京都府京都市 堀川分流 四条川 2008/07/15改稿 第二版
国土地理院 航空写真 整理番号 CKK-74-15 地図番号NI53-14-6 撮影コ−スC7
写真番号12の一部を切り取り画像処理を施した。
原図はこ
ちら
ここをかつて川が流れていたのか?。そう思えない現実が広がるここは、京都市中京区、堀川四条交差点である。
ここを、かつて二つの河川が流れていた。
ここを南に向かって南流する堀川。その流路は、およそ1200年前の平安京造成当時からそんなに変わっていないと聞く。
そして、その堀川に堰を設け、西に向かって流れていた堀川の分流、四条川である。
だが、無情にも現実は川など無かったように振る舞っている。
それもそのはず、堀川通りは堀川を暗渠化して造られた、京都の中央を走っている幹線道路なのだから。片側4車線である。これは周りの昔ながらの路地、小路
からすれば破格の広さである。
堀川のレポ−トで詳しく述べようと思うが、堀川の暗渠化は早いところでは戦前から行われ、この辺りは後期の施工となる。
角にカメラ店、信号を渡って北側にはコンビニエンスストア、なんと銀行の下に入っている珍しい形態である。
この四条川の詳細を目にしたのは、”西院昭和風土記”と言う本の中で見つけた。
はっきり言って、名前だけの存在でしかなかった四条川が一気に現実の存在として感じられた瞬間だった。
実際に河川として流れていた距離はそんなに長くない、また、西七条村と西院村の要望で堀川から大宮の区間は早々に暗渠となったらしい。
また、いろいろな河川との合分流をしていたのも四条川の特色だろうと思える。
千本四条付近で、西高瀬川と合流、また西大路四条東で堀子川と分流、そして四条西院付近で芹川とも交わり、そのまま西流し、現在の西小路辺りで紙屋川(天
神川)を潜り養老田川と合流していた。
もう少し詳しく見てみよう。
先ず最初の分流地点だが・・・
・四条川は四条通りの北側を流れ、四条堀川に堰があった。
四条通りは大正15年に拡張されるまで、現在の半分の広さで、高低差もかなりのものだったようだ。とある本の中に御輿を担いで練り歩く写真があった。場所
は天神川から四条通をのぞむ、とあった。
当時、西院より西には二つの坂があった。天神川(旧流路)にかけて一の坂があり、それを越えると今度は御室川(旧流路)にかけて二の坂と言うふうに。西院
より西に物資を運搬する場合は、この坂で大変な苦労があった。
と、西院風土記の中から少し抜粋して追記してみた。
けどこの写真凄いよ。だって、あり得ないほど田畑の真ん中だし、傾斜もあるし・・・。これが西院だとはにわかに信じられないぐらい。
そして分流後、そのまま地上を流れていたのかと思いきや・・・
・西院村、西七条村の要求で、堀川より大宮までを暗渠とし、大宮より四条川と名付ける。
西院村、西七条村とは旧い地名ではあるが、地名自体は残っているので、何処の村かわからない、と言うことはない。
言えることはこの二村以外にも用水として流域の地域にとって重要であったと言うことだろう。
この辺りは壬生村もあり、水については困らなかったと言われるが案外そうでもないらしい。
で、そのまま暗渠より明渠となり、西へ流れていたのかと思いきや・・・。
・千本四条で西高瀬川を合流、四条通りの下を流れ、南側を沿い流れ、堰をして西へ流し込
んだ。
この辺りは宅地開発が急速に行われた地区でもあり、四条川はまだ四条通の北側をずっと流れていた。千本通りに西を南流してくる西高瀬川をその辺りで合わせ
ていた。
南側を沿い流れ、堰をして西へ流し込んだ。と言う記述はおそらく新道通りのことを指していると思われる。
今の新道通りの西側で堰を造り、ここから南へ流し、その川の名前を堀子川として今の春日
通辺りまで南側を流れていた。
堀子川というのは、正式には川の名前とはなっていないが、定義されているのはこれらの文章が指し示す堰から南の部分、それから今現在では石ヶ坪の西側、か
つてはそのまま南流して東海道本線の南で天神川と水を合わせていた河川である。
だが、西高瀬川の流路がかぶってしまっており、実際欄干の親柱には”堀子川”と書いてある橋も何橋かは見たが、今のところは西高瀬川に吸収されてしまって
いる。
しかし、この記述で堀子川に水を分けていたことが分かり、実際の位置も特定できた。
四条通の北側を西に流れ、中ノ橋通りで、また南側に流れ込んだ。昔の紙屋川(天神川)の
下を流れ、養老田川と合流し、更に西に流れた。
・・・西院から西は蛇行して流れており、拡張前の四条通を器用に南北に流れていたようだ。そして、サイフォン方式で紙屋川の下を潜りさらに西流。
紙屋川は天井川であり、民家よりも高い場所が河床となり流れていたと言われている河川である。また都市のど真ん中で河川同士の立体交差である。
養老田川と合流し、更に西へ流れた。であるが、これもだいたいの位置が分かる。
現在の西小路付近を流れていたのが紙屋川であり、その西を流れていたのが養老田川である。
要はこの2つの河川、養老田川と合流し、更に西に向かって流れていたわけだ。
そして、そのまま西へと流れて、最終的に南へと屈曲、再び紙屋川と合流する。
・昔は嵐電西院駅の線路の下を流れ、高山寺(現・西大路四条北西角)辺りでは土手の松並
木の南側を流れていた。
さすがにず−っと線路の下を流れていたわけではないが、現在の嵐電西院駅付近を横切っていたようだ。
そして、高山寺の南側には土手があり、その松並木の生えた土手の南側を流れていた・・・って、土手があったのか?!。
現状からはとてもではないが想像も出来ない。更に松並木などと言うともう・・・・。
また、この頃は西院への主な道は四条街道(四条通)ぐらいしかなかった。現在ある西大路通は昭和8年以降に造られたものである。
土手も何もこの西大路が造られるときにおそらく地形が改変されたのだろう。地形的痕跡はあるが、河川としての遺構は全く残っていない。
景観についても語られている部分があったので、記してみたい。
四条川に舟が通っていたという話は、大正時代にはそんな風情はなかった。堀子川付近(昔
は高橋)辺りから南側を流れた。
これについては更に詳細な語があって、
・四条川も、明治から大正初期までは大変に美しい清流であったが、年々壬生辺りに工場が
増え下水が流れ出し、大正末期には染めの色で染めたような川色になった。
・・・恐らく明治から大正の初めまでは、まだまだ清流であったのだろう。が壬生辺りの工場が排出する下水が四条川に流れ込み、大正末期には染め物で染めた
ような川色になっていたようだ。
御前通りから仲間町の辺りまでは人家の前に四条川の橋が架かっていた。仲間町辺りから四
条通の南側に立ち並ぶ人家の裏を流れていた。
現在の四条通は先にも書いたが、拡張されるまで現在の半分の広さであった。その北側に四条川は流れていた。
記述はまんま都市河川であると言うことだ。つまり、先にも述べたとおり、工場の排水などが流れ込み決してきれいな河川ではなかった。
で、西院より先はどのように流れていたか?。
天神川に流れ込んでいたのだろう、と仰るかもしれないが、現在の天神川が造られたのは昭和10年の京都大水害以降であり、現流路が完成した昭和19年以前
は現在の天神川自体が存在していない。
西院より西となると、御室川の旧流路しかなかっと思われる。
実際そこまでは流れてはいなかった。養老田川を合わせた後に西流し、西院安塚町辺りで南に向かい屈曲。更に理解不能な屈曲を交えつつ、最終的に西院清水町
で先程サイフォンで潜った天神川旧流路と合流する。
で、最終的に四条川はどのようになったのかというと
・四条通りが拡張され、地下鉄工事が始まるまで存在していた。
四条通りの拡張は大正15年であった。そして地下鉄が開通したのは記録では昭和6年3月31日。恐らく昭和の早い時期に地下鉄工事と四条通拡張のために、
西大路四条まではそうそうに暗渠化された可能性が高い。
しかし西院より西側、四条通の拡幅が行われたのは昭和20年以降であり、この地域に当たる場所、昭和21年撮影の航空写真でも未だに地上を流れている四条
川を確認できた。
そして今現在でも、養老田川と四条通の交差する場所に、暗渠とし
て四条川が残っている。
話を元に戻そう。
今は四条堀川の角にいる。・・・はっきりと言って河川の跡など見あたろうはずもない都市のど真ん中である。車は幹線道路の交差点であるため、かなり多く、
信号の間隔も長い。
西に目をやると、直ぐそこに阪急の大宮駅と、前に広がるタ−ミナルが見える。
これまた、かつて京都市電が走っていた時代にこの大宮から梅津までトロリ−バスが走っており、あのタ−ミナルはその転回場でもあった。
堀川から僅か2−300mで大宮に着く。
この大宮もまた非常に交通量が多い。
このあいだなんかバスが5台ぐらいバス停前に停まっていて、思わず、
”壁!”とうそぶいてしまった。(誰ですか、地獄の壁なんて言っているのは)
また嵐電の四条大宮と阪急の四条大宮とが存在しているので、乗降客も多く、その乗降後の足となるべく多数のバスが走っている。
さて・・・・川の跡なんてまるっきり存在しない。辺りはビルが乱立しており、非常にてぜわしい。
信号の向こうにあるのが、嵐電、四条大宮駅である。
で、視線を移して北側にあるのが阪急、大宮駅。
この区間は既に関西初の地下区間として着工しており、地下駅となっている。
また大宮通が細くなりそのまま北へ。交差している4車線の通りは後院通となる。が、その後院通が京都の中枢部では珍しく斜めに通っているため、結構煩雑な
感覚がする。
大宮を超えると・・・・至って普通の二車線ずつの四条通が現れる。
だが、一筋路地に立ち入ると・・・・
こんな風な町並みが残っている。
何というか、時が止まっているかのような感覚を受けた。しかも南には四条通が通っているのに静かだ・・・。ここに夕日なんかが射してこようものなら、も
う、大○麦焼酎 二○堂のCMが始まるのじゃないかと思いましたよ、ええ。
路地を後にすると、一路西に、四条川が流れていたであろう場所に沿い、進む。
京都市の良いところは、昔の通りがかなり原形を留めて残っているところである。戦災をほぼ逃れているため、都市開発のしにくさという点でも有名であるが、
こういった昔の通りがそのままの位置に残っていることだ。
続いて坊城通りを過ぎると、徐々にだが、両側の家屋が低くなり始める。
・・・・新世界って・・・・何?
こういった家屋も存在し始めるところで千本通りを過ぎる。
そして、ここで四条川は西高瀬川と合流・・・していたはずだ。
どちらにせよここでも四条川は完全にその姿を消しており、今はただ西高瀬川があるのみである。この西高瀬川でさえ、幕末から明治にかけて開削された新しい
河川である。かつては西からの水運の要として造成された河川であったが、水運の役目というものはとうの昔に終えている。
その名残として、三条壬生の辺りには、材木店が残っている。かつて、水運で材木を運んだときの名残であるように思われる。
その西高瀬川でさえも都市河川となり、僅かの水が流れる河川になっている。いや、今後の状況次第によっては大幅に変貌する可能性があるが・・・。
ここで西高瀬川は四条通を潜って通過し、間髪空けずに、嵐電の軌道の下を抜ける。
かつてはこの位置に河川はなかったのだが、四条川が暗渠になった後に流路の変更があったのだろうか。
そして、西側に向かい、嵐電の軌道沿いに流れていく。ここは西高瀬川として記述したい。
JR山陰線の高架を抜けると、先に背の高いビルが見え始める。あの辺りが西院になる。
淡々と通を通過していく。左側(北側)の巨大な建物は日本写真印刷の工場である。
創業は1929年、設立は1946年。京都本社であるから、創立時から恐らくこの場所にあると思われる。
創業時にはまだ四条川が敷地内を流れ、地下鉄工事や、四条通拡張工事の真っ最中であったのだろう。
次の通りは七本松通りと交差する。ここら辺も本当にマンションが多くなった。この辺りまでず−っと北側を流れている。
そして、西新道通りと、交差する。
西院昭和風土記内でも記されていた場所がやってきた。
ここで漸く、私は四条川の遺構との対面を果たした。
続く
検索河川レポート一覧に 戻る