高瀬川(2011-01-26)



みなさまお久しぶりです。

川の行方を永らく更新できませんでした、管理人代行のりこっちです。

いろんな事がこの間ありました、そのあたりは追々書いていきたいと思います。

私も管理人と同様に京都市内を走り回ります・・・時々リクル−トス−ツで走り回っています。

そんなおり、管理人がレポ−トしていた高瀬川に異変が起こっていましたので書いて欲しい、ということでしたのでレポ−トしたいと思います。

京都市の南側、七条通り、その鴨川沿いに一本の河川が流れています。

高瀬川・・・かつて江戸時代に住倉了以・素庵親子によって開削された京都の水運大動脈。

しかし、近世に入り、近代化の波が押し寄せると、時間のかかる水運は敬遠され遂に大正時代に水運の廃止。

永らく河川はそのままになっていたものの、2002年、ついに河川改修を受けて七城通からしばらくして屈曲した流れから、屈曲部を廃し、直線で流れる流路へと変更されました。

その結果、旧流路はそこにあれど水の流れのない状態が続いていました。

そう・・・たまたまこちらに足を運ぶ機会がなかっただけ・・・

その間に・・・

河原町七条から少し東に行けば高瀬川はあります。

かつてのように水運に使われるわけでもなく、ただ水を通じさせているのが現状です。

水量は不安定で、乾燥した冬や、夏には水はほとんど流れず、雨後にはそこそこの水量が流れる河川。

かつてはこの河川に高瀬舟が1日100艘も行き来していたとは思えないほど、寂寥感のある河川です。

河川の風貌的には、両岸をコンクリ−トで固められたごく普通の都市河川・・・といいますかなんて言うんでしょう、栄華の時期と比べれば確かに寂しいと申せましょうが、河川におりる段差や明らかに地元の人がおいたであろう木橋があったりと、それはそれで「いい河川だな−」とにんまりするのりこっちでした。

この場所が河川の分岐点になります。

左側に流れていくのが当然の事ながら「現流路」で写真前方に流れていくのが「旧流路」になります。

かつてはこの場所で屈曲した流れになっていましたが、2002年の河川改修で直線流路へと変更されてしまいました。

新しい「命」を受けて生まれた「源流路」と役割を終えて眠りにつこうとしている「旧流路」の接点。

新と旧が交わる特異点。

作られたコンクリ−トの護岸は高さこそ高くはなく、わずか数mを隔てているだけなのに、そこには二度と取り戻せない光景がありました・・・

橋を渡り旧流路沿いに進みます。

何というか・・・乾いた風が吹いていきますね・・・

というか実際寒いんですってば(ToT)京都の冬は寒い!。北海道や東北の方が来られても「京都って寒いんですね−」と声をそろえるぐらい寒い。

で・・・何でこんな日に私はここにいるんでしょうか・・・管理人がレポして欲しいと連絡してきたのですが・・・。

河川の底に吹く風も冷たいものなのでしょうね、きっと。

白くコンクリ−トで三面を覆われた高瀬川旧流路。

河川て水が流れないでこのように整備されると・・・まるで道ですよね、これを現道の高さまで上げれば2車線の道路の完成・・・なのですが河川管理者はそれは行わずに放置プレイ。

かかっている名もない橋。

けどなんて言うんでしょうか・・・いろいろと痛みが見受けられるけど、永らく使われていなくて汚れているけど・・・聞こえるんで。

「いや−・・・わしゃ満足じゃよ・・・」って。

風雪に耐えて、過酷な京都の「酷暑」に耐えて幾年月・・・いろんな光景をこの橋は見てきたでしょう・・・水のある河川を渡るためにかけられたこの橋も、なんと河川自体が水を通さなくなるとは思ってもみなかったでしょうが・・・。

そして、やがて来る最後の時に、この橋は何を想うのでしょう・・・

分岐点と流路の先を見る。

ちなみにここまで京都駅から自転車であれば5分もかからない位置、徒歩であっても10分かかりません。

そんな京都の表舞台のすぐ隣にある廃河川・・・たまらなく好きです、えへっ^^

そう言う意味で、この高瀬川が現役であった頃、七条には「内浜」という荷揚げ場がありました。

現在で言うところの「埠頭」でしょうか。

高瀬川は「時間制」で船の流れが異なっていた河川で、ある時間までは伏見側からの「上り」の船が船を引く引き手の「ほ−いほ−い」という声とともに京都にやってきて、ある時間からは下りの船に切り替わる。

そんな光景はもう過去に消え去ってしまった・・・

そして、河原町通りと交差する地点までやってきました・・・・・ぁあ−−−−−−−−−−−!!

唖然、呆然・・・なんとその先の高瀬川が・・・・ナイっ、どう見てもない、なくなってる・・・というか河川自体が消滅している。

いや、ちゃんと架かっている橋は現役なんですよ・・・ほら、「高瀬川」って書いてある親柱が建ってる・・・新しすぎるけど。

あ−・・・これが管理人がレポ−トしてきてくれって言った理由ですね〜・・・

管理人がこの高瀬川旧流路をレポしたのが2007-01-03、今回私が現地に行ったのは2011-01-26。

4年の間に大きく河川が変わった・・・というかここまでやるのぉ?完全消滅ですよね?これって

しかもなに?この「ふれあい橋」っていうのは?

何とふれあっているんでしょうか?、川とふれあうというのであれば川自体が消滅してるんじゃ・・・。

それよりこれ!!

川がなくなってますっ!!

ないですぅっ!!!

管理人が撮影していた写真が左、今回私が撮影したのが右

河川どころか、町並み自体がなくなってる・・・

残っているのは手前に写っている木、そして一軒家・・・。↓

しかし京都市もここまでやるとは・・・びっくりです、ホントに跡形がないし。

更地になった高瀬川旧流路・・・ここに川があったと思えますか?私は過去を知っているので川の流れを見ることが、この更地にトレ−スする事が出来ますけど、何も知らない方がここに来ても、もはや河川など考えも付かないでしょう。

あのコンクリ−トの護岸も、底面も、家も、ほとんど総てが消え去った・・・

なんと言うか、悲しくなりました。

せめて何か配慮があってもいいものと思うのですが・・・。

反対側に回り込んでみましたが、当然何も残っていないわけで・・・。

寒い京都の地で、よりいっそう寒さを感じさせる光景が広がっていました。

かつて通った道も、町並みも、護岸も、路地裏にいた猫ちゃんたちも何一つ残っていません・・・(ToT)

ここで西南西に屈曲した高瀬川は再び「s」字カ−ブして南東方向へ流れるのですが、現在、川跡はなく立っているのは↓

川や道路を美しく・・・って川自体がありませんよ

そう・・この看板もずっと前からあった・・・そして皮肉にも残った。

川はなくなって、看板だけは残った。

ここには何が出来るんだろう・・・ふとそう考えた。

これだけ更地にして・・・・だとしたらおそらくマンションかな?

少なくとも公園にするのだったら、川跡も利用すると思うからおそらくマンションだと思う。

こうして、ここに川が流れていたという記憶は消えていく。

皆の記憶から消えていく。

おお・・・親柱君・・・って君、確かこの建物の前になかったっけ?、ここだった??君のいた場所?

前に見かけたときはこの建物の前だったような・・・けど、変わらず記念碑的な扱いを受けているから、私はうれしい^^

ひどい場合は河川が流れていた形跡すら総て消え去っていることがあるから、こうやって残していてくれるのは大賛成です^^

おそらく、北側がこうやって整備されたと言うことは、南側の残っている部分もそう遠くない将来、確実に整備されるでしょう

けど、私みたいな偏屈?!^^な人間がいる限り、記憶は風化しても、記録することが出来ます。

仕事がとっても忙しいけど、こういったことを調べるとき、ごまめの歯ぎしりのような感覚になるのと同時に、私はとても癒されます。

仕事には仕事の充実感が、そして、こういった河川レポ−トには河川レポ−トの充実感が、それぞれ種類は違えど、得られる重複感は似通っています。

旧流路でわずかに残った箇所。

かつての栄華と、現在の周落。

もはや時間は取り戻せないけれども、その日が来るまでここにある存在

「消えゆく河川に鎮魂歌を」


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