堀川 旧流路(2)2007/12/19


ここは堀川東寺道、ここから今回のレポ−トは始まる。
いや、正確に言うとそのような地名は存在していない。
堀川通りは七条より以南では油小路通りとなるし、正しくは近鉄線下東寺道となるのか。
左にあるのが近鉄線の高架、交差しているのが東寺道、そしてまっすぐ南に下っているのが堀川の新流路になる。
旧流路はこの辺りで少し西に向かい蛇行していた。

これがその新流路であるが、当然川の跡なんてものは無い
この東寺道より南、九条通りまでは最も早く暗渠化された区間であり、昭和21年までに姿を消している。
だが旧流路は一枚目の写真より西に流路を振って今の住宅地の中を流れていたようだ。
残念ながら、そんな跡は全く見受けられない。
しかし、その旧流路に沿っていたか、堤の上であったであろう道は残されている。

東寺道より西を撮影した。
写真中央に南に向かい入っていく道があるのがお分かり頂けるであろうか。
この辺りも、いつの間にか新しい家が建ち、旧い家はなくなっていく。
個人的にたまらなく悲しい思いがする場所だ。
全体的に見れば、そんなに変わってはいない、しかし通りに面している部分は確実に変わり始めている。
いつの間にか旧い家が無くなり空き地になっていたり、ガレ−ジなっていたり、あるいはマンションが建っていたり・・・。
この辺りは私の生まれ育った家があるのだ。
小さな頃からよく知っている。裏の抜け道まで。
しかしこのあいだ久々に行って愕然とした。
在るはずのない家が抜け道を塞いでいたり、あの場所にあった家が無くなっていたり・・・。
やりきれない悲しさを覚えた。

この道がおそらく、堀川旧流路に沿って通っていた道である。
周りが住宅地であるため、撮影していないが、南の方はこの道に対してやや傾斜が付いている箇所がある。
おそらく川にあった土手の名残かと思われる。東寺道より西を撮影した。
写真中央に南に向かい入っていく道があるのがお分かり頂けるであろうか。

あまり住宅地の中なので差し障りの内容に撮影しているが、途中の道が交差する箇所を調べてみても、土地の盛り上がりや、くぼみは見つけることが出来なかっ た。

で、出たところは九条近鉄前。かつて堀川が屈曲していた場所であるが、地上からでは分からない。
よって、近鉄東寺駅のプラットフォ−ムから撮影したのがこの写真になる。
済まないが文章では説明できないため、写真に赤線と青線を書き加えた。
赤線は旧流路、青線は現流路になる。
この位置が旧流路の屈曲点になる。
ここで、旧流路は南から西に向かい流路を変えていた。
新流路はここを直進して南に向かう。

こちら側はフラットフォ−ムから南向けに撮影した。
新流路はこのまままっすぐ南へ向かい、十条を越えた辺りで、西洞院川の東流の流路を流れ、そのまま鴨川に流れていく。
ここから南は相当遅くまで明渠として残っていた箇所である。
航空写真から読みとれるのは、昭和47年では、まだ暗渠となっていない。
昭和55年頃に暗渠となったが、十条より南は平成に入っても、暗渠にはならず、川は地上を流れていた。
そして、近鉄線が高架として生まれ変わったときに、あわせて暗渠化されてしまった。
今現在、新流路で明渠なのは上鳥羽から南、鴨川合流地点までである。
それから北は・・・全く川跡はない。

こちら側はフラットフォ−ムの北端から撮影した。
左は南側を、右は北側をそれぞれ撮影した。
先程いた東寺道が新流路と旧流路の分岐点となる。
旧流路なんぞ、探しようがないのがお分かり頂けたであろうか。
住宅地に被っているため、跡形もない。
例えば旧流路が廃止されて2〜3年、5年ぐらいまでだったら、何とか場所を探り当てることも、どのような流れだったのかを知ることも出来るだろう。
けどね、やっぱり廃止後70年なんて月日が経ってしまうと、もう古地図を開けて流れていた場所を調べだしたり、当時を知る方のお話を聞いて、、それを想像 するしかない。

地上に降りて、九条通りを西進する。
この辺りも、何の遺構も残ってはいない。
が、川が流れていたであろう地形は残されている。
九条通りから南の通り、京阪国道辺りまでであるが、大きな通りを除くと、皆一様に南に向かって傾斜が付いているのだ。
 つまり、南側が低いのだ。これには二つの仮説が成立する。
一つは堀川の流れに対して作られていた堤があったのかも知れない。
一つは意外なところからその姿を現す”御土居”の存在である。
何時も名前を控えてこよう控えてこようとすると忘れてしまう古写真をまとめた本、その中に、明治時代の東寺五重塔を南西から撮ったであろう写真がある。
東寺の五重塔や南門の前にこんもりとした丘状のものが見える。
これがおそらく御土居では無かろうか。
つまり、今の九条通りの南側半分が御土居。
それに沿って堀川は流れていた。
つまり、御土居の外にあるまさに”掘”川だったわけだ。
そうすると、何故屈曲していたのかも自然と説明できる。
九条通りで屈曲していたのは御土居の外に出た流れを、御土居自体に沿わせ堀の役目をさせるため。
そして、その流れは現在の鳥羽高校の西側で南へ向いて南流していく。
ちょうど御土居が切れるか切れないかの場所で、だ。
そうするとその辺りはかつての京の七口の一つ、鳥羽口にあたる。
御土居が切れていた部分である。
するとこの北側の御土居の続きには鍋取川が流れ、これまた、堀の役目をしている。
これはやはり御土居の跡と言うのか、双方の可能性もある。明言は避けたい。

京都に住んだことのある人なら、京都に帰ってるときに見てほっとするもののナンバ−1と2がこの近辺にはある。
それは京都タワ−と東寺 (教王護国寺が正式名称であるがここでは東寺と呼ぶことにする。)五重塔である。
 京都タワ−は昭和39年10月に建てられてたものである。
一方の東寺の五重塔は1644年に作られたと言うから、そ−と−に旧い物件である。
と言うか、後37年後には築400年!!という節目まで迎えちゃうのである。

で、肝心の我らが堀川旧流路はと言うと・・・・完全に無くなっちゃいました。
地形の傾斜も。それらしい小路も、何もかも。
もう少し行けばおそらく、ネコの曲がりと呼ばれた大宮の曲がりであろう。
だが、ネコの曲がりどころか、ネコすらいない、天下の国道一号線敷きである。
この場所は。
写真の左側の家屋辺りに流れていたようなのだが、な−んにも跡形らしき物は見あたらない。

大宮通を越えるとそこは北側に東寺のお堀を挟んで、東寺の境内になる。このお堀もかつてはどうやら東側にもあったらしい。
今は芝生地になっているが。
もっと前の時代の地図になると、お堀が東寺を取り囲み、そのお堀が堀川まで繋がっていたり、六孫神社にも通じていたりする様子が分かるが、今現存するのは 南側と洛南高校と東寺境内の境目にある堀ぐらいしかない。
どちらも水の循環がないので、綺麗とは言い難いが・・・

もっと進むと、今度は上の写真のように歩道橋を伴った通りが現れる。
これが京都市の南の大動脈となっている京阪国道である。
この通りの北側は壬生川通りと言って来たに行くと六孫王神社に着き一旦その北、東海道線で途切れるが七条以北で再び壬生川通りとして復活し、そのまま北へ と上がる。
しかし、一旦市バスの壬生車庫で通りは途切れる。
もし、そのまま直進できた場合は地図上では二条城南の神泉苑と言う場所に行き着く。
太古の昔、京都盆地は水底に在ったと言われている。その名残が神泉苑だと言われている。
 おそらくではあるが、この通り、昔、河川が流れていたような気がする。
京都で、川の付いた通りは今出川通り、小川通りなどがあるが、たいてい川が流れていた場合に、何々川通りとついている。
当てはまらないのは西洞院、東洞院などである。
そう言う意味では何らかの河川が流れていた可能性も否定は出来ない。
ちなみに、この歩道橋は京都を舞台にしたドラマのロケ地としてよく使われている。
サスペンス劇場ものであれば、大抵ここが出てくる。
若しくは鴨川、南禅寺の水路閣辺りか。

歩道橋の上から南側を望む。
この何処に河川の跡があるのか?。
こっちが聞きたいぐらいだ

こんな幅広の通りは昔は存在していなかった。
もし、この道路が造られるまで川跡が残っていたとしても、周りの開発も進んでしまっていたことから、やはり、ここも架空線で疑定地を示す。
このような感じだろうか、古地図と照らし合わせながら書き込んでみると。

こちら側は歩道橋より西側を望む。
こちらも当然川の跡など皆無。
あったとしても、民家の後ろ側になり、鳥羽高校との間であるため、今のところ調査不能の地域である。
ここも疑定地に赤い架空線を書き込んでおく。

再び地上に降りて先を行く。
京阪国道は西側と北側には横断歩道があるが、東側と南側には横断歩道が存在しない。
よって、私は大宮まで戻って北側に渡って、再び南側に戻るか、京阪国道を南区の区役所迄行ってそこで京阪国道を渡り、先に進むか。
どちらにせよ、不便なこと極まりない。
しかも、信号も長い。
特に区役所前は。
右折も左折もないので、変わるときはすぐに変わるのだが、とにかく待つ時間が長い。
そして、先程西側を撮影した辺りに進んでいく。
も−、な−んも残ってない。
河川の跡なんか。
唯一、府立第2中学校こと、現在の鳥羽高校では校門前の通路がおそらく川の流れていた当時、橋として架かっていた箇所であろうと推測できる。
どちらにせよ、片側にはマンションが建っているため、そんな跡自体も消滅している。

そしてその先100m程度で北側に羅城門跡が見えてくる。
この羅城門跡の南側で堀川旧流路は南に屈曲した。
今では鍋取川がその跡を引き継ぎ流れている。
ここも架空線を入れておく。青が鍋取川、赤が堀川旧流路。
屈曲の位置は仮定であり、絶対にこの位置であるとは言えないので注意。
もっとも、どちらの河川もこの地域で最下流部を除けば、もはや地上を流れてはいないが・・・。
九条近鉄前、かつての屈曲部にあたる場所。
 幾度も堀川が氾濫を起こした場所でもある。
だが、今はその面影もない。
面影はおろか、暗渠となってしまった。
川は新しい流路を得て道の下を流れている。
しかし、それは人間の手の出せない領域にと、川を押しやってしまった事例だ。
「時代の流れだからしょうがない」と言われればそれまでである。
しかし、何故そのようになってしまったのか、そして、そうならないようにするにはどうすればいいのか、を考えるのが人間で はないのか?。
失われた川に流れを取り戻すのは難しい。
 現に堀川の二条城までは2008年度に清流を復活させる計画で工事が行われている。
確かに清流は蘇るであろうが、蘇らすのに多額のお金と長い時間とを要する。
どうすれば川がきれいになるのか、また、誰が汚しているのかを考えて欲しい。
水は巡る。
自分たちが汚した水は再び自分たちに返ってくる。
肝に銘じて行動していきたい。

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