京都府京都市 南区・鍋取川(現流路) 2007/11/02

国土地理院 航空写真 整理番号CKK-74-15 撮影コ−スC9 写真番号12を切り出し画像処理を施した。
上の航空写真は昭和49年に撮影されたものです。
当然、この時期に上の写真の中で残っている川跡など僅かですが、しかも今回レポ−トする鍋取川はまさに、ひっそりと歴史の中に消えていった河川。
と言う感じがします。
あまりにも史料が少ないため、下流域の流路の特定にも困難を極めた。
と言うのか、特定できない場所もあった。

とりあえず、航空写真上で記した赤い線。
縦に流れていたのが鍋取川、下方に横に流れていたのが堀川旧流路である。
 先ず鍋取川、と言う河川をご存じの方がどれだけいらっしゃるかは分からないが、ほとんど忘れ去られた河川であると言うことだけは言えます。
この河川はかなり長い間探していた河川なのだが、いかんせん情報が足りなさすぎて、なかなか書くことが出来なかった河川です。
場所は京都市南区、京都駅より1km程、西、近くには隠れた桜の名所、六孫王神社があり、その更に西を流れていた河川でとなります。
で、鍋取川とはどういう河川?、なのか。
これが最大の問題。
私が幼い頃、友人と共に遊んでいた時、この六孫王神社の西側に道路が盛り上がっているところがあったのを思い出す。
今思えば、それこそが鍋取川のなれの果て、暗渠部分だったどす^^。
 そして、源流の方向はと言うと・・・・げっ・・・東海道本線に被っている・・・・(また消滅パターンですね、本当にありがとうございますorz。)
しかも、その前には新幹線・・・\(^o^)/河川オワタ。
更に、北側には梅小路公園や梅小路蒸気機関車館(梅小路機関区)があり、正直、北側の様子は見に行かなくても想像できる。
都市化の進行をもろに受けている地域であり、おそらく河川跡さえも残っていない完全消滅しているタイプの河川。
南区には意外と多くの河川が残されていますが、その残されている河川部(暗渠部)はほとんどがこの新幹線や東海道本線より南になる。
 ある意味これだけの幅で交通が分断されると、陸の孤島ではないが、それに近いものがある。
その為開発の速度も遅くなり、残された河川も多くなったのではないか?。
本の名前は忘れたが確か”梅小路機関区”か、とにかく蒸気機関車に属する写真集だったと思う。
その中に1946(昭和21年)米軍によって撮影された航空写真と現在、確か1997年頃の写真が比較のために掲載されているペ−ジがあった。
まあ、言うまでもないがどれだけ都市化が進行したのかと言うことを比較するには良い写真であったが、私の関心はそれ以外の所にあった。
1946年と1997年。
ほとんど変わっていない梅小路機関区の扇形車庫。
その扇形車庫の南東に一筋の影が南西に向かって走っている。
おそらくではあるが、これが鍋取川であろう。
その影は当時の山陰線に沿うように存在している。
 そして、七条通でパタリと姿を消していた。
そう言えば、昔私が母と一緒に梅小路蒸気機関車館(長い名前だ・・・)に行ったときのことを思い出します。
当時でも山陰線は高架化されており既に地上を走っていなかったが、現在の北へと向かう屈曲部、つまり梅小路公園と七条通が接している広場になっている地 点。
そこで橋を渡ったような記憶があるのだ。三面コンクリ−ト打ちされて水も流れていないカラカラの河川もあったような気がする。
 ではこの鍋取川、水源は一体何処なのか?。
これが長い間の謎であった。
謎の一端がとけたのは”史料 京都の歴史13 南区”を読んでいた時だった。
八条村の明治前半、村の沿革を記した部分から抜粋する。

鍋取川 水源、堀川より出て、下京大宮二丁目より七条通を西流し朱雀村界に至り
    更に回転、南流し上鳥羽村に入り鳥羽川に帰る。
    本村の流れ、七町二十間、巾通して一間五○(判読不能)
    深さ尺に出入し田凡三十町を養う。

    石橋四基
    一つは四塚通、鍋取川下流に架す。長さ五間、巾二間
    一つ、八条通同川中流に架す
    一つ、七条通同川上流に架す    各長さ二間、巾一間
    一つ、千本八条上通養水溝に架す、  長さ二間、巾一間半
    以上皆民費に属す

これには驚いた。
水源は西本願寺の北端、堀川にあった。
今現在の地図では五条と七条の間に走っている道路の歩道部分がおそらく河川に相当する。
大宮通を潜ったあたりで南に屈曲し、住宅地に中を流れる。
そして現在の平安高校の校門前を通り七条通りを潜る。
すぐ南の木津屋橋通で西に向かって屈曲し、山陰線附近まで流れ、南に屈曲し梅小路機関区内を流れ、東海道線を潜り八条側に流れてくる。
そしてもう一つ、そちらから流れてきていたであろう情報を得ることが出来た。

2年ほど前の話だが、六孫王神社の裏手、そこに住んでいらっしゃる70代の男性の方から話を伺うことが出来た。

私の小さい頃はもう、清流と呼べるような川ではなかった。
いろんな汚物が流れてきていたからな。
この川の源流はおそらく島原方面にあるんじゃないかと思う。
鍋取川自体は、確か終戦までに暗渠になってしまったと思うんだ。
南は九条通りを越えると細い道がある。
昔はその道を大阪街道と言っていたのだが、その脇を南に流れて、最後は堀川に合流していたんだ。
府立第二(今の鳥羽高校)の少し西に昔は堀川が流れていたんだ。
今の鍋取川はその堀川の流れを引き継いで流れている。
最近までまだ流れていたらしいよ。

また、(鉄道写真カメラマン)を趣味でされている方は、今現在の梅小路蒸気機関車博物館として梅小路が使われる前から梅小路に行ってい らっしゃった。
そこで梅小路方面にそのような水路などがなかったかとお聞きしたところ・・・

水路ならあった。俺が当時行っていた時分は、まだ山陰線も高架になっておらず、土手の上 を走っていた。
SLがだぞ、SLが土手の上を走っていたんだが、当時はもうSLは最終の時代だった。
ちょうど山陰線の土手が七条通りまで続いていて、その脇を水路が流れていたのは覚えている。
土手に沿って、な。
その水路は現在の梅小路蒸気機関車館の操車場のほぼ東側から土手をトンネルで潜り、場内に入ってきていた。
そして、場内に入ってくると何本かの線路を跨ぐうちに暗渠になって南に向かって流れていった。
汚いどぶ川だった。
当時でも。
水はそんなに流れていなかった。
けど場内に入ってからは、深く掘り下げられているのかいきなり急流になっていた。
かれこれ30年近く前の話。
 上流は丹波口辺り迄しか知らない。
それ以上北というと七条通りに市電が掘り割りを造って山陰線と立体交差していたから、そのような水路の跡などは全くなかった。


上流は丹波口付近という情報、これはおそらく最初の情報提供者の方もおっしゃっているように、島原方面から流れてきたということに符合する。
が、この区間の河川はそれこそ完全消滅していた。
梅小路機関区の遺構を除けば、川跡はおろか跡形すらない完全消滅である。
元々早くから都市化されてきた地域である。
それに伴って川は、地上から姿を消した。
もしかしたら、暗渠になって利用されているのかもしれないが、それでは川とは呼べない。
 で、上流部ばかりに目を取られていて下流部は今の暗渠が鍋取川だと思っていた。
もう一度古地図を見直してみると・・・。
大正4年、昭和4年、15年の地図でも鍋取川と堀川は別々の流路を流れ、そして現在の吉祥院浄水場の近くで合流。
当時の天神川と合流し、そして鴨川に合流している。
もう20年以上前の話になるが、私が福島県福島市から京都市に引っ越してきて直後。
何らかの用事で、この河川付近を通りかかったことを思い出す。
実際下流部の姿は、きれいな河川ではなかったと記憶している。
だが、その下流部も平成の早い時期に暗渠となり地上から姿を消した。
今、顔を覗かせているのは現在の西高瀬川との合流点に、ほんの一部見えるだけに過ぎない。
しかも、典型的な都市河川の例として、三面コンクリ−ト打ちの情緒もへったくれも無い水路としてである。
 鍋取川の下流は先ほど調べて述べたとおり、現在、暗渠化されて使われているのは堀川の旧流路であり、鍋取川の流路は完全に消滅している。
よって今回は源流地点を梅小路公園北端、七条通りとの接点辺りとし、それ以北は河川疑定地として扱うことにした。
 また、九条通以南は堀川の旧流路であるが、鍋取川現流路として書き上げる。
この河川は八条以北は完全消滅、八條以南は暗渠部が見える形でそのまま残されており、なおかつ道路に流用されているものの、全域に渡って、川の跡としては 残っているという珍しい例である。
ただ、鍋取川としての旧流路は九条通以南は、これまた完全消滅している。
大阪街道と呼ばれていたであろう道の側をしらみつぶしに探しても、僅かに土地が凹んでいることを確認できるくらいであったが、古地図をしらみつぶしに見る ことで旧流路のが判明した。
それはまた別の項目で書くことにします。

続く
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