高瀬川 旧流路(七条〜東海道本線近辺) 2007/01/03
追加 高瀬川旧流路 2011-01-26


整理番号CKK-74-15 地形図番NI-53-14-3 撮影コ−スC9 写真番号15 を切り出して画像処理を施した。

上の航空写真をご覧になっていただきたい。
昭和49年撮影の写真であるが、ここに歴史的に有名でもある高瀬川が流れている。
高瀬舟と言って、底の平らな船を生んだほど、水運に使われた河川であるが現在では、殆ど都市河川になり下がっている。
かつては水運の要として活用され続けた河川だ。
その河川も、過去に幾度も流路の変更が行われていた。
この河川の歴史をひもといてみよう。
そもそもこの河川は人工的に開削された河川である。
初めて歴史上に登場するのは戦国時代の終焉、江戸時代の初期からであろうか。
年代を示すなら1614年。この年代については色々と議論があるようだ。
角倉以了・その息子の素庵によって開削された。
現流は二条、そして、伏見までの10km。
途中で鴨川と平面交差しており、ここから下流域を東高瀬川と呼ぶこともある。
江戸時代、明治の初期までは京都の物流を支えた大動脈であり、そのころは現在と比べても川幅も広く、深さも尺(30cm)程度と、非常に水量もあったよう だ。
高瀬川の五条から二条付近までは船を停泊しておく舟入と言う場所があり、最盛期には一日で100隻以上の船が行き来をし、一の舟入から九の舟入まで九つの 舟入が存在、また、七条通りの北側には内浜と言われる船舶の転回場があった。
また、四条から北側は武家屋敷の間を流れており、歴史に深く関わった河川でもある。
ただ、それらの栄華は既に過去のもので、鉄道や、陸上の運送が盛んになり始めると取り扱う荷が減少、そして水運自体が衰退し、大正9年、遂に廃止となっ た。
水運に使われだしてから約300年。
京都の水運の大動脈は消えた。
現在、多くの史跡を示す案内板は建っているものの、川は河床に僅かの水しか流さず、二条源流付近で浮かべてある高瀬舟も寂しそうだ。
七条以南、特に鴨川との平面交差がある部分までの流路は調べてみる限り4回の付換えが行われているようだ。
但し昭和10年の大水害時以後の流路変更が今回は分からなかった為、書き入れてはいない。更に調べてみると、鴨川の合流点も付け替えられたようだ。
今では南に2−300mの所で鴨川と合流している。
次の航空写真をご覧になっていただきたい。







上記のボタンを押せばそれぞれの時代の流路を見ることが出来る。
ただ、明治期、大正期の流路は古地図からフリ−ハンドで書き写したものなので、精度という面では非常に低いと言うことを付け加えておきたい。
あくまでも目安程度、と思って欲しい。


精度という面は低いが、だいたいの流れの位置はお分かり頂けただろうか。
航空写真の年代、1974年からの大きな流路の変更は2002年の変更である。
これは、七条通りから南下してきた流れを直線で屈曲部の終点につなげる流路をとった。
これによって、旧流路は新流路から分離されて廃川となった。
その後、旧流路の塩小路から南の部分は河原町通りの拡張などに伴って姿を消した。
僅かに塩小路に面していた河川跡が残っているだけに過ぎない。
逆に、塩小路から北、七条より南の部分はそのまま河川の跡が残っている。
しかもそのままがはっきりと。しかし、最近行ってみると、徐々に転用が始まっているようだ。
跡地は公園などに利用されるそうだが、今の現状を見ると、商業施設などに利用されてもおかしくない。
と言うのか、実際そうなっているところもある。
そのうちに、この河川跡も、そこを川が流れていたことさえも人々の記憶から忘れ去られていく。
そうなる前に、レポ−トしようと思い立った。


七条通りを高瀬川に沿って南に走ると直ぐにこのような場所に行き当たる。
ここが新流路と、旧流路との分岐点である。
右の写真を見ていただければ分かるように中央のコンクリ−トブロックが新流路と旧流路を分かつものである。
ここから旧流路を辿り始めてみよう。

左、旧流路側から新流路側を見た写真。と、その旧流路側の廃川化処理、本当にありがとうございます Orz。
もう、この流路には二度と水を流すつもりはないらしい。
その処理から分かる。
それ以上にかわいそうなのは、このコンクリ−トに押し固められた河床だろう。
何でこんなふうに固める必要があるのか?。

河川としての最低限の機能しか残されなかった旧流路。
何度も言うことになるが、当然、二度と水が流れることもない。
この固め方はよく考えたら鍋取川に似ているかと 思う。
合流点寸前、地上に姿を現した鍋取川もこのような形に塗り固められていた。
鍋取川はまだいい。
たとえ塞がれていても水は流れているから。
ただ、この旧流路は哀れである。
暗渠でもないのに水を流すことが出来ないのだ。
川が泣いているぞ。これでは。

川沿いを進むと河原町通りに出る。
ここを高瀬川は潜っていた。
河原町通りは鴨川の西側の通りで、北に行けば四条河原町の商店街に続く。
また、ここから南は東海道本線を潜る立体交差の拡張工事が施工されている最中である。
しっかし、マヂでコンクリ−ト張りの河川だね、旧流路は。
以前、東京に行く機会があり、宿泊地は神田川の近くだった。
正直歌に出てきているぐらいだからどんな河川なんだろうと期待したものだった。
行って、唖然とした。
三面コンクリ−ト張りの都市河川だったから。
その瞬間、私は撮影しようとしてもってきたカメラをバックにしまって、ホテルに帰った。
撮影する気すら起こらなかった。
 そんな私が今こうやって、コンクリ−トの河川を取材しているのだから、皮肉と言おうか・・・人生とは解らないものである。
ちなみにこの橋、”ふれあいばし”と言うのだが、なんか全然川とはふれあえないような気がする、と思っているのは私だけではあるまい。
この橋梁も、やがては撤去される日が来るのであろうか?。

反対側に渡るとこちら側にも親柱を伴った橋梁が現存している。
銘板には”高瀬川”、”ふれあいばし”と言う文字が記されている。

河原町通りを越えるとまた川は再び姿を現す。
姿を現したものの、こちらもコンクリ−トで塗り固められた河川。
しかしこの場所を100前までは高瀬舟が行き来していたのだ。
それも、最盛期には日に100隻以上の高瀬舟が。
さすがにこの辺りは京都市内の南部、比較的古くから家屋があった場所であるから、田圃と言うことはなかっただろう。
しかし、それでも、どういった風景がそこにあったのか。
狭い路地にたくさんの人。内浜には何隻もの船が着き生活物資を積み降ろししている。
史料によると、主に積まれてきたものは、生活物資などが主で、逆に積まれていったものは商業用品が主であった。
高瀬川は時間ごとに京都市内への上りと、大阪方面への下りが分けられていたようだ。
そして、鴨川を渡ってからは、引き子と呼ばれる船を引く人によって高瀬川を遡る。
ほ−いほ−い、と言うかけ声で船を引いた。
また川を遡る船が来た。舟入に入ってくる。
そして荷を積み降ろして・・・。
それらの喧噪は全てどこかへと去ってしまった。
目の前にあるのはコンクリ−トに河床を固められ、水を流すこともなくなった河川の跡だけだった。
夢の跡。ふとそんなコトバが思いついた。

京都市、川を美しくしましょう。
私、美しくしようにも、川がない。
たぶん口頭で言われたらこう言ってしまうでしょうな〜。私。
この辺りの先で高瀬川は分岐し内浜と繋がっていたものと思われる。
その跡が今は生活道路として残されてはいるが、今は辿らない。
たぶんここが内浜の跡であろうと言う地形は分かってはいるのだが、不確定なので、今回は書かないことにする。

で、屈曲部にさしかかって・・・あれ、あれあれ・・・。
以前(2年ほど前)に来たときにはここから塩小路通りが見えたのに・・・建物が建ってるよ・・・。
おいおい・・・。
こう言うことがあるから、廃川跡は出来うる限り早くその姿を留めておくべきなのに・・・・今回も私は遅きに失してしまった。
正確には、廃川化後の姿を留めているフィルムはある。
が未現像フィルムの中に紛れ込んでしまって、今はまだ整理が付いていない。

目の前の歩道、少し盛り上がっているのがお分かり頂けるであろうか?。
ここがかつての塩小路橋である。
この前をかつて市電が走っていた。
たしか稲荷線だったと思う。
時代の要求によって、市電も、河川も消え去ってしまった・・。
しかし、ここ、確かに洪水が起こってはまずい地域かも知れない。
だって、この塩小路通りをこの位置から西へ500mも行かないうちに京都駅北口に着いてしまえるのだ。
あの巨大なタ−ミナルの真ん前まで僅か500mも無い。
歩いたって五分とかからない。
昭和10年の大水害時には確実に氾濫したであろう。
この屈曲具合からしても、また鴨川からも近い為、この辺りは大きな被害が出たのではあるまいか。
記録では鴨川に架かっていた橋のうち、流失を免れたのは四条大橋ぐらいしかなかった、と記録されている。
その後、流路の付け替えがあったのであろうが、残念なことにその地図が手元にないため、分からないと言うのが本音である。

流路跡に出来た店の前にはこのように案内板と親柱とおぼしきものがあった。
案内図には現在の位置と、関連するもの、旧流路や新流路がまじめに描かれていて、左には次のような説明文が書かれている。

慶長十九年(1614年)、角倉了以によって開かれた京都の中心部と伏見港を結ぶ運河。
鴨川から分かれて、二条木屋町から始まり並行して九条付近で鴨川を横断し伏見三栖に至る。
高瀬川完成から三〇〇余年、底が平たく舷の深い高瀬舟が大阪との日常貨物の上下や人々の移動のために活躍し、近世京都の帝都としての町づくりと経済的発展 に大いに寄与した。

開削からもうすぐ400年が経とうとしているが、この地域の流路はそれを目前にして、廃川となってしまった。

南側にまだ現存している塩小路橋。親柱は新しい。
が、一応竣工日時は昭和3年12月と結構旧い。
・・・けどね、ぴかぴかの大理石か黒曜石に”昭和三年十二月”なんて入れても、信用できないっちゅうの。
せめて、親柱は新しくしても、銘板は旧い物を残して欲しかったぞ、ここは。
橋自体が新しすぎて逆に違和感を感じるほどだ。

塩小路橋を過ぎて僅か50m程が旧流路の残っている箇所であり、そして、旧流路としての最下流部になる。
もう、写真を見ていただければ分かってもらえると思うが、この先は道路への転用が開始されている場所だ。
旧流路は一旦ここで途切れている。
しかし、川の両脇には石垣がそのまま残されており、かつての川跡をかろうじて残す証人になっている。
だが、最後まで、三面コンクリ−ト張りだったな・・・この旧流路も。
まだ、廃川直後は緑が繁る河床であったようだが、現状では、こうだ。
どうあがいても言い逃れできない終わり方。
どんなに未練たらしく先を見ても、先にあるのはアスファルトに塞がれた道だけ。
ここから200m程先まで、川跡は完全に喪われている。
国道24号線の立体交差工事により、河川跡は消滅。
2014年現在では、車が快適に走行している。

川跡に続く道。
もう、まるっきりそのまんま、”川を埋め立てました”的なオ−ラが漂っていると思わない?・・・・・思わないかな・・・・・・。
南に行けば直ぐにJR東海道本線に行き着く。
が、高瀬川旧流路はまだ東向きに流れていく。
東海道本線を潜るのは、この先崇仁小学校内を流れた後である。

ここが河原町通りの立体交差拡張部分である。
まあ・・・・ものの見事に川跡は消滅と言うか、跡どころの話ではない完全消滅である。
路面を掘り下げられている時点で、絶望的だと思っていたが、ホントに絶望だった。
計画では立体交差上に公園が整備されることになっている。
工事の具合も大分進展しているようなので、あと暫くで完了するだろう。
と言うか、掛かりすぎだと思うぞ、この工事。
3年ほど前に通りかかったときも、現在と同じく工事をしていたし。

河原町通りを越えて先に進むと、もう、これもあからさまに川跡を道路に転用しました、的な道路がある。
僅かに右側の道路との境に当時の石垣だろうか、そのままに残されている。

ここが新旧流路の合流点になる。
写真の奥から流れていたのが旧流路。
右から橋の下を潜り流れてくるのが2002年に付け替えられた高瀬川新流路。
旧流路のぞんざいな扱いからすると、旧流路側からは二度と水は流れてこないのではないのだろうか。
工事予定では、川の流れが書き込まれているような気がしたのだが・・・。
あれは気のせいだったのか?。
まだこの辺りも整備されきっておらず、工事用のバリケ−ドがかなり残されている。
旧流路の付け根は最終的にどうなるのだろうか?。
埋め戻されて消滅するのだろうか?。
この河川もまた、経過観察が必要であろう。
どうなっていくのか、これから先京都にいる限りこのペ−ジで記していきたい。

都市河川であるから、このようにゴミが流れてくるのはもはや仕方ないのか?。
だいたいこういう流れが平坦で、底の浅い河川にはペットボトルのゴミが目立つ。
何でペットボトルを捨てるかな〜。
あれ、全然分解されないんだよ。
ほんとに。大きな河川の下流域に行ったら、岸には必ずペットボトルの空き瓶とかが打ち上げられてるから。
しかも泥にまみれていても、全然分解されてる様子とか無いから。
いたずらにゴミを増やすのはやめようよ−。
ペットボトルはリサイクルできるから、ちゃんとゴミ箱に入れてね。

ここから先が崇仁小学校になる。
高瀬川はこの先、この小学校の校庭を流れ、東海道本線の下を潜り南区へと流れていく。
さすがに撮影許可も、アポイントも取っていないので敷地内の撮影は行っていない。
2002年の付け替え時に、崇仁小学校内の流路は生物育成・観察の環境、ビオト−プとして整備されたようだ。
こちらの河川とは大違いである。
このような施設・・・と言ってはおかしいが、河川が校庭の中を流れ、また生物観察の機会として提供されるというのは、いいことだと思う。
ただ、あんまり水位が低下していると、プランクトンの発生などで、異臭がしそうな気がするのは私だけか?。
金網越しに見た限り、少し深くなっているのか、水量もそこそこあり、水生植物が茂る場となっていた。
だがこの先、東海道本線を越えてからは水量は少なく、ただの側溝に成り下がってしまっている感がある。
(1/27追記)1/27に再び行ってみると、水量が増えていた。
どうやら、季節、源流部の堰の開閉具合で大きく変わってくるようだ。
かつての栄華とその夢の跡。
ここに川が流れていたことも、やがて忘れられて行くであろう、川の流れは昔からまっすぐだった、と言われる日もそう遠くはない。
それが時代の流れ、と言われるのならば仕方がない。
形ある物は必ず滅び、寿命が無限と言われる物であっても、必ず終わりはある。
大きな星でさえ死があることが分かってきた。
それに比べて河川などはそのような死など、日常茶飯事なのかも知れない。
ただこの河川を造り、そして使い、また守ってきた人々の心意気が失われないことを祈るのみである。
所謂、形が滅びても、精神(こころ)は残るという考えに私は期待したい。
高瀬川 旧流路(完)

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