京都府京都市 南区・西洞院川(2) 2007/09/12

西洞院川を辿ると言っても、北側の源流が分からない以上、どこかで区切りをつけざるを得ない。
よって今回は大正4年、大正15年当時の地図で川が地上に描かれている地点を境目とした。
その場所は塩小路と西洞院通が交差する地点である。
無論、北側の源流等も調べているので、分かり次第追記する形で記していきたい。

ここがその地点を西側から捉えた写真である。
はっきりと言っておくが川など無い
うん、跡形すらもない。
この辺りは京都駅が誕生して以来の駅前として発展してきた地域である。
古くは、今年2月に閉店し、跡にヨドバシカメラが進出する近鉄百貨店。
旧い名称では丸物百貨店。七条警察署、下京消防署、下京区役所辺りはおそらく、多少の位置変動こそありはすれども、ほとんど不動と言っても良い。
それらとともに、今現在では京都駅ビル等が立ち、さらに今年九月にはビックカメラが駅ビルの増築部分にやってきた。
昔の面影などは、ほとんど残っていないのがこの辺りである。
角にはホテルが建ち、その向かい側には病院の施設が建っている。
向かい側の建物が下京区役所になる。

そこを南に曲がると、西洞院通りに出る。
前に見えるのは右側にハロ−ワ−ク、左側がビックカメラである。
地図上ではここを流れていたことになっている。
が、やっぱり無い。
現実とはかくも無慈悲なものである。
ここから南へ行くと直ぐに道路は終了する。
JRの東海道本線が走っているためであり、ものの見事にここで西洞院通りはいったん途切れる。

しかし、あんまりだぞビックカメラ・・とハロ−ワ−クの警備員。
これじゃ、歩道に自転車を停めて近づくことも出来ないじゃないか。
と言うのか、停めたら直ぐに何か言われそう。
近付いただけで寄ってきそうなので、上の写真で勘弁。
手前が嵯峨線のホ−ム、奥が近鉄線と新幹線、その間に東海道本線となる。

さすがにここを通って、向こう側に抜けるというのは無理っす。
仕方がないので油小路(あぶらのこうじ)を南下する。

この辺りも、この科学技術専門学校(通称 科技専)が出来て、さらに再開発が進んだことで、昔の風景は全くない。

私が幼い頃は、東海道本線を潜る手前の左側に小さな機関区みたいな場所があり、よく入って遊んだものである。
かちかちに固まった石炭等、今でも手元にあったりする。

ちなみに、このトンネルはぎりぎり立ち漕ぎは出来るであろうが、二人乗りをして、立ったらアウト。
天井のでこぼこに頭をぶつけることになる。
車も普通車であれば通行可能であるが、かさばるバンや四駆になるとそれだけで無理。
貨物運搬のトラックなどもってのほかである。

トンネルを潜ると、先に、近鉄京都線と、その上を跨ぐ新幹線が視界に入る。
何というか、この光景だけは全く変わってない。
しかもここは天下の国道一号線と八条通が交差している場所であり、終日車が尽きることがない。
秋ともなると、この辺りでも大渋滞が発生する。
ここが止まれば、堀川通も止まり八条通も止まり、塩小路や河原町にまで影響が出る。

その二つの鉄道の下を潜って、左に曲がると、京都駅の南側に出る。
昔の京都駅の面影が少しだけ残っているのがこの南側である。
八条口の辺りがやや八条通りも膨らんで、夜行バスや、タクシ−のタ−ミナルになっている。
しかし、先日南北自由通路という京都駅の北と南を結ぶ回廊が八条通りを越えて南に延伸されることが決まり、それに伴って再開発が始まっている。
(後日撮影・追記)もしかしたらこの光景が見られるのも、あと少しなのかもしれない。

すっかり整備された歩道と自転車駐輪場。
と、その途中で建物が途切れる箇所がある。そちらを向いてみると・・・。

Zoom in!!
あのトンネル状のものは何っ!?
そして、その背面を向くと・・・

西洞院通が見える。
・・・まさかね・・・。
西洞院川を通水していたトンネルだ、なんて事は・・・・無いよねぇ〜・・・。
けど・・・位置的にはまさに西洞院通の延長線上に当たる。
このトンネルの正体をご存じの方がいらっしゃいましたら是非ご一報いただきたい。
ここから西洞院川は南流していたようである。
しかもその先端部は現在の西洞院通がほぼなぞっているように見受けられる。
*2008/10/22追記
Y・M様より情報をいただきました。
やはりこの隧道が西洞院川が流れていた暗渠跡のようです。
Y・M様、情報提供ありがとうございました。


横のホテルは新・都ホテル。
近年、南側にも新しく棟が建った。
昔は広々とした駐車場だったが。
またここも旧日を思い出すことは難しくなっている。

道は蛇行して南行する。
右側、つまり西側には新たな建設現場が出来、急ピッチで工事が進んでいる印象を受けた。
調べてみると・・・シネコンが建つらしい。
まあ・・・南側は確かに寂れている印象は昔から拭えなかったが・・・だからといってねぇ・・・・。
ここで道は工事現場を右に見ながら、東寺道と交差する。

昔は信濃小路と呼ばれていた通りでもある。
ここで西洞院川は西に向かう西流と東に向かう東流に分岐していた。
のが、おそらくこの辺りであろう。
これから何度も目にするであろう言葉を書かせていただく。
川無いっ!!
西に向かった西流は残念ながら油小路通の拡張や、宅地化の進行によって完全消滅したようである。
航空写真でも痕跡か、と思うものは見つかっても、流れそのものは見つからない。
唯一残っていたであろうものは十条通りの南側より近鉄線の下を潜って堀川に合流していた、と言うか、水を落としていた地点のみが航空写真から確認できた。
しかしこれも堀川が暗渠を上鳥羽口まで延伸したことで、確認する術を失っている。

東に向かった東流は若干の位置の相違こそあれ、この西洞院通の位置に近いところを流れていたようだ。
 に、しても凄いのは古地図で見た位置取りでは京都駅の南側は見渡す限りの水田や耕地であった、ということである。
多分、今の京都駅の高さから見ることが出来れば、南区はおろか、鴨川や竹田の辺りまで見渡せたのではないだろうか。
京都駅からは普通に桃山城が見えることから、天気さえ良ければ伏見の辺りまで見えたかもしれない。
今の町並みからは想像も出来ない話だが・・・
どちらにしてもこれらの河川は大切な生活用水であったと言うことは言える。
飲料に使っていたのかどうかは不明であるが、”田畑ヲ潤シ、悪水ヲ排ス”と言う記述からも決して粗末に扱っていた感じはしない。
前のぺ−ジで下水に使ったと言う記述をして矛盾しているが・・・。
 みなさんはご存じだろうか、九条ネギと言う京野菜を。
その主な産地はこの南区の九条近辺であった。
”写真で見る京都の今昔”だったかと思う。
うろ覚えなので、もしかしたら違うかもしれないが、その写真の中に東寺を撮影したものがあった。
だいぶ引いて撮影していたので、前景にはこの九条ネギを栽培しているであろうネギ畑が写り込んでいる。
西洞院川も養水として使われていたのであろう。
 しかし今現在では十条や竹田辺りまで行かなければ栽培している姿は見られないと言うことであり、”九条”の名前を冠しているわりにご当地で姿が見えない と言う のは皮肉ではある。
川が消え、宅地化が進行すると、次第に九条ネギだけとは言わず農地自体がこの地域から消えていった。
跡には道路が残った。
ここからは東を流れた東流の行方を探ってみたい。
但し、川の疑定地が明らかに家屋と重なっていたり、私有地の中にある箇所は撮影していない。
現在の西洞院通りである。西洞院川の東流はこの通りの東側を流れていたようである。
右にあるのは九条弘道小学校、設立は昭和6年であるようだ。
(写真掲載無し)
どうやら西流はこの校庭の西側の端を横断していたらしいが、全く跡形もない。
徐々に西側に流れていって、やがて九条通りを横断するところで西に梶を切って、東流と離れていく。
ちなみにその先を見てみても松下電器産業の建物が建っており、全く痕跡無しである。

東流は下り、九条通と交差。
昭和初年に拡張されたとあるが、昭和8年の地図を見ると、まさに拡張の真っ最中であったようだ。
京都市にはかつて路面電車が走っていた。
所謂京都市電である。
詳しいことは検索してみてほしい。
その京都市電の九条線と呼ばれる路線もまた、九条通りの拡張と共に敷設され、昭和15年の地図上では、市内の環状線が完成し、その九条線の要ともなる九条 車庫も昭和8年8月5日に造られる。

   今現在では”京都市営バス九条営業所”と言う名称である。
市電の方はどうなったのかというと、昭和53年9月30日に全廃されている。
今、ここに出入りするのはバスのみである。
西洞院川はこの九条車庫の西側に沿い南下していた。
 この辺りも徐々にではあるが古い建物はなくなり、マンションなどが建ち並び始めている。

左の建物は京都テルサ。
う−ん、いつ建ったんだろう?。
この辺りは昔は来たことはあるものの、最近はとんと無い。
九条車庫は分かったのだが、いきなり後ろにでかい建物が建っていてびっくりした。

京都テルサを過ぎると、西洞院通りは住宅地の中に入っていく。
ちなみに九条車庫辺りまでは来たこともあるが、この辺りには滅多に来ることもないので、昔はどういった様子だったのかは分からない。
少し南に走ると札辻通と合わさる。この辺りで、西洞院川の東流は札辻通と平行して2−30mぐらいであろうか、平行して流れ今の川跡よりも東から南下して いたようだ。
行ってはみたが・・・・これ、だめ。
思いっきり工場やら家屋やらが立ち並んでいて掲載できません。
(写真掲載無し)
ここでは現在の川跡のみに絞っていこう。
札辻通りを越えると、道はまっすぐ十条通を目指して南下する。

十条通りを越えると巨大なゴルフの打ち放し場が見える。
京都南ゴルフガ−デンと言う名前の練習場で、設立は1990年(平成2年)であるそうだ。

その脇に建つ巨大な防球ネット。マヂ巨大である。
航空写真で見ると、どうやらここには大きな工場が建っているのが見える。
残念ながら、会社名までは分からない。情報求む、である。
そしてその防球ネットの脇に漸く西洞院川の痕跡が現れてくる。
但し、先にも書いたが、おそらくこの川跡は、大正〜昭和の地図上に描かれている西洞院川東流本来の流れではないと考える。
明らかに札辻通で2〜30m程東へ曲がり通りと平行して、そこから南へ流れ、上鳥羽鉾立町辺りで西に流路を変えているのが見受けられたからだ。
 おそらく何らかの理由で川を廃川とすることが出来ず、どうしても流し続けなければならなかった理由があったのであろう。
そうでもなければ、この程度の河川であれば、あっという間に埋め立てられて跡形もなくなるからだ。
何の理由で残さざるを得なかったのか・・・、こういう形で蓋を被せられながらも川としてはかろうじて、地上を流れていた跡だけを残し、地下に消えた。
きちっともとの流れを探しはした。
が、さっきも言ったけどこれ、明らかにビルと家屋のただ中でしょ?!。
これは無理、辿れない。と言うのか、下手に写真を掲載すら出来ない。
よって、ここでは現在、確認できる東流の川跡を紹介する。
道路が写っている右側、つまり東側、アスファルトと異なるコンクリ−トで覆われた路面。

これが現在の西洞院川の暗渠部である。
おそらく今も、この下を流れているものと思われる。
暗渠部はそのまま南へと続く跡をたどってみる。

航空写真では西洞院川の東流は西へ90°曲がり堀川へと水を落としていた。
その様子は複数の航空写真からも確認出来る。ポジ原盤のようにル−ペで更に拡大してみることは出来ないが、地表から2−3m掘り下げられた辺りを、おそら く3面コンクリ−ト打ちされた擁壁に囲まれて流れていたように見えるのだが・・・

そうそうこの辺りからで・・・え”っ”・・・・・

ぁ〜〜〜〜Orz
遅かったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・\(^o^)/
曲がるとそこには何の変哲もない道路となっていた。
昭和47年から62年までの航空写真ではこの曲がり角から堀川までは明渠で、おそらく水の流れも確認できたはずだが・・・。
・・・いや、正直こうなっているだろうと言うことは、最初から予測は付いていた。
何故なら、堀川暗渠を延伸する際、水を落としている河川をそのまま明渠として残しておくわけがなかったのだ。
さらに近鉄の高架延伸も1990年代終わりに行われており、水を落としている河川の明渠も、おそらくその工事の際に一緒に暗渠化されたものと思われる。
 はぁ・・・・。もはや、西洞院川は二度と地上に姿を現すこともなく、暗渠となってしまった。
堀川の合流点まではもはや目と鼻の先なので行ってみよう。
川は南に水道局や鉾立公園を見ながら、西に流れていた。

今では練習場のポ−ルから、壁の辺りであろうか。
進んでいくと、油小路通に当たる。この油小路も近年、九条通から十条通の間が拡張され、片側3車線と言う一級の広さを持つ道路に生まれ変わった。
私が小さい頃は片側一車線ずつの狭い通りであった。
だが・・・・もはや、そこがどんなふうだったのかすらも思い出せない。
 その場所さえ、そこに何があったのかを覚えてはいないだろう。

さらにびっくりしたのは、その南側で高速道路の接続が出来ていたことだった。
いつの間に・・・
中学生の時期、この辺りはまだまだ田畑が残り、家屋やビル自体はあったものの、数は少なかった。
だが、10年以上という時間の流れは・・・・長過ぎた・・・。
いつの間にか橋が架けられ、高速道路が造られ、田畑は減り、住宅地やビルが建っていた。
ある意味、浦島太郎状態だった。

油小路も立派に中央分離帯を持つ通りで、交通量は多い。
と言うのか、これ、横断するのめちゃめちゃこわいんですけれどっ!。
信号からかなり距離があるから、車、滅茶苦茶とばしているんですけれども・・。

かなり冷や汗をかきつつ中央分離帯に着く。
この通りを横断して、前に見える道の北側を流れ、そして目の前に見える高架となった近鉄線、昔はこの辺りは地表を走っていた。
その線路の下を潜り、暗渠が延伸される前の堀川の新流路に水を落としていた。

油小路を横断すると川の跡をそのまま歩道として使用しているようだ。
正面のポ−ルの立っている歩道が川跡に重なる。

目の前に近鉄京都線の高架。
そして、先に進むと・・・

この高架の下かこの写真の辺りかで、堀川の新流路に水を落とし、合流。記憶では堀川の方が更に2−3m掘り下げられており、鉄の板が護岸として打ち込ま れ、その下を河川が流れていた。そこに、西洞院川の東流は水を”落として”いた。
いやはや・・・何というか・・・残念ながら、最後の最後まで水の流れを見ることは出来なかった。
最後に西洞院川・東流の流路・下流から鴨川合流地点を説明しておこうと思う。
おそらくではあるが、現在の堀川の流路は十条以南のほとんどそのままが西洞院川の西流の流路を使っているものだと思われる。
堀川を辿ると最後は国道1号線の鳥羽大橋手前で鴨川に合流する。
その位置から割り出すと、昔は西洞院川の東流がそのまんまの位置を流れているからだ。
このような河川の改修は昭和10年(1935)の京都大水害が起こり、甚大な被害を被ったため行われた、と言うものが多い。
近いうちに紹介するであろう、天神川の旧流路では、川がある地点を境にまるごと廃川になり新しく流路を設定し、流れを変えたという経歴を持っているものも ある。
堀川でさえも、この暗渠化された流路自体が新しいものであり、昔は九条通りで大きく西に曲がり、東寺の南を西へ流れ今の鳥羽高校の西端で更に南へと流れて いた。
そのような意味合いで、流れは見えずとも暗渠化して残っている堀川や、この西洞院川。物理的には、まだ幸せな方なのかもしれない。
ただ、河川としては・・・・あまりにも寂しい末路である。


都ホテルの横にある建設中のシネコンである。
人は物を造るときには一生懸命に造り上げる。
だが、物を壊すときには、なかなか畏敬の念などにはなれない。
なまじ人の目に付かない物の方がよく残り、人の目に付く物はその形を変えざるを得ないというのは、皮肉ではある。
旧日の流れは既に土の中へ消え、そして水を受けていた川さえも同じく消えた。
もはや二度と日の下を流れることもないであろう。
西洞院川 了

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