東高瀬川(1) 〜東海道線から鴨川平面交差〜
(複数日にわたり検索を行っているため日時や時間帯の異なる写真があります)

高瀬川は近年大きく流れを変えている。
特に京都駅近辺ではかなりの流路変更が行われ、現在の流れに落ち着いたのは1950年以降で、それまでの流れはまさに時代の要請に合わせ続けた結果「変え られたのだ」とも言える。
そもそもこの河川は1600年前半に角倉了以によって開削された「運河」であった。
その運河は京都二条付近の鴨川より取水し、五条、七条を経て、塩小路で「内浜」と呼ばれる荷揚げの港にもつながり、東海道線を潜りさらに九条南で鴨川と平 面交差し対岸に辿りついてから名称を「東高瀬川」と変え、南に流れる。

さて、今回始めるのは東高瀬川の鴨川平面交差の北側、塩小路通付近から始めよう。

まずは幾つかの地図を見てみよう。


左は京都市明細図(1948)、右はGoogle Earth(2012)、当然ながら「激変」。
この近辺は古くから鉄道が走り、近年は河原町通の東海道本線以南への延伸、そして2000年に行われた高瀬川流路の変更だ。
それまで屈曲していた高瀬川七条から東海道線までの間を直線としたこの流路変更で、旧流路は永遠に水の流れない河川になり、2012年には「平成の京町屋 普及センター」なるものが作られ、屈曲部分は永久にこの地上から消え去った。
(歴史ある高瀬川の景観を守ろうと旗振り役の京都市は、歴史ある高瀬川旧流路は守りたくなかったようだ・・・なんかダブルスタンダードな対応)

まずはこの旧流路へ分岐していく箇所、現在の高瀬川旧流路では唯一残存している箇所でもあるが、ここも、もはや分岐位置の特定は難しい。
なぜなら完全に石垣などが整備されており、元からこの流れでしたよーと言わんんばかりの状態になっているからだ。
昭和21年の航空写真でもこの付近はほぼ残存していない。
つまりは現在(2015)から70年前でさえ何も残っていなかったという状態なのだ。
となると、もはや推測で位置を割出していくかないのだが、先ほどの京都市明細図と航空写真は縮尺がほぼ同一なのを利用して割り出すと・・・
ちょうどこの生活道路付近で分岐していたであろうことがわかる。
現状は・・・・そんなものどこにも残っていない。
この生活道路付近とその左側(南側)が旧東海道線の路面が走る土手であったが、それも綺麗さっぱり「ない」。
あるのは土手に沿って流れていた高瀬川の河川跡に造られた生活道路だけである。
で、先に進むが、この付近は集合住宅地であるため、集合住宅地内の画像公開は差し 控えさせていただきたい。
だがこのまっすぐに西へと向かうこの路地こそが、かつて初代京都駅に通じていた東海道線の旧線跡だ。
ここに機関車が通るように土手が築かれ、その土手を高瀬川旧流路が潜っていた。

次に東に進むといきあたるのが高倉の高橋(高倉跨線橋)である。
この跨線橋も資料を調べていくと何度か掛け直されているようにも見える、いや、掛け直されたというより跨線橋を渡った先の道路の線形が変更されたように見 受けられる。
じつは新幹線開通前と開通後のこの跨線橋の線形は微妙に異なっている。
そいてそれより以前にも線形が変わっていたのではないかと思うのが、跨線橋西側の石垣のある道路と現在の跨線橋との間の空き地だ。
現在の跨線橋は微妙に南南西に曲がってから東海道本線を跨いでいるが、おそらく南側の道路の取り付けに相当難儀したためではなかろうか?
それにもし高倉通をまっすぐ通していたとすれば、新幹線を避けて通るために道路はおそらく90°の直角カーブとなり大型車の通行に支障をきたしたであろ う。

だが今はこの橋よりも高瀬川だ。
高瀬川はこの付近より跨線橋付近を南へと流れる。
そして一部はこの跨線橋を潜って西の藍染川方向に流れていた。
その分岐点が・・・


ここだ。
なんの変哲もない石垣の下部に奇妙な石作りの構造物が見える。
その構造物こそ、分岐点の遺構である。
おそらくこの下部にさらに埋まっているのだろうが、わずかに開いた開口部からは風が通り抜けていることからも、反対側にも開口部があって、そこから空気が 出入りしているのだろう。
しかしこの幅から考えると、通船用ではなく水量調整用だと思う。
それに基礎に水路の一部が残っているということは、この高倉跨線橋の石垣が組まれた時にはまだ存在していたということ、もし今の建設基準だと、これってア ウトっぽい気はする。


その反対側、跨線橋の東側の基礎下部にも先ほど見た遺構と同じものが存在してい る。
ここが古地図に示された分流の出口にあたる。
ただ、これは相当に古い地図にしかその存在を記されてはおらず、1900年代に入ってからでは、この流れを書き記している地図はほぼない。

となると、この付近の生活道路が藍染川方向への河川跡となるが・・・
ダメでした・・・
一般住宅が流路跡には建っており、写真公開は差し控えるため、おおよその位置は古地図に記しておく。
藍染川は五条下るの宗仙寺付近から流れ出していた河川と記録にはあったが、これは 正しいのだろうか?
調べていくと、確かに東洞院付近の流路跡から五条より北に出るということはないと思うが、それにしても情報が少なすぎて正確なところはわからない。
それに、途中で東に向きを変えて住宅地の中を流れ、富小路通付近へと伸びる流路が京都市明細図でも確認できる。
 民家の裏を縫うように流れた藍染川はやがて東洞院通沿いに南へと向かう。
塩小路通を潜った付近からは京都市明細図では地上の流れとして描かれているが、この流路付近がいつ暗渠になったのかは定かではない。
一つだけ言える事は1946年撮影のアメリカ空軍撮影の航空写真でも、すでに川の存在は地上から消えているという事だ。
そしてこの分岐は高瀬川旧流路の数少ない遺構で、藍染川自体が消えてしまっている現在でも、かつて高瀬川と藍染川が存在していたという証拠の一つと言って もいいだろう。
次に先ほどの分岐より南側に向かい歩くと東海道線との境界線にぶつかる。
跨線橋のたもとには神社があり、以前は廃屋が跨線橋基礎部に存在していたが、今では廃屋も無くなり、見えるのは都市部では珍しいごく小規模な藪だ。
この神社と生活道路部分が高瀬川の流路跡となる。
この先は現在の東海道線であり、当然立ち入るわけにはいかないので高倉跨線橋上か ら東側を写す。
この東海道線の下にかつて高瀬川は流れていたが、現状でその遺構は全くと言っていいほど残っていない。
その赤線の先には住宅地があり、その住宅地内が流路跡だったようだ。
南側には新幹線高架が存在して、そのすぐ南には八条通があるが、高瀬川旧流路はこ の高倉跨線橋に沿って流れていたため・・・
この先は構造物により立ち入ることができないので、地図上でおおよその位置を示す。

さて、東海道線を潜った高瀬川はどのような流れになっていたのか?
以下は京都市明細図からこの付近の高瀬川旧流路を書き出したものだ。
拡張されていない八条通、東海道線を潜っていない河原町通、転車台、旧東海道線の土手の一部・・・
今では存在しないものも鮮明に記載されている。
ここで注目すべきは、高瀬川旧流路(西流)部分は道路に転用されているということだ。
この河川跡から道路に転用されるのはよくあることだ。
事実、
堀川旧流路(鳥羽高校西から吉祥院水環境保全センター・・・名称をよくしてイメージを変える手段もよくあることだ(旧、吉祥院水処理場)
鍋取川流路(東海道線から南から九条通)
養老田川(三条通から四条通)
など、河川を暗渠化してその場所に道路を作ることは日常的に行われている。
しかしその河川跡に造られている道路から都市の生活道に出ると・・・住宅地にかぶっとる・・・。
次に河川跡に遭遇できるのは八条通を過ぎたところ、現状では「ホテルセントノー ム」の東側にある小さな路地だ。
この路地はその昔、私が廃河川に興味を持ち出した頃から不思議に思っていた路地でもある。
なぜ、住宅地の中にあるのに、このようなくねくねと曲がっているのか?
ほとんどの路地は道路と道路の間を最短距離で抜ける、つまりは直線に近い線形で作られることがほとんどなのだが、この路地は違う。
明らかに屈曲が過ぎている。
なんらかの理由があって曲がっている路地なのだ。
そして今、私は答えを知った。
高瀬川の旧流路そのものがこの路地なのだ。
もちろんこのような狭い河川の幅ではなかっただろうし、おそらくこの路地と、建物 の敷地付近までは河川跡ではなかったのだろうか。
京都市明細図や古地図ではもう少し広い範囲が河川であるように見受けられる。
この場所を高瀬舟が行き来したのだろうか?。
だとすれば、だとすればあまりにも寂しすぎる。
もはやそのような記憶は忘却の彼方であり、ほぼすべての人にも忘れられているであろう。
ただこのような形であれ、残っていてくれた。
京都市はこのような河川跡の道路をそのままの線形で使う場合が多い。
以前にも、これからも書くと思うが養老田川や鍋取川、旧堀川の下流部などは、現在そのまま(ないしはほとんど)かつて河川が流れていた線形で道路となって いる。
この生活道路に合わさると、河川跡は唐突に消失する。
かつてはこの北東側には柳原町があったが、今現在では東海道線と新幹線に分断され、その地名も柳原銀行記念館などにしか残されてはいない。
それよりさらに以前になると、この辺りは銭座町と言われていた。
そして付近には一面の田畑。
この高瀬川と東海道線、鴨川に挟まれたこの地域は陸の孤島ではなかったのか。
北側から交わる道路付近で古地図には一本の古道があり、その古道には橋がかかって いた。
おそらく写真の付近だと思われるが・・・現状では何もない。
そしてこの交差点より東側は・・・全く何も残ってはいない「住宅地直行型」であり、さらにその先には先ほど上流で旧流路を寸断した「河原町通」が存在す る。住宅地直行型+大通かぶさり型。
・・・あっ・・・(察し)
嫌な予感は的中する。
廃河川検索で最も残念なパターン、住宅地直行型(*1)+大通かぶさり型(*2)のコンボだドン。
(*1 河川跡に住宅地がありそれらにより、河川跡の残存が絶望的なもの)
(*2 河川跡に生活道路や主要道路があり、河川跡の残存が絶望的なもの)

つまりは何も残っていない状態がこのコンボの答え。
河原町通に出たものの、いや・・・風が冷たい・・・・つめたいよぉぉぉ。
古地図が示しているのはちょうど道路の住宅地の際をジグザグに南に流れていた様子。
・・・・これ、どうやっても完全消滅なんですが。
正直河川跡は何もないが、なんらかの構造物がここにはあったのだということはわかる。
それは西側の住宅地一帯に微妙な高低差が残されているからだ。
以下の地点で河原町通から高くなっている高低差が確認できた。
ただ、これだけだと造成時にできたものであるということも言える。
正直古写真か何かが残っていてくれたらよかったのだが、あいにく何も残っておらず、残念ながらここの河川跡は古地図と明細図のみでしか見いだすことができ ない。
もう一方の旧流路を探してみよう。
ここは東九条東岩本町の高瀬川現流路。
ここから高瀬川現流路は南西に向かって流れ、生活道に突き当たると、その生活道に沿って南に流れている。
これが現在の流れ。
そして、旧流路はここから河原町通に向かって直線で流れ・・・・あっ(察し)
直線状には公園や住宅地・・・これは川を抹消しにきてますわ(上図は直線上の児童公園)
多くの河川は、その流れを失っても町の境界線として残っていることが多い、しかしこの高瀬川旧流路はその境界線にもならず、さらにその斜めに流れた流路は 完全に住宅地の碁盤状の区画で消滅。
住宅地直行型の極みだね・・・これ。
そのうえ写真を撮ろうにもどうやっても一般住宅やマンションを写さなくてはならないため、ここでは京都市明細図で流路を描き出してみたい。

京都市明細図で割り出せた高瀬川旧流路は上図の通りである。
・・・これ、あかんやつや Orz
本当に河川は完全消滅。
まずもって、流路と家屋の並びが全く一致していないし、そのうえ道路も全く河川に沿っていない。
こうなると、もはや後世の人間が河川位置を割り出そうとしても割り出せない。
そりゃあ・・・この位置に川が流れていたら・・・邪魔だよなぁ・・・京都市さん、気持ちはわかるよ。
けど、古いものを残そうとするのであれば、こういったものも残すべきじゃない?
もしここで、橋の欄干や親柱でも残っていたら、私はもうその場で「キターーーー」と叫ぶ自信がある。
しかしこういった古いものを探すことをやっていると、いつもその期待は現実のものとはならない。

数年前まではここが「なんとなく」昔川が流れていたであろうことを思わせるものは残っていた。
それは家屋の並びだ。
たとえ都市計画で道路は真っ直ぐになろうとも、家屋の並びだけはこの高瀬川に沿うように、斜めに並んでいたのだ。
しかしそれも、ここ2010年前後で無くなってしまった。
2015年現在、斜めの家屋は完全になくなってしまい、もはやこの場所にかつて河川があったということを知ることができるのは古地図や京都市明細図のみと なってしまった。

この流路の変遷はなぜだろう?。
なぜ、屈曲した高瀬川流路が直線的に付け替えられ、「逆コの字」のような流路へと変更されたのか?
これは高瀬川の置かれた環境の変化があげられる。
時代が明治時代に入ると、時代は近代化をひた走っていた。 しかしそれも、ここ2010年前後で無くなってしまった。
鉄道や自動車の時代が到来し始めていた頃。
東海道線を迂回するための流路変更が行われた。
そのまま南に流れる流路だと、東海道線敷設には不都合であった。
そのため、川は曲げられた。

時代の要請によって幾たびも流路の変更が行われた。
これをまず上図の京都市明細図で書き出してみる。
この作業は実に簡単、なぜなら、町境界がそのまま河川跡をなぞっている状態だから。
そしてこの時に大まかに河川の位置や町境界、家屋の並びや特徴のある道路などを割り出し、そして覚えこむ。
この時に
河川跡を示した図(上図では赤点線)
京都市明細図(上図そのもの)
を別々に見れるようになるとベスト。
そしてこれを現在の航空写真に投影してみるとどうなるか

123・・・↓
なんということでしょう
昔の川の流れが現在に蘇ったではありませんか

もとい、この航空写真と流路跡を別々に認識できていれば、あなたはかなり河川探索に向いている。
つまり河川跡流路図とそれ以外を分けて認識できるようになると

河川跡流路図を記憶しつつ

航空写真
古航空写真
現在地図
古地図
町境界図
など、様々な情報をまるでPhotoshopのレイヤー管理のように重ねて表示したり、特定の情報のみを抜き出したりなど、違ったものの見方ができるよう になってくる。
そして旧流路は河原町通を南へ下り、九条通へあと二筋ほどのところで東に90°の直角カーブをする。
最初は九条通を避ける意味合いからここで屈曲していたのだろうと思っていたものの、2つ上の明治時代の古地図でもこの付近で90°屈曲していることを見 て、これが元々の流れに近い高瀬川なんだろうと推測しています。
それにこの付近が都市化しだしたのは、昭和に入ってから市内環状線である九条通が造成されてからであり、それ以前は烏丸通沿いに家屋が立ち並んでいて、河 原町通などは、一面の水田だった。
 その中を高瀬川は流れていた・・・、それは農業用水にも使ったかもしれないし、こういった屈曲を設けるのは勾配が関係あるのかもしれない。
つまり京都の盆地は三方を山に囲まれていて、南北の高低差は九条通から北大路通までで50m近い場所もあるため、直線で登ろうとすると土地の勾配的に厳し いのかもしれない。
 その為に勾配をを少しでも和らげる為に、道路などでは九十九折(つづらおり)と呼ばれるようなヘアピンカーブを多用して勾配を克服する技法があるが、 もしかしたら高瀬川はそれを行い、水の流れをできるだけ平坦にして、通船に支障のないよう高低差を埋めたのではないか?
逆に現在の鴨川のように一定距離ごとに小さな落差を設け流ことを行わなっかったのは通船の事情を考えてのことだろう。
ただ、それはあくまでも船を通船させる為の河川の場合であり、現在の高瀬川は明らかに船を通船さすることを意識していない。
その線形は明らかに土地に沿うというよりは道路や家屋の並び、鉄道の都合などに沿っており、もはや河川は通船などの手段には使わない、このことを暗に言っ ている。
 で、ここから南には九条通、九条跨線橋もある市かつては京都市電が行き交っていた九条通りが迫ってくる。
どうする高瀬川。
見事に旧流路は九条通を回避して現流路に注ぎ込むようになっていた。
緊急回避とも言える90°直角カーブで九条通と九条跨線橋を避けている。
この九条通は市内環状線の一環として順次造成されていった通りであり、このような片側3車線の道路になったのは1940年以降である。
当初は市電が走っていたので片側2車線だったのだろう。
 ここから南の高瀬川は鴨川の平面交差部分の出入り口を除くと、現流路にほぼ沿うように流れていた。
ちなみに、鴨川に沿い十条通付近で鴨川に水を落とす流れは近年になってから改修されたものであり、以前は九条観音橋の南にある「釜ケ淵」と呼ばれる鴨川が 東西に少し幅広になり屈曲していた部分から交わっていた。
京都市明細図にある鴨川は改修される以前にものであろうか、平面交差の様子が克明に残されている。
鴨川を渡り、向かったその先がたどり着くのは現在では若草児童公園となっているが、その公園の直線上に川の跡が続いている。
コンクリートで3面を塞がれ、もう二度と水を流すこともなくなった川の跡が。
そして、ここから川の名称が「東高瀬川」となる。
鴨川を渡って東側を流れるので、「東」高瀬川だそうだ。
東があるということは西もあるのか?そう考えた方もいると思うが、西もある。
京都には有名すぎる二条から鴨川に合流する高瀬川があり
九条南の鴨川東岸から伏見を経て淀川に合わさる東高瀬川もあり
嵐山渡月橋付近から京都の西を流れ市内で複雑な屈曲を経て、最終的に鴨川と合わさる西高瀬川もある。
さて、この九条跨線橋は1933年に竣工した橋で、東山通から西側に向かい
本町通り(伏見街道)
京阪京都線
JR奈良線
琵琶湖疏水
師団街道
鴨川
高瀬川

これらの構造物を跨ぎ九条通と接続している。
また現在(2015)では師団街道が九条跨線橋と平面交差するように工事が進められている。
そもそもこの跨線橋は都市計画によって立案されていた京都市環状線(東山、北大路、西大路、九条通)の九条通と東山通とを結ぶ要の橋であり、かつてはこの 跨線橋に京都市電が走っていた。
1978年10月に京都市電が全廃になると、四車線の車線をもって前述の二つの通りを繋ぎ、環状線の役割を果たしている。
もしこの跨線橋を作らず、東山から地道で九条通に接続していたらどうなったであろう?
推測だが、京都市内で最も交通渋滞が激しくなったであろうと推測できる。
東山通からの下り、(現在では)交通量の決して少なくない本町通りと師団街道、さらに二つの鉄道による交通の遮蔽と、いくつもの橋で渡らないといけない、 琵琶湖疏水、鴨川、高瀬川・・・事故多発の危険な道路になっていたであろうが、それを見越してか跨線橋として造成してくれた先人に感謝したい。
その跨線橋を潜って南に向かい高瀬川は流れる。
この跨線橋を潜った後の高瀬川は、しばらくは淡々と流れる。
そしてこの一つ目の屈曲部付近で、一つの流れが西の藍染川方面に向かって分岐していた。
以下のその流路図を示す。
この奇妙に屈曲していた様は一体なぜだろう?
まず考えられるのは、農業用水への利用だ。
1900年初頭の、この付近の古地図は、高瀬川付近が農業用地であったであろうことを示唆している。

1、その用地への用水として利用されていたのではないか?、ということ。もちろん水田用途が主だが、ある意味この高瀬川も含めて、京都市南部地域に流れる 川の水量を調整する為の流れではなかったのか?

2、次に考えられるのは下水(現在の下水というような、生活排水全般をまとめて流すのではなく、あくまで炊事や洗濯などに利用した水を流すための流路では なかったのか?ということ。

3、もう一つは、広い意味での産業利用。
つまり水車などがあり、それらを回転させるための水路ではなかったのか、や、通船の補助的な役割を果たした水路ではないか、ということ。

4、あるいは上記のすべてかいくつか、それともただ単なる水路

どの可能性もあるし、正直資料が残っておらず推測でしかないが、無難に水田への用水であったと思う。
もちろん2にも利用されていたであろうし、もしかしたら、という意味合いでは3もありえないことでもない。
4の可能性だってあるだろう。

藍染川・・・
その昔、京都駅東側の藍染川流路跡を調べていた時に、知人が上図に写る石柱は何であるのかを教えてくれた。
この場所は今ではガレージになっているが、昔はお弁当屋さん(ほかほか弁当やほっともっとではない)があり、その従業員の方から
「この石は船を泊めておく為の石だった」と言うことを聞くことができたそうだ。
もしこの情報が事実なら、藍染川は通船ができる規模の河川であったということだ。
そして、今でもガレージの隅で来ることのない船を待ち続ける舟留石(管理人造語)。
ただ藍染川自身、ほとんど名前以外の情報がない河川。
私もどういった川なのかは、流路以外あまり知らない。
 しかし通船するには船を浮かべてどこかに通じる必要がある、つまりは船を使うと何かができていた、何かを乗せて運んでいた。
こう考えていくとなんとなくおぼろげながら、藍染川の利用法が分かる気がしてくる(管理人の推測です)。
藍染川は東洞院通沿いを流れて、御土居の外をさらに南に向かって流れ、現在の竹田街道沿いを南に流れていた。
大都市の中から、一気に水田が見渡す限り広がる郊外地へ流れていた。
広大な農業地、上流には大都市、水運があって、水の利用も可能。
農作物には肥料があればいい・・・・あっ・・・(察し)
もしかしたら、だけど、肥(人糞)を運んでいたのかもしれない。
京都という言うなれば一大消費地の南には広大な巨椋池や宇治川があり、水が豊富な農業地がそれらの南に広がっていたら、消費の結果でた「もの」を植物の肥 料に使 えば一挙両得だから(人糞と聞いて汚いと思われる方もおられるかもしれないが、直接農地に捲くわけではない。そんなことをすれば濃度が濃すぎて 植物は枯れるため、発酵させて時間をおけば薄まって肥料として利用可能になる。ただ、世界的にも人糞を利用していたのは日本ぐらい、であり極めて珍しい 利 用方法であったことは確かだ)
そのまま鴨川に流れていくのかと思いきや、現在の久世橋通と竹田街道の交差点付近で、直角カーブで西に向かって流れて、最終的に西洞院川の東流に合わさっ ていた。
・・・だが、今回は高瀬川流路検索の為、これ以上の深追いはしないでおく。

この堤防付近で高瀬川旧流路は直進して鴨川と平面交差するが、まずは現流路の流れ を最後まで辿りたい。
現流路はこの鴨川の堤防に沿って、まだ堤防の内側を堤防に沿って流れる。
高瀬川と聞いて、風情のある川というイメージを思い浮かべる方も多いかもしれないが・・・
・・・高瀬川現流路の最下流部は風情もへったくれもない三面コンクリート張 りの、何の変哲もない都市河川である。
それでも他の都市河川とは異なり、コンクリートに模様を入れるなど、それなりの配慮はしてあるようだが・・・
ちなみにこの流域に直に入ると、周囲の壁が高く、基本的にエスケープルートは水門前の遊水地のみとなるので、絶対に入らないように。
鴨川合流部には水量調整用の水門があり、堤の内側には、これまた水量を調整するた めであろう前述の遊水池も存在している。
水門をくぐると、そこはもう鴨川の河川敷きの外、つまり川の土砂が堆積している箇所だ。
現在の鴨川は、陶化橋(十条通)の北で鴨川に合流している。
この近辺が整備されたのは2000年に入った頃からで、それ以前はもっとごちゃごちゃとした場所だった記憶が有る。
それ以上昔となると航空写真を確かめるしかないが、ここよるもっと南西の、陶化橋のわずかに北で鴨川に注いでいたようだ。
だが皮肉にも、その水門のある対岸には東高瀬川の源頭部、すなわち鴨川を平面交差 した高瀬川が流れ込んでいた場所だ。
今では綺麗に整備された堤防、河川敷はこれまた2000年以降の河川敷の改修によってだ。
・・・・え?、平面交差がわかりづらい?
では
これでどうだろう?
かつてこの付近は鴨川が大きく蛇行を繰り返していた場所の一つで、
その広がった鴨川の幅を利用して高瀬川は鴨川の流れをうまく使い、平面交差を行っていた。
そして、今の十条通にかかる陶化橋の付近は西側に鴨川が蛇行しており、現在の西側堤防付近もかつては流れの中にあった。
だが皮肉にも、その水門のある対岸には東高瀬川の源頭部、すなわち鴨川を平面交差した高瀬川が流れ込んでいた場所だ。
わかくさ児童公園。
現在では入り口から望むと目の前に鴨川が見える、大変に立地の良い公園だが、かつてはここを毎日多くの高瀬舟が行き来した。
水路の「水」の字さえ感じさせない公園だが、それもそのはず、普通に見ていれば完全に鴨川と東高瀬川の合流点であった面影はない。
しかし、駄菓子菓子、入り口の通りを十条通り方向へ歩いてみると・・・
いや・・・・絶景かな絶景かな・・・。


堤の高低差は、そのままかつての地形の高低差の名残ではないだろうか?
東高瀬川の源頭部分に近かったおそらく水量調整用の水門跡だろうか?
画像右下に跡が残っていた(2015現在)
おそらくこの流路跡の高さが、かつては鴨川の河床の高さだったのだろう。
度重なる水害で鴨川の底が掘り下げられ、1935年の水害では鴨川の流れさえ改修されている。
その貴重な生き証人、東高瀬川現流路の源頭付近
だが・・・この扱いはあまりにもぞんざいじゃないかい?
石垣が残っているものの、河床部はフルコンクリートでもう二度と水を流すことはないことを示している。
まるで、七条下流部の高瀬川にそっくり。
せめて「ここに東高瀬川の源流が存在していました」とかの説明を示す看板をつけてはどうだろう、京都市さん。
これでは、これではこの遺構がかわいそうだよ、ほんと。
そしてこの先に被さってきているのが十条通と、近年伏見稲荷の地底を穿った稲荷山トンネルへ向かうインターチェンジ道路。

しかしここで思いもよらないものを地図上で見出してしまった。
十条通りの南側で、橋のたもとで川が分かれとるやないか・・・!

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