島田川 2008/01/01

国土地理院 航空写真 整理番号CKK-74-7 地形図番号NI-53-14-7 撮影コ−スC4 写真番号2を切り抜き画像処理を施した。
上の航空写真は昭和49年撮影のものである。
都市化の波が押し寄せている当時の状況を表しているが、かつて、この地域に島田川と言う河川があった。
破線の南西部、屈曲の先の辺りである。
 この辺りは京都市の南部に当たり、桂川、西高瀬川(天神川)、鴨川が徐々にその流路を近づけている地域でもある。
明治期や大正期の地図を見ると、この辺りはどうやら一面の田畑であったようだ。
所々に道が通り、また河川も現在とは少し違った流れをしていた。
その赤い破線が川の流路を表しているのだが・・・、これは大正時代の川の流れを無理矢理書いたものであって、実際はかなりの誤差があるかと思う。
 流路を辿ると、どうもこの島田川は、西洞院川の末流であるようだ。
西洞院川は東寺道で東流と西流が分流していた。
東流はそのまま南に流れ、南区の上鳥羽鉾立町で西に向かって屈曲。
昭和20年頃までは近鉄線を潜った辺りで再び南に向かって屈曲して近鉄線に沿い流れて鴨川と合流していた。
西流は徐々に西に向かい流れ、九条通りを越えた辺りで南に流れ始める。
そして、近鉄線の東側を沿い流れて、現在の十条駅の南側辺りで近鉄線を潜り西へ流れ、そしてまたすぐに南へ。
おそらくこの辺りの農業用水を集めながら蛇行し現在の京阪国道を東に見ながら蛇行して屈曲、上鳥羽小学校の北側でもう一つの流れを合わせて、上鳥羽小学校 の敷地内を通り西に屈曲。西高瀬川(当時の天神川)に合わさっていた。
 このレポ−トでは西洞院川の東 流の流れを書いたが、西流については書かなかった。
書けなかったという方が正しいのか。
完全に都市化している地域であり、通りの拡張なども施されているので、十条までの範囲内では川跡は認められなかった。
 そして、先に書いてしまうとこちらも破線部の河川跡が残っているか、と言われれば、絶望的である。
この時代でさえ航空写真から川跡を見つけるのは難しい。
現状となると、次のように書くしかない。
コンクリ−トとアスファルトの密林に消滅しました。
探そうにもおそらく河川であった場所の上に住宅やら工場やら商業施設が建ち並び、全く川跡をたどるのが不可能。
その上に、斜めの部分などは特に辿れない。
と言うのか、実際その疑定地に行っても、有るのはビル、家屋、道路である。
ただ、今回書く島田川は、川が埋め立てられた跡がかなり鮮明に残っている例である。
で、正直レポ−トできる範囲は300m四方ぐらいだろうと。
正直、これだけしか川跡は見つけられなかった。
但し、時代は古いが明治期のこの近辺の村々の様子から分かったことに、水路の数が半端じゃない事が挙げられる。
”史料 京都の歴史 13 南区”から
上鳥羽村
塔森村
吉祥院村
の三村の主な用水路を挙げると・・・。

上鳥羽村
町川溝
南田溝
卯の花溝
岩ノ本溝
神馬場溝
天神川溝
大井手溝
実相寺裏溝

塔森村
所川溝
江川溝
逆川溝
鯉取川溝
大抜キ川溝

吉祥院村
前川溝
西条川溝
長池溝
春日川溝
間川溝
中川溝

はっきり言って、拾い出すのが大変だったよ、これ。
他の地域を見ても大抵、河川と言えば二河川程度、それに橋梁のことが書かれているのに、この三つの村になると、ずら−−−−−と、書かれてるわ書かれてる わ。
おそらく悪水を排すと書かれていた河川以外は、みんな何らかの形で分流し、合わさっていたものと思われる。
水路が張り巡らされていた感覚、と思っていただければいい。
ただ、どれも船運が行われるほどの規模の河川ではない。
実際船運が行われていたのは高瀬川や鳥羽川(天神川の下流域の名称)であり、鳥羽川の項では”船行直に大阪に通ず”とある。
上鳥羽村の地名の中に嶋田と言う地名が有ることから、この地名から、今の島田川は名付けられたものかと思われる。

そして河川については”京都水ものがたり”と言う本の方が詳しい。
さすがにそのまま転載することは出来ないし、やっちゃダメ−。
なのでかいつまんで、記してみたい。
島田と言う名前はこの土地の名前から取られたらしい。
やはり地図から読んだとおりだが、この辺り一面が田畑であり農業用水や細流が島田川に流れ込んだ。
川は宅地化と共に埋め立てられる運命を辿ったが、今でも上鳥羽小学校の敷地内に、当時の橋がそのまま残されている。
しかし、水源を失った島田川は都市下水水路となってしまった。
そして川というのは土地の中では一番低い位置のため、洪水時に氾濫する恐れがある。
かつて西高瀬川と合流する手前に島田川排水機場があった。
1968年に設置された機構は洪水時に西高瀬川から島田川へ水が溢れるのを防ぐための水門であり、また閉じた後に、島田川側に溜まっている水をポンプで汲 み上げて西高瀬川に排水する役割を持つものだった。
しかしこれらの設備も、1997年(平成9年)11月に廃止となり川もこの時に埋め立てられたようだ。
現在、川跡は空き地となっている。
今現在、この文を書いている時点、2008年で丁度埋め立てられてから11年という年月が過ぎようとしている。
正直、川の跡が残っている可能性は非常に低い。
ただ・・・・やっぱり行ってみないと分からない、と言うことで私は走った。
時は2008年01月01日。
元旦、である。


続く
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