京都府京都市 南区・西洞院川(1)  2007/09/12

”さいどういんがわ”では無く、”にしのとういんがわ”です。間違えないように。
 この河川の名前を知ったのはとある書物の中でだった。
読んでいる途中で・・・西洞院通りはその昔、道幅も広く、活況を呈していた通りだった。
現状のような狭い道でありながら、明治の中頃には日本で初めての路面電車が走り、昔から西洞院通りに沿って流れていた西洞院川も埋め立てられて・・・・
・・・・・・・って、川、あったですか!?
 信じられない思いだった。
だって、西洞院通りと言えばそれこそ京都の中心を南北に走っている通りである。
道幅は確かに狭い。が、本当にそこを流れていたのか疑わしい、そう思っていた。
私は図書館で地図を徹底的に探し直した。
その結果、60枚近くの明治から昭和にかけての地図の写しを手に入れることが出来た。
そして、明治から昭和初期の地図を見た。
目が点になった。
・・・・か、川ある、川が在るぅぅぅぅ!!!!
信じられない思いだったが、そこには現実、確かに河川の流れが書き込まれていた。
それから徐々に情報を集めていくと、次のような事が分かってきた。
その昔、平安京が出来た頃、ここには西洞院大路と呼ばれ、幅20mを越える基幹道路であった。
現在の地図上では北端を武者小路通りとし、南は十条通りまでである。
延長、約5.8km。
その通の西側に沿って、西洞院川が流れていた。
時は流れ、江戸時代の鎖国も終わり明治にはいると急速に西洋文化を取り入れ、西洋の国々に追いつけ追い越せと、いろいろな技術を取り入れる。
京都では有名な琵琶湖疎水や夷川に作られた当時では世界最高の出力を持った発電所、そして新しい交通として路面電車・・・。
 その路面電車がこの西洞院川に大きな影響を与えた。
”京都市電が走った街 今昔 沖中 忠順・著 福田 静二・編”から引用してみたい。
”仏具店、法衣店が並ぶ西洞院通の幅は約六間(11m弱)、これでは電車の遠路を片側に寄せないと他の車馬の往来は不可能である。
電車の線路敷は複線で三間余(約6m)である。
道路中央に電車を通し歩道を確保すると自動車は? となる。
西洞院通はかつて西側に川が流れていた。
それを暗渠化して複線敷を確保したという。”
この記述は北野線の途中、”西洞院六条”での記述である。
と言うことは、この北野線の生い立ちがおそらく西洞院川が暗渠となった時期と重なると思う。
北野線の歴史を調べると・・・
1895年9月に堀川下立売から堀川中立売まで、中立売線として開業。
1900年5月 堀川中立売から下ノ森まで開通。
1901年12月 堀川下立売から堀川三条まで開通。
1902年10月 堀川三条から四条西洞院まで開通。
1904年12月 四条西洞院から京都駅まで開通。
1912年5月 下ノ森から北野まで開通。
とあり
最終的に
1961年8月1日 廃止、とある。
おそらく1904年、明治37年頃かおそらくそれ以前には暗渠化されたものと思われる。
その証拠に、大正4年、大正15年の地図には西洞院通には市電の線路敷きが表示されているだけで、川の表示は、西洞院七条より南に存在するだけ、となって いる。
では、川が表示され続けている京都駅より南側ではどうなっているのか?。
そこには川が残り続けている図が示されていた。
少なくとも手元にある昭和8年、15年の地図上では、まだ確実に存在していることが分かる。
しかも、私が想像していた河川の姿を越えた、分岐が示されているではないか。
これには驚いた。
”史料 京都の歴史 第13巻”より西九条村の明治時代の記述ではあるが西洞院川の記述を見つけた。抜粋すると・・・

 北、下京東町より来り、村内信濃小路通に至って分岐し西流は本村東南の養水となり、東 流は東九条村の養水となり
 末複合して一水となり。
 南して上鳥羽村に入り鳥羽川に帰す。
 長さ拾余丁(約1.5km)幅二間(約3.6m)深さ一尺余(約30cm)、其間小石橋四基を架ける。皆民費なり。


下京、東町とは残念ながら分からなかった。
しかし、おそらくは現在の京都駅の近辺であることは伺える。
信濃小路とは、調べてみたが現在の地名としては存在してはいないようであ る。
だが、当時の地図上から割り出すと、そこはそのまんまに東寺道となっている。
末複合して一水となり、は読んで字のごとく、合流するという意味合いだろ うが、小さな末流は繋がっていたのかもしれないが、東流、西流同士が再び合流すると言うことは地図上では見受けられない。
西流は上鳥羽村の中程から当時の天神川に合わさっている。
しかし東流は当時の天神川に注ぐことなく、今で言う近鉄線に沿い流れ、現在の堀川下流部をなぞり、鳥羽川、おそらく鴨川のことであろうが、こちらに注いで いる。
信濃小路の分岐地点もほぼ割り出すことが出来る。
近くにある小学校が地図上の大きさと大宮通の現状とは違えこそすれ、位置的には一致している。動いていないのだ。
だが、ここで運命の分かれ道が西流、東流と呼ばれる流れには存在した。
信濃小路(東寺道)より西に分岐した西洞院川の西流は周辺の宅地化の進行、また油小路通の拡張などに伴い完全消滅している。
ちなみに昭和47年当時の航空写真を見てみても、川の跡はおろか全く痕跡すら見あたらない。
本当の完全消滅である。
しかし、信濃小路(東寺道)より東に分岐した西洞院川は幸か不幸か川としての機能は失う代わりに道路へと転用されたようだ。
当時の地図とは若干異なるが、ほぼ近くを沿うようにして西洞院通が走っていて、何と十条以南ではまだ川として地上を流れている姿を確認することが出来た。
さらに、昭和62年までの航空写真ではまだ十条以南(の一部のみ)は暗渠化されていない様子が窺われた。
最終的に西洞院川は堀川へと注ぐ形になっているようである。
 実は私も堀川が十条から南を暗渠化する前に注いでいる姿を見ている一人であり、あの注いでいる川(と言うのか当時もどぶ川にしか見えなかったが)はなん て言う川なのだろう。
と思っていた一人である。
調べていくと、どうも西洞院川で在る可能性が非常に高いような気がする。
地図上の位置と言い、曲がり具合と言い・・・。
だが、残念なことに堀川が近年暗渠を延長し、上鳥羽口付近まで完全暗渠となってしまった。
よって合流点も、もはや二度と見られぬ土の中である。
また、それに伴い近鉄も高架化してしまい、昔の面影を偲ぶのは難しくなっている。
ただし、今現在でも西洞院通の路面の下を暗渠として流れているようである。
しかし実際に確認は出来てはいない。
流れていた当時の資料は少なく、当時の様子などは分からない。
ただ、当時の下水がなかったと言う理由で、西洞院川を下水に使ったという記述もあったことから余りきれいとは言えない気がする。
・・・長い間、流れ続けて来た河川は今どうなっているのか?。
これからご覧に入れようと思う。

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