島田川(2)2008/01/01
え−皆様、あけましておめでとうございました。
今年も京都の河川をよろしくお願い致しますりまする〜。
さて、新年の挨拶はこれぐらいにして早速本題に入らせていただきます。

場所は久世橋通新千本。奥に見える通りが天神川の旧流路である。
この辺りも天神川が蛇行して流れている様子をどういう時代の地図からでも窺うことが出来る。
と言うのか凄いぞ、この蛇行具合。
これ、ホントに今の京都市からは想像できないぐらい。
今は西高瀬川と名前を変えている川もかつては天神川という暴れ川だった。
”京都水ものがたり”の中にも出てくる記述だが、この地域は常に水害の危険に晒され、また苦しめられてきた地域であった。
とある。
この地域を見て回って分かったことは確かに、家が道路より高く石垣等の上に立っている家もあることだ。
これがかつての水害を受けていた頃の名残なのだろう。
高い家では1m近く路面より上に立っている家もあった。

このように住宅地の中に入って行くのだが左側の道路半分に、なにやら補修したような跡がこれから先、ずっと付いている。
廃川化工事の時に川跡でも埋めたのだろうか。
この辺りが地形的には一番低く感じた。

ここが天神川の川跡になる。はっきり言って、何処に?と聞かれそうなので、写真を見ていただきたい。
手前の旗の後ろにあるコンクリ−ト製の橋、その奥に続く工事用のバリケ−ドのある部分が、かつての天神川の跡になる。
無論、川幅はこんなに狭くはなかったはずだが、流路を付け替えた際の名残かなと思っている。
付け替えられた天神川は写真の右側100mくらいの場所を流れている。
西高瀬川と名前を変えて。
いやはや、天神川というのは、こういうあり得もしない場所で名前が出てくるからすごい。

流れとしては相当に縮小されていたようである。
と言うのか、よく残ってた、と言えるだろう。

石垣も残っている。
結構新しい気もするのだが、どうだろう。

橋もそのまま置いてけぼりを食らっていた。

ここが左から流れてきた天神川と写真奥から流れてきた島田川が合流していた地点である。
明治、大正期の地図では手前のレポ−ト区間に蛇行した天神川が流れ、この場所で合流していた。
しかし、これ、確かに洪水が起こったら相当まずいような気がする。
だって、天神川の水位が上がればこちらの水位も上がって排水できなくなるし、他に水が逃げる場所もないし・・。
だからこそ島田川排水機場と言うものが必要だったのだろう。
川は埋め立てられて跡だけが残った。
この橋は、誰が次に渡るのだろうか?。
使われることは有るのだろうか?。
おそらく、無い。
川が川として存在しなくなったのだから、只単なる遺構である、これは。

完全に見渡せない写真で申し訳ないです。
これ以上右を写すと民家の軒先が入ってしまうためここでカットした。
これ、右側にも、柵が少し続いているのだが、巾はけっこうある。
無論これだけ全てが河川であったのではなく、護岸なども入れて考えないといけないが、それでもそこそこはある。
 いや、これ、航空写真を見るとどうやら真ん中に微かに見える白い柵のようなもの辺りまでが川で、その横に、どうやら排水機場があったように見える。
やっぱりこんなに広い幅で川は存在していなかったようだ。

いきなり場所が飛んで申し訳ない。
今度は島田川としての川跡に光を当てる。
上鳥羽小学校の北の通り、民家と民家の間にこのような川跡が残存している。
だけどこれ、明らかに柵があって、入るな状態なので入りませんでした。
結構車通りもあったし。
反対側は・・・民家の軒先です(涙)。
川的には規模というのか、巾も小さかったのだろう。
この辺りがおそらく東からと北からの流れが合わさっていたであろう合流点だと思われる。
ここからは河川跡に赤いペイントを施しておく。
南に向かって川は流れていた。南を見ると・・・

このような細い通りがある。
これが島田川の名残りそのもの。
完全に道になっちゃってました。
この辺りで河川の跡と言えるべきものは上鳥羽小学校の橋脚とそれに続く廃川跡のみのようだ。

このように上鳥羽小学校に続く道である。
右の写真の標語はこの地区で色々と見かけるのだが、中には意表をついた物があるので後で紹介したい。
このコンクリ−ト壁は現流当時の護岸なのだろうか。
少なくとも川の流れていた場所まで同じ色であることから、廃川後、作り直されたものかも知れない。
同じ小学校を流れる河川としては崇仁地区にある崇仁小学校の高瀬川現流を挙げることが出来る。
生物生育環境としての範囲はそんなに大きなものではないが、立派に川を校庭の片隅に導き入れて、学習の場としている。
しかし、この島田川は残念ながらそうはならなかったようだ。
川は埋め立てられて、その姿を消した。
その違いは現流路か、そうでないか、そして時代の意識の違いによるものかも知れない。
高瀬川は現在も流れている河川であり、また比較的と言ってはおかしいが、水害を起こすような河川ではなかった。
ところが島田川は先程の説明でも述べたとおり、島田川排水機場と言う設備が必要な川だったのだ。
川を埋めると言うことになれば、これ見よがし。
誰も反対などしないだろう。

さすがに敷地内にはいるのは何のアポも取っていないので断念した。
金網越しに橋の姿を望む。
何故望遠でもっと拡大しなかったのか?。
それはこう言うときに限って望遠レンズをもち忘れたせいである。

学校入り口の南側にまわると、このような形で川が流れていたようである。
これまた完全にアスファルトとコンクリ−トによって塞がれていた。
あまり書くことはないが、この後ろ側のお宅は非常に強固に組まれた石垣の上に家屋を建てていらっしゃった。
この辺りの洪水の記憶を留めている生き証人とも言える。
このように川はこの建物を回り込むようにして流れていった。
現状で残っている遺構はこの先の空き地と上鳥羽小学校内の橋梁である。

そして、道の対面に見える工事用バリケ−ドが川の跡になる。
先程、天神川の旧流路から見た先から、今度は撮影する。

まっすぐ中央にある空き地、草がぼうぼうであるが、これが島田川の跡になる小さな河川だったようだ。
深さは測れないが、深くはない、ただ、おそらく、浅くもない。

島田川河口側から北をのぞむ。
手前の畑が斜めに切れているのが、おそらく河川があった境目ではなかろうか。
ここから直ぐ西側が合流点となる。また今回も、全く水の流れを見ることは出来なかった。
残念と言えば残念ではある。

写真の中央部、木の辺りが島田川と、天神川の旧流路の合流点辺り、そして、赤いマ−カ−で書いたのが、島田川があったであろう位置。
このバリケ−ドは廃川化工事を行っていた当時のままなのだろうか?。
少なくとも、このほったらかしの感じからすると、あながち違うとも言い切れない。
少なくとも、ここ何年も人が手を付けている様子はない。
いや、もしかしたら何か建てるのかも知れない。
その事前準備なのかも知れない。
どちらにせよこの場所が何かに使われるとき、あるいは建物が建つときこそ、島田川が完全にこの世から忘れられるときだろう。

合流点があった跡の堤防上から南を見る。
前の河川は西高瀬川。
ここで、島田川は水を合わせていたが、今はその面影もない。
何かそれらしい遺構でもあれば、分かるであろうが、ここには何一つない。

現在の西高瀬川下流域。
普段は写真のように河床の底に水を流すのみだが、市内で強雨があった後には突然水位が上がる。
複合型下水道から流れ込む大量の汚水がその原因なのだが。
 かつて流れていた天神川は河床が高く、屈曲部では、毎年洪水を引き起こしていたと、京の水ものがたりでは書かれていたが、その河川でさえ、人間の力で造 り替えられた。
牙を抜かれた河川は、コンクリ−トで固められ、水源さえも絶たれ、水処理場の処理水を合わせるまでは全く水もない河川へと変わってしまった。
上流部は七条の屈曲点近くに二箇所、おそらく合流式下水道の吐水口が有る。
強雨後はその吐水口からものすごい量の汚水が出ているのを見たことがあるし、写真に収めてある。
本当に都市河川になってしまったのだな、と思った。

対岸から撮影した。分かりにくいかも知れないが、若干他の護岸と異なるのがお分かり頂けるだろうか?。
後ろに立っているのはNTTの電波塔であり、現在の場所を示すために入れた。
この場所に確かに川はあった。西高瀬川と合流していたのだ。
しかし、その場所は今ではコンクリ−トに閉ざされた。
川は、この世から消え去った。島田川排水機場も川と運命を共にした。
京の水ものがたりでは”一分間に59t汲み上げ可能なディ−ゼル式ポンプ2台も島田川と共に役割を終えた”とある。
僅かに残された埋め戻し後、そして小学校の中に残された橋梁だけが、川の残していったものだった。
しかし、かつて合流していた天神川でさえ、今は牙を抜かれた。
いや、天神川自体、この場所へは流れてこなくなった。
河川の付け替えによっ二条以南の天神川自体廃河川になってしまった。
川がもしも、話すことが出来たのならば、お前を埋め立てると言われたとき、どのように言葉を返しただろう?。
恨み言を言うだろうか?。
いや、たぶん、現代人の我々を嘲るであろう。
昔の人間の方が賢かったと。
自然に逆らわず、我々の力を見くびらず、そして自然に忠実に生きていたぞ、と。
我々は、こういった水害などを起こらなくする事で、何か別のことを失ってはいまいか?。
そう、自問自答していた。
いずれにしろ、ここで島田川を辿るレポ−トは終わる。
こういった小河川は今、書いておかないと、何時無くなるか知れたものではない。
だから書いた。けど、遅きに失したと言う感想である。
息の根を止められてからの河川レポ−トになってしまった。

島田川(完)

・・・そうそう、さっき言っていた面白い看板なのだが、この地域には結構存在している。

左は西洞院川の調査時、鉾立公園にて出会ったもの、右は今回の調査終了時、西高瀬川に沿って北行しているときに見つけたもの。
最初見たときは思わず”・・・・はぁ!?”と思っちゃった。
いやね、最初の三行は分かる。
”世界一美しい 上鳥羽の街を 作りましょう”っていうのはね。
全然問題ない、ただ、いちいち世界一という語句を使わなくてもいいような気はするけどね。

で、それに続く四行目は、何でいきなり”目撃者は110番へ!!”なわ け?。
と言うか、何を110番するわけ?。
世界一美しい上鳥羽の町を作っている人がいたら110番するのかよっ!!、と一人で突っ込んじゃった。
少なくとも、ちゃんと110番通報するタ−ゲットを書いて欲しかった。

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