清水音羽川(前編) 2008/04/20


昭和57年度 国土地理院 航空写真 整理番号 CKK-82-2 地図番号NI53-14-3 撮影コ−スC7 写真番号18の一部を切り取り画像処理を施した。

*このレポートは都合により、下流域から上流域に向かってレポートする、異色のレポートとなります。
*山科区・左京区にも音羽川と言う河川があるため、区別する意味合いで、この河川をこれから"清水音羽川"と呼びます。

 場所は東山五条東入る。世界的に有名な寺院、京都の観光の顔、世界遺産、清水寺である。
年間800万人もの観光客が訪れるとてつもない観光地である。
その観光地に河川?。
私も全然見落としていたのが正直なところ。
清水寺には、れっきとした河川は無い、しかし、音羽の滝と言われる滝が存在し、そこから水が流れだしているのもまた確かなことなのだ。
と言うのも、河川があるという事に気が付いたのは東山の古地図を見ていて、違う河川部を検索していたときのことだった。
それは、豊国神社の北側、谷状に落ち込んでいる地形の北西部で、河川跡と思われる遺構を見つけ、それを辿って鴨川まで出たときのことだった。
これ、河川跡でしょ。
そう思えるほど広い歩道をもった道路に出会ったのだ。
それからこの河川の源流を探し始めた。
そして遂に決定的な情報を得た。この河川の中流域を検索していたときに80代に近い男性と話をする機会を得た。
そこで飛び出す数々の情報。


昔は雨が降るとこの辺り(東山区東音羽町)で水が溢れたんだ。
何故って?。この川はね、下流に行くほど狭くなってるんだ。
この橋を見て貰っても分かると思うけど、ここからが狭くなってるでしょ。
だからここで溢れちゃう。
 その曲がっている場所に暗渠があるんだ。
そこで水を分流して溢れるのを防いでるんだ。

源流かい?。
この川の源流は清水寺の音羽の滝だよ。
そこからず−と山肌を舐めるように流れてきてここまで来るんだ。

五条通にバイパスが出来たときに東大路から西側は無くなったと思うよ。
いや、それ以前に五条通が広がったときになくなったのかな・・・。
この川もこの辺りは地上を流れているけど、バイパスの付け根辺りで地下に潜ってる。
そこから先は分からないな〜。

下流はね疎水に繋がっていたんだ。
昔はきれいなもんで、合流付近で泳いでいる子共もいた。
場所かい?。
場所はねだいたい正面通りの少し北だったかな。


では先ず、清水寺についての情報だが・・・ありました。
清水寺については清水寺自身のWebsiteをご覧になっ ていただきたい。
WIKIはこ ちらを。
地図はこ ちらを
それぞれご覧になっていただきたい。
私が説明するよりも遙かに詳しい説明が見られるので。
天下の国道一号線敷きに、河川はあったのか、はたして・・・。

先ず、古い地図で見ると東福寺の入り口の南で西に向かい屈曲した清水音羽川は五条通りに沿って西北の方向へと徐々に流れる。
そして、五条通りの中程、大和大路の西側の通りより東側で南に向かって屈曲する。
おそらく住宅地の中を流れ、現在の本町公園で西に向かって屈曲しそのまま西流、そして、琵琶湖疎水へと水を合わせていた。
 先の男性が話していたところでは


下流はね疎水に繋がっていたんだ。
昔はきれいなもんで、合流付近で泳いでいる子共もいた。
場所かい?。
場所はねだいたい正面通りの少し北だったかな。



この証言を元にして少し調べてみる。

先ず合流点は正面通りの北にあるという事だ。
っていうか、いきなりこれでしょ、と言う通りを見つけた。

正面通りより北に5−60m程の所で車道より広い歩道をもった道路に遭遇した。
これがおそらく清水音羽川の最下流部、合流点付近だったと思われる。
かつてはこの川端通りも現在のように広くはなかった。
京阪電車が地上を走り、疎水も地上を流れていたからだ。
だが、昭和の後期に京阪電車の地下化、疎水も地下を流れるように付け替えられたことで、鴨川の東岸にそこそこの広さを持つ車道が出来上がった。
それが川端通りである。
この辺りは航空写真などで見るとちょうど、京阪七条と京阪五条の駅の間、中間地点に当たる。

そして次に南から西へと流れが変わる屈曲点であるが、これは現在の本町公園の縁にあたるのではないだろうか。
こんな感じで縁に道があり、それは本町公園から北へとのびている。
だが、現状で、河川跡らしき物は何もない。
これは埋め立てられた河川全般に言えることであり、洛西に移築された小川の百度橋、動物園に移築された西洞院川の魚の棚橋など、数えるほどしか残っていな い。
しかし、公園内でこのようなものを見つけた。

あのう・・・・これって・・・欄干じゃないのですか・・・?。
石製の。
私も最初は通り過ぎていたが、んっ、と思って慌てて戻ってきたのが本当のところである。
もしかしたら、この清水音羽川に架かっていた橋の遺構かも知れない。
場所的にも、あり得ないとは言えないしね・・。
ただ、何も断言できないので情報をお持ちの方はご教授願いたいです。

おそらくこの道であろう。
本町公園の縁からまっすぐに北に向かって伸びている。
古地図の流れとも一致している。
当時から住宅地だったこの一帯で全く浮いている、住宅地の中を抜けていく路地。

まさに住宅の裏を抜けていく感じの道である。
本町公園の直ぐ北辺りでは舗装が為されていないので、砂地の地面が覗いている。
そして、おそらく清水音羽川もこれぐらいの幅だったのだろう。
建物も当時から残っているものはないであろうが、この幅だけはキ−プされている。

その道をずっと辿ると、まっすぐに北進し五条通りの一つ手前の通りを越える。
すると車止めがある。これはこうしておいて正解である。
ここ、結構見通しの悪い交差点になっているのだが、北からも車が来ると確実に事故多発地帯になっていたであろう。

を進むと東北東に屈曲し、30mほどで、再び、北に向かって屈曲する。

こんな感じで屈曲し再び北進する。
この辺りではもしかしたら当時の護岸の跡かも知れないものが残っている。

例えばこんな感じである。
左側にはお寺があるのだが、このお寺は正直いつ頃からこの地にあるのかが分からない。
100年ほど前の地図を覗いてみても全くお寺の記載がないのだ。
ただ、この位置は五条通が拡張される際にぎりぎりその範囲には入らなかった場所なので、もしかしたら昔よりこの地にあったのかも知れない。
そして北進する道は五条通りに到達しようとするが・・・。

あらら・・・・。
下のコンクリ−トの側溝が東に向かって屈曲しているのがお分かり頂けるだろうか?。
だが、その先、天下の国道一号線、五条通敷きに出てしまっている。
と言うか、その先が・・・無い。
残念なことに五条通りを出てからの清水音羽川中流域の一部は完全に消滅したようだ
どころの話ではない。
しばらく走ってみたが、どうやら、東山郵便局あたりまでは五条通りの拡張された際、河川擬定地まで削り取られてしまった可能性がある。

いや、削られたと考えるようが自然である。
どう考えても、無い。
というか、在った方が不思議である。

だって、これが河川擬定地だよ。
思いっきり車道だって。
はあ・・・。どう見ても、屈曲の具合からして五条通に被っていた。
しかし、これから先はまだ残っているかも知れない。
せっかくここまで一本の線のように繋がってきているのだからまだ分からない。
行けるところまで行って、しらみつぶしに探すのみ。
先ず疑定地として東山郵便局辺りは外した。
この辺りは疑定地自体が建物と被っており、河川跡など望めないからだ。

疑定地に出来るだけ沿うように東山郵便局の南にある路地を東向きに走る。
う−ん・・・確かにそれっぽい地形ではあるが・・・違う。
この路地ではない。広すぎるのだ。
疑定地はこの住宅地のど真ん中を流れていることになる。
さすがに私有地になるので、全く立ち入れないし、そもそも河川跡がそのまま残っているという保証すらない。

そのまま東へ走るとだんだん狭くなり始める。
この辺りだろうか。
後述するが、すり鉢状に五条通とこの路地との間が落ち込んでいるのが分かる。

その最も低い場所から今走ってきた路地方向を撮影する。
左は後で五条通から撮影した写真。
右が底に当たる場所から撮影した写真。
う−ん・・・これっぽい。しかし深すぎないか?。
位置的にはこの窪みは最も怪しいのだが・・。
まだこの時は確証を持てないでいたが、結果を先に述べると、この窪みこそが清水音羽川の河川跡である可能性が非常に高い。
位置的にも一致するし、後述する河川跡とのつながりがこの位置を指し示しているからだ。

路地は南北に走る路地に合わさり、一旦ここで途切れる。
右の写真には河合寛次郎記念館が写っている。
こ れで位置を確認していただくとよろしいかと思う。
では、先程の地形つながりであのへこみを見に行こうとしていた私の目に・・・。


・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・・・!!!!

あたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!

橋梁!!
欄干!!!
河川跡!!!
現存している!!!!

でも・・・・これはもう、水が流れなくなって久しい河川の姿。もはや、二度と水が流れない河川の姿である。
しかし、河川であった当時の石組みの護岸、そして、この橋梁の跡が、なにより、かつて水が流れていたことを雄弁に物語っている。
そして、この橋梁の方角、川の流れの向きからして、間違いなく、清水音羽川の中流域である。
こんな形で残っていようとは・・・。びっくりした。

向こう側は・・・・これ・・・私有地内でしょ・・・。
さすがに立ち入れないので望遠レンズでのぞいたのが次の写真。
人家の間に組み込まれて、川は残っていた。
しかしそれは川と言うよりは川の末路、と言った方が正しくないか?。

写せはしなくても、地形的にもここは川の跡だと分かる。
この河川跡に向かって南北の地形が落ち込んでいるのが見えたからだ。
だが、せっかく見つけた河川跡も、これより先では姿を消してしまう。
清水音羽川は、いったんここで消滅する。
だって、河川擬定地の先にドカンとマンションが建ってるし、五条通りは拡張されているし・・・・。
あーだこーだ言っていても始まらない。
私は河川の流れていたであろう場所を探して、執念で追跡する。それしかない。
 先程述べた、一つ西を通る路地では、辛うじて地形の落ち込みで、河川の跡が分かるのだが、やはりそこから先は、全くの住宅地の中になってしまう。
跡形どころか、地形の改変によって完全に消滅した、と言うことであろう。
地形的には、それとなくのこっているようなのだが、位置や場所が少し合わないので、堤や護岸の名残ではないかと見ている。

ここは東山五条。上をバイパスが通り、春や秋の観光シーズンになると、それはもう、想像を絶するような渋滞状況になる場所である。
どれほど凄い渋滞かって?。
バス停にバスの長さの5倍以上のバス待ちの列が出来るぐらい。
つまり・・・歩いた方が早い・・・と言う場合が多々あるんですな。
秋の京都へは、公共交通機関でお願いいたします。
地元に住んでると、たまったものじゃないから。あの大渋滞は。

音羽町側からも見てみるが・・・どうあがいたって川跡など無い。
疑定地は・・・正面のマンションに被っている・・・。
ここは完全消滅のようだ。もう、即座に分かった。
これは残ってないな、と
しかしこれからだ。
音羽町に下る道路がバイパス下にある。
そこを下っていくと右側に・・・。

いきなり清水音羽川が暗渠に入る部分が見える。
しかしこれ、下水に流してるでしょ。
このゴムのびらびら、堀川でも、天神川現流路でも存在していた。
しかしここ、大雨の後はかなり怖いと思う、なにしろこの場所がこの地区で一番低いと思われるのだ。
つまり、水は全てこの場所に向かって流れてくると言うことである。

この地区は坂が多く、狭いという特殊な地区である。
 その地区を縫うようにして清水音羽川は流れていく。
この流れはおそらく100年前と比較しても変わっていないと思われる。
また、少し先の辺りからコンクリ−ト3面張りの河川から、石組みの護岸に変わったりと変化が忙しい場所でもある。
いや、おそらくこのコンクリ−ト3面張りは中流域が消滅する際に下水に流し込むために、後から付け足されたような気がしてならない。
と言うことは、拡張された後もある一定の時期までは清水音羽川は流れていたのかも知れない。
さっきから話が推測の語を含んでばかりいるが、気にしないで欲しい。

このような川の三叉路のような場所に出る。
木の塀の下に猫が使うと思われる穴が開いており、そこからレンズを突っ込んで撮影した。
なんかこういう風景、個人的には好き。
川と地域の共生と言う感じがしてほっとする。

ここで一つの支川が清水音羽川に合流する。
方角的に南から合流していく。
この河川も確かに存在しているようではあるが・・・。ただ水が全く流れていない。
河床も何もコンクリ−トでがちがちに固められた
それは単純に上流側が水を絶たれているからだ。

場所は少し離れるが、ここは渋谷街道の馬町近辺。
この写真の何処かに河川の跡が写っているのだがお分かりになられるだろうか?。
右側、白い塀の下に欄干が見えるのが分かられるだろうか。
これが支川の橋である。が、なんたるぞんざいな扱いなのか。
この支川は完全に町から無視されている様だ。

こちらが清水音羽川方向をのぞむ。
なんかこう・・・乾いた風が吹いていたね。
とても乾いた風が・・・。
河床は完全に干上がってるし常時水がないと言うことを窺わせる。
なんて言う扱い方だよ。

そばには立派な石碑が建って、その所在を明らかにしている。
龍橋弁財天。おそらくこの橋の名前が龍橋なのだろう。
石碑の裏には 昭和十五年 五月 という日時が刻まれていた。
それはこの石碑が建てられた碑なのか、それともかつて架かっていた橋の銘板がそうだったのか、今となっては分からない。
それでも、この橋や川が顧みられることはないだろう。だって、誰も気に留めている様子なんて無いもの。
その証拠に対岸の上流側なんて・・・。

橋を隠すどころか、川を完全に隠しちゃってるもの。
ど−してこう言うことをするかな・・・。
川を窺いたくとも、全く見ることは出来ない。
転落事故か何かあったのだろうか。
そう後すると分からなくもないが、これはいくら何でも過剰でしょ!。
橋の欄干部分も利用して作られた、まさしく「壁」だ。
更に上流を調べるには調べたが、学校の敷地内に被っており、検索は困難である。(と思って、後で地図を精査したらどうやら残っているようである)。


さて、清水音羽川に戻ろう。
今いるのは支川合流点である。左のように水は全くないと言って差し支えないであろう。
ここから東へ行くとこのような清水音羽川が姿を現す。
この姿こそ、多分昔からの清水音羽川なのだろう。石組みの護岸。
川のサイズも先程の本町公園の北側の路地とほぼ同じサイズである。
これぐらいの規模出ず−っと流れていたかどうかは不明であるが。
なんか、この姿・・・・いい。地域にずっと流れてきた川。
と言う感じがする。
かつては子供たちが遊び、小魚も住み、蛍が飛んだりもしていたのだろう。
そんな風情はバイパスが出来、付近が宅地化されていく中で、どこかへと、いってしまった。
二度と取り戻せないであろう風景。
その片鱗を残している地域である。

しかし良くこのような道路の狭さで車が停まってるね・・・。
こんな所に車で来てって言われても個人的には絶対に行きたくない。
先ず脱輪させちゃうだろうからね・・。
ここに来ると、更に南側は擁壁とも思えるコンクリ−トの護岸になる。
余程水害が多かったのか?。
そう考えるのが妥当だと思う。
上流部は直ぐに山に入ってしまうし、それが大雨になると急流になると言うのは容易に想像できるからだ、

新しい護岸はごく最近に施工されたものであろうが古い奴は相当に古そうだ。
これ、かなり古いよ。石組みにしろこの苔むし方は。
更に右の写真では屈曲しているのが分かるだろうか。
北にほぼ直角で屈曲している。
町中でこんな屈曲点があると危ないと思うのだが・・・。大丈夫なのだろうか。

河床の様子。きれいか汚いかは別として河床は藻に覆われており、堀川下流部を見たあとなどでは、かなり癒されることは間違いない。
いわばこの場所は、清水音羽川が造った谷の底なのだろう。
北側の大谷本廟、南側の馬町通り。
その間にある谷。

確かにこの橋を境に下流部は狭い。
さすがに屈曲点から向こう側は人家の裏であり入れないので五条バイパス側に回り込んだ。
ここで最初に話した男性とお会いして色々とお話をお聞かせ下さった。

それに比べると確かに上流部は広い。
昔は雨が降るとこの辺り(東山区東音羽町)で水が溢れたんだ。
何故って?。この川はね、下流に行くほど狭くなってるんだ。
この橋を見て貰っても分かると思うけど、ここからが狭くなってるでしょ。
だからここで溢れちゃう。
 その曲がっている場所に暗渠があるんだ。
そこで水を分流して溢れるのを防いでるんだ。

なるほど、確かにここは屈曲部と狭幅部が同時に来ているから、大雨の後は確かに危ない。
水門をもうけたとしても、水を逃がす場所が一カ所ではあまり役には立たないだろう。
その対策として、水を分水する方法を採ったわけだ。

その部分がこの場所であろう。
とすると・・・暗渠も確かにあった。
さすがにこの狭さでは、どこにどのように通じているのかは不明であるが、だいたいの流れはわから無くもない。
地形の傾斜具合からして、五条バイパスに沿って暗渠部の先で交わっていそうな気がする。

いよいよ清水音羽川が流れる五条バイパスの下へとやってくる。
上流から辿るのであれば、この五条バイパスの下あたりからが通常に辿れるルートになる。
バイパスが出来る以前はここはどういった場所だったのか?。
 それはおそらく大谷本廟の一部ではなかったのだろうか。
今から百年前の地図ではここは大谷本廟に含まれる形になっている。
百年後は・・・・今写真を見ていただいているとおりである。
山科に続くバイパスが出来、五条通りは京都の交通を背負って立つ大動脈となっている。
昭和19年か20年に以前の五条通りは防火帯として家屋約1200戸が強制疎開させられ、拡張された。
 それに伴って、清水音羽川の一部も消滅した。
百年前の地図と、現在の地図とを重ね合わせてみると、中流部の屈曲の手前、現在の五条バイパスの付け根あたりからしばらく西に向かい流れ、北に流れる一帯 が現在の五条通り敷きに重なる。
 本当に道路の拡張は河川の消滅と重なる。
京阪国道口の堀川、養老田川の西流は葛野大路付近だし、この清水音羽川は五条通りに重なる。
 
現在、清水音羽川は五条バイパスの下を流れていく流路だ。
この辺りは、おそらく昔からそんなに変わってはいないだろう。
 コンクリート打ちの都市河川部。まだかなり新しい。
だってコンクリートが真っ白だもの。
これ、つい最近に護岸工事か何かがあったのではないか?。
昔はこの後に紹介するが、昔ながらの石組みの護岸ではなかったのだろうか。
情報をお持ちの方は教えていただきたい。
 人家の裏を流れていく清水音羽川。
そういえば、この河川に架かる橋にも、銘板の類が無かったように思える。

二つ目の支川が合流しているが・・・このような河川は聞いていないぞ?!。一体何これ。
先は・・お墓でございます、と共に、もうここからでも見える藪の中である。
こちらの支川も調べてみなければならないと思ってますが、なにぶん、虫がすごい(ToT)

あらら・・・・・ここに来て、遂に道が完全消滅。
先に進みたければ・・・河床に降りて進む以外にない。
何となく川が進めるものなら進んできて見ろ、と言っているようだったが、残念ながら今の私には何も装備がない。
水深は浅そうだが、先にどんな場所が控えているか分かったものではない。
しかも今日は普通のスニ−カ−ではなく、パンプスなのよ。
履いてきているのが。
これが汚れると、お仕事に出させてもらえないかも知れないのよ〜(涙)
悔しいが今日はここで撤収である。
次は必ず源流まで辿ってやる−と捨てぜりふを吐いて・・・。
次回、ガチンコ勝負へ。


後編へ
検索河川レポート一覧に 戻る
inserted by FC2 system