辺である。

いきなりの疑似鳥瞰撮影であるが、下の道路の左側、つまり道路の向こう側半分辺りがかつて天神川が流れていた場所のようである。
撮影した日には工事は行われていなかったが、平日は交通規制をして工事が行われている。
どうも下水関係の工事であるようだ。

こちらは南側を向いて撮影。
昔この辺りは、ダイニックと言う会社の京都工場の敷地であった。
詳しくはここを見て下さ れば分かると思うが、この中でもこの位置に川が流れていたことを物語る証言がある。
その文中、創社の時代 第2章 試練の時代に、このような記述がある。
 東工場となるべき用地の買収は、
すでに1937年(昭和12)から始まっていた。
同年2月に右京区西京極三反田町3番地〜6番地の1,489坪を買収し、
さらに1938年(昭和13)3月には同7番地の523坪、
1939年(昭和14)10月には西京極東町45番地の630坪を買収した。
東工場の建設は1937年(昭和12)12月に始まり、
翌1938年(昭和13)の4月に完成した。
当時、工場建物棟の新築については200坪が最大規模と決められていたため
188坪の工場を6棟つらねるかたちになった。
東工場は1938年(昭和13)4月5日に試運転を行い、
7日から一部操業を開始した。
新しい染色工場には、ドイツ製の電熱乾燥機など新鋭設備を導入した。
それらは神戸港に陸揚げされたあと、
京都までは貨車による陸送を予定していたが、
機械が巨大すぎてトンネルを通過するときに
一部が天井につかえてしまった。
そこで鉄道省に交渉して貨車のシャーシーを低くしてもらった。
油布工場はもとの染工場の跡地(敷地約500坪)に順次建設し、
1938年(昭和13)夏から稼動している。
生産が軌道に乗るにつれ設備を増設し、
1940年(昭和15)には500坪すべてを油布工場とした。
染色工場は油布工場建設のあおりをくらって、
天神川の対岸に追いやられたといえる。
つまり、最初は染色工場であったが、次第に油布工場となり最終的には天神川を挟んで油布工場と染色工場が並立していた状態。
とでも言えばいいのだろうか。
天神川の旧流路は昭和10年の京都大水害を契機とし、大幅な流路変更と、それに伴う旧流路を廃川化する動きがあったはずだが、この辺りまで影響が出ていた かどうかは目下調査中である。
ただ、言えることは、この辺りの旧天神川は昭和の相当遅い時期まで存在していたと言うことである。
冒頭の航空写真、昭和49年の航空写真であるが、まだ地上を流れ続けている姿が見える。



上が昭和55年、下が昭和62年に撮影された航空写真である。
七条通りより北の旧天神川は暗渠化されたのだろうか?。
地上から姿を消している。
昭和49年には存在していたのだから、暗渠化は昭和55年までに行われたようだ。
先ほどのダイニックの社史の文中、拡大の時代、第6章 複合の中にこのような記述が見られる。
京都工場の閉鎖と滋賀工場の新設の背景には、
都市計画や地域開発がらみの法規制と公害問題があった。
さまざまな法規制により、
京都が工場立地としての適性を失いつつあったことが
移転を決意した理由のひとつであったが、
直接のきっかけは工場の新増設に制限を加える
「工場制限法」(1964年施行)にあった。
京都市全域が同法の適用を受けることになったのである。
さらに「工場再配置法」(1972年)によって、
京都市全域が移転促進地域に指定された。
とあり
「工場立地法」によると京都西工場は、
生産施設面積を修正しようとすると、
増設はおろか1,230.5平方メートルも
面積を削減しなければならず、
東工場も651平方メートル削減しなければならなかった。
さらに生産施設を更新するときは、
既存の施設面積を削減しなければならなかった。
「建築基準法」から見ても、
西工場はすでに規定の建蔽率をオーバーしており、
増築はまったく不可能だったのである。
とある。さらに
当局の規制と監視強化、さらには住民運動が高まるなかで、
周辺の住宅化が進んでいた京都工場の
悪臭、騒音、工場排水が問題になった。
夜間操業はほとんど不可能になった。
民家に近い生産設備(ボイラーを含めて)を大幅に改善し、
縮小した。
1975年(昭和50)には、水の規制が一段ときびしくなった。
さらに1976年(昭和51)、1977年(昭和52)と
規制が一段と強化されることになっていた。
公害防止設備の大幅な増設は生産設備の縮小を意味していた。
さらにマンションの入居者をはじめとする住民から
振動に対する苦情が寄せられ、
工場周辺の地域環境は日ごとに悪化していった。
そして遂に移転することとなり
新しい工場予定地と決まった住友セメント多賀工場の跡地
(滋賀県犬上郡多賀町大字多賀270)
は総面積37万平方メートル、広大な敷地には山林も含まれていた。
鈴鹿国定公園と琵琶湖国定公園にかこまれた自然豊かな地であった。

滋賀工場建設は京都工場の移転だけでなく、
京都地区にあるダイニック事業所と
一部グループ会社の移転も含んでいた。
京都工場、中央開発研究所、桂工業、
ニックパワーズ、ニックフレート京都支社も、
新工場完成を待って滋賀工場に集約することになった。
そして残った京都工場は
滋賀工場移転後の京都工場跡地の処遇は、
移転も含めて1975年(昭和50)2月ごろから検討していた。
当初は大手のデベロッパーによる開発プランもあがったが、
最終的には住宅公団と京都市(教育委員会)に売却することになった。
50年の歴史の幕を閉じた京都工場の解体は、
移転設備の撤去が完了した1978年(昭和53)11月から始まり、
翌年2月に完了した。
京都市に売却した西工場跡には、1980年(昭和55)4月、
中学校が新設され、開校した。
東工場とクロス会館跡には住宅公団のビルが建設された。
おそらく昭和53年、京都工場が廃止された時期に合わせて、暗渠化が行われたものと思われる。
七条以北の旧天神川は地上から姿を消してしまった。
では地上に降りて、その後を辿ってみよう。

公団住宅の脇から南を向いて撮影。
川の跡などは全くない。いつも思うことなのだが、遅かった。こう悔やんで仕方がない。
いったい川が流れていたときにはどのような光景が広がっていたのか?。
もはや当時に戻ることは叶わない。
いつも思うのだが、この通りの名前は何というのだろうか?。
取材後、京都駅からタクシ−に乗ったりするとき、この通りの名前が分からず、七条ニックの二つ先の信号を北へ、などと指示しなければならない。

一つ通りと交差して、先に進むとかつての川跡に薬屋さんがある。さらにはトランクル−ムなどもいつの間にか出来た。
この建物の下をかつては川が流れていた。

そしてこの交差点。七条通りと交差するこの場所こそ、かつて天神川がその流路を直角に東へ曲げていた場所である。
旧流路を流れていた天神川は市内を流れる河川でありながら、いろいろな場所で屈曲点を持った河川であり、平常時は水が無くとも、大雨の後にはかなりの水害 が発生していたようである。
又、旧天神川の川跡は意外と見つけやすい。
何故なら天神川自体が天井川であり、その両岸の築堤となった部分の跡がかなり残っているからだ。
無論、そんなにはっきりとした跡は残ってはいない、だが、地形的に見て”・・・ん?!”と思う所が残されている。
この辺りは旧天神川の築堤の上に当たる場所であり、上の写真は南向きに撮影してあるが、歩行者用信号の電柱辺りから西と南に向かい土地が落ち込んでいる、 その落ち込みこそがかつての築堤と、平野部との落差の名残であろうと思われる。
ちなみに、ここから南は旧天神川として現存する河川である。
が、それはまた次の機会に書きたいと思ってる。

この交差点から東方向を望む。
右の写真は流れていたであろう位置を大まかに示した物である。
青は昭和49年当時の流路、赤はかつて流れていた旧流路である。
このコンビニ辺りが屈曲点であった可能性が高い。

信号を渡ってその歩行者用信号機の辺りから南を撮影した。
 右の柵が設置されているコンクリ−ト製の塀はおそらく旧天神川の護岸をそのまま利用した物では無かろうか?。
明らかにこの場には不似合いなほど堅牢に出来ている上に、隣の民家の一階部分半ばまでの高さである。
天井川の名残だろうか。

屈曲部から東側を望む。
右側の歩道、不自然な芝生に注目していただきたい。
下手をすれば歩道と車道が同じぐらいの幅がある。
おそらくではあるが、この芝生、おそらくここが川跡では無かろうか?。
このように、川の跡は遊歩道になるか、このような緑地帯になるか、事後の使われ方は決まっている。(一部例外もある)
 余談だが、2年ほど前まではこの向かい側にFUJIFILMのクリエイトがあった。
4*5のフィルムもポジであれば2時間で上げてくれる便利なところであったが、デジカメの市場拡大、フィルム市場の縮小により遂に閉鎖されてしまった。
残念である。
 不自然な広さの歩道はその先にも続いている。

場所は大門町、わかりやすいように京都交通のバス停を入れた。
川跡には電信柱が立ったりもしている。

右の車の停まっている辺りが川跡になると思う。
この辺りまで来るとだいぶ築堤の跡である地形の傾斜が無くなってくる。
ただそれでも、一様に南側に下がっているのは分かる。

ここで七条通りは西小路通りと交差する。
もうおわかりだろう。右側の柵に囲まれた緑地帯。
このような場所に歩道よりも広い緑地帯など、あからさまに怪しすぎる。
川の流れていた跡である。これは。
結構な広さである。
だが、これから先は急速に、その川跡が薄れていく。
商業施設が相次いで建設され始めたため、一気に無くなってしまったようだし、また、もしかしたらこの辺りで若干北側を、つまり現在の車道辺りを流れていた のかもしれない。

食料品のス−パ−の前を東に先に進む。
右の写真であるが5年ほど前までは柵が歩道側にせり出して、歩道が大変狭かったが、今では柵が後退し、歩道が広くなっている。
これも川の跡だったのだろうか。

川跡は消滅してしまったように見えるが、もうすぐ決定的な場所が現れる。
左の建物はパチンコ店になるらしく、建設中であるが、昨年までは倉敷紡績の工場地であった。
七条通りから西に入るといつもあの煙突が目に入って来るものだった。
その煙突も、昨年、遂に撤去されてしまい、もうあの光景も、二度の目にすることは出来なくなった。

場所は京都交通の月読橋バス停付近である。ここ川跡は完全消滅。
何しろ商業施設が移転してくるわ、パチンコやが出来るわ、もう開発されまくりの場所である。
当然痕跡はゼロ(涙)

だけど、遂に川の跡そのものの目前に来た。
前の看板が建ててある後ろ側は・・・。

このように、そのまんまが残っている。
しかもコンクリ−ト三面付き、フルスペックの残存度である。
この残り方から想像すると、おそらく旧天神川のこの旧流路は全面に渡って三面コンクリ−ト打設が為されていたのではあるまいか。
いつの頃かは不明ではあるが、昭和10年以降から昭和49年の間に埋められて流路も変更され、この西高瀬川と合流する辺りのみが残された・・。
何故かは分からぬが・・。
但し、手持ちの昭和15年の地図ではまだ流路の変更は為されていないように見受けられる。
今の七条通りに沿い流れているようであるが、やや屈曲部が東に出っ張って南に流れていたようだ。
次の写真のようになだらかに南に流れ西高瀬川と合流していたようではなかった。

旧天神川、旧流路最後の遺構と言っても差し支えはないだろう。
もう雨が降ったとしても、永久に水が流れてくることはない。
水音が帰ってくることはないのだ。
この場所には。
川は命を奪われた。
そして、ある意味、死ぬことさえ許されずに、ここにあり続けなければならない。

 現在の西高瀬川と旧天神川の合流点である。
どちらも同じような三面コンクリ−ト打ちにされた河川ではあるが、ちなみに手前の西高瀬川は水の流れもあり、一応、都市河川である。
が、この西高瀬川は強雨後にいきなり水位が上がる危険な川である。
しかもその水量の大半が下水から溢れかえった水であるから、たまらない。にほひがね・・・。
ちなみに、この西高瀬川と旧天神川、先にこの場所を流れていたのは旧天神川である。
西高瀬川はかつて、この流路を流れてはいなかった。
西高瀬川は西大路の手前で南に進路を変え七条通りを越えて東海道本線を潜り、更に南に流れていたようだ。
ただ、この辺りの風景も少し経てば大きく変化するかもしれない。
京都市が堀川や西高瀬川の通水復活を目指して取り組んでいるからだ。
もし、通水すれば、この辺りの風景は変わる。
 しかし、それでも、この旧天神川は顧みられることはないだろう。
人々から忘れ去られ、何故、そこにあるのかさえ分からずに、川の遺構は、今日もそこにあり続ける。

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