堀川 旧流路 2007/12/19

はっきりと言っておくけど、このレポ−トは面白くないよ。
うん。
何しろ、川のレポ−トと言っておきながら、実際に川が流れてる場面なんか全くないから。
しかもこのレポ−トで取り上げるのは今から70年近く前の堀川の流れていた場所だから、今の物とは全く違うし、それこそ周辺は国道一号線が通ったりして全 く別の姿へと変貌してしまっているし。
 う−ん。
何処から説明していこうかな・・・。
先ずは以下の航空写真を見て欲しい。
国土地理院 航空写真 整理番号CKK-74-15 撮影コ−スC9 写真番号12を切り出し画像処理を施した。
昭和49年の航空写真だが、緑は主な幹線道路。
青は堀川の現流路。
そして、赤がこれからレポ−トする堀川の旧流路になる。
全く別物の流路を通っているのがおわかりいただけるだろうか。
堀川の現流路は七条堀川よりやや西に曲がりホテルの裏を抜け東海道本線の下を潜り、住宅地の中を流れていった。
そして、東寺道を潜り九条近鉄前を潜り南へ一直線。
かつては十条から顔を出して鳥羽大橋の近くで鴨川と合流。
これが現流路となっている。
しかし堀川の旧流路は全く異なっていた。
七条堀川から西に曲がり、ホテルの裏を通って東海道本線の下を潜り、住宅地の中を流れていた、迄は一緒だが、東寺道から若干西へ蛇行するように流れ、九条 近鉄前辺りで大きく屈曲して西へ流れた。そして、東寺の南堀を九条通りを挟むようにして流れ(当時の九条通りは現在よりとても狭かった)西に流れ、府立第 2中学校、現在の鳥羽高校の前を流れ、鳥羽高校の西で南に屈曲。
現在の鍋取川の流路で南へ流れ、吉祥院下水処理場の東で西に向かって屈曲し、下水処理場の南で現在の西高瀬川、昔の天神川と合流。
 全く別物である、この流路は。
一体全体、何でこんな流路の変更があったのか。
何度も登場する京都大水害。
おそらくこれであろう。
京都大水害は昭和10年に発生した大水害で、未曾有の被害をもたらした。
この水害で市内の河川はことごとく氾濫。
京都市街南部が殆ど全域に渡って水没。
この水害後、市は河川の整備を始めている。
天神川は太子道から南は廃川となり、新しい川の流れが設定された。現在の天神川である。
これと同じ事がこの堀川でもあったのではないだろうか?。
屈曲部を持つ河川は常にその屈曲部で氾濫の危険性がある。
曲がるときに水がぶつかり堤防や堤を削り、やがて決壊する。
 京都大水害時にこの河川はどうだったのかは分からないが、おそらく氾濫は起こしたであろう。
この堀川が旧流路を廃止して新流路に付け替えられたのも昭和10〜20年前後であろう。手持ちの昭和8年と15年の地図ではまだ流路変更されていないよう には見える。
堀川旧流路の下流域は他の河川として再利用されたようだ。
現在では鳥羽高校の西側、羅生門跡の脇を通り鍋取川が堀川の旧流路下流部を引き継いでいる。
これは鍋取川のレポ−トで述べようと思っている。
この辺りの堀川はどのような河川だったのか?。

”1872−1973 ”九条校百年のあゆみ”の中に以下のような記述があった。

九条大宮は昔、ネコの曲がり、と言った。
 南下してきた大宮が西に曲がっていた。
ここから十条に行く道はあったが、東へと抜ける道はなかった。
後に、四ツ塚と言う道になり今のような十字路になった。

堀川もその辺りより西に曲がり今の三和銀行は堀川の真上にあたる。
今の洛南中学の横を通り天神川に注いでいた。


昭和十年頃にまっすぐの堀川に変わり近鉄線に沿って鴨川へ注ぐようになった。
今は汚いが昔はきれいな川だった。
ウナギが護岸の石の下にいて捕るために石垣を壊したりもした。
九条大宮にも橋がありそこから飛び込んで泳いでいたりもした。
急流な川だった。


きれいな川?、うなぎ?、飛び込んで泳ぐ?。
今ではそんな物はぜ−んぶ消え去ってしまっている。
そもそも、川自体がない
あるのはコンクリ−トとアスファルトだけである。

また、明治初期の”京都府地誌”から、西九条村近辺の堀川の様子があった。

二等に属す、北下京、清水町より注入し本村北西の田野を養い西南流、八條、上鳥羽二村に 入る。
本村、長さ八丁(864m)巾通して三間(5.4m)、深さ通して一尺(0.3m)、その間、民費石橋四基を架せり。


清水町というのは、西洞院川でも出てきた町名である。
これは調べてみると、現在のリ−ガロイヤルホテルから、郵便局の裏手辺りまでの町名だったようだ。
そこから流れてきて、西九条村の北西の田圃を養っていた。
西南流と言うのは、おそらく屈曲してからの流れであろう。
確かに西南に向かって流れている。
その流れは”九条校百年のあゆみ”の中でもあったように、昭和初期にはきれいな川であって魚もいた。
そして流れていく先は八條、上鳥羽村の二村である。
これらの村の堀川の記述は目下調べているところである。
西九条村の中で堀川は延長864m、巾は5.4m、流れの深さは0.3m。
と言うか、巾5.4mで深さ0.3mもあったら結構な河川である。
鴨川や桂川とは比べ物にはならないが、それでも結構な流量、と言うか水量があったものだと思う。
そしてその延長内で石橋が四基架けられていた。
おそらくその内の一つは九条大宮に架かっていたものではないだろうか?。
さすがに深さ0.3mで橋の上から飛び込めばそれこそ自殺もんであろうから、この辺りは掘り下げて淵になっていたのかもしれない。
どちらにせよ、真実は闇の中である。
語ってくれる川自体が無くなっているのだから・・・。

 また、上記、昭和49年の航空写真から分かることは、河川はおそらく3面コンクリ−ト張りの都市河川であった事、まだ暗渠化されずに七条堀川から東寺道 迄、九条通りから明渠であったこと。そして、東寺道と九条通りの間は暗渠になっていること。
正確な本の名前は忘れた。
梅小路機関区の説明本であったように記憶しているが、その中で現在の梅小路機関区と昭和21年(1946)の梅小路機関区の航空写真(米軍撮影)が比較で きるように見開きのペ−ジにプリントされていた。
その昭和21年の航空写真から分かることは、堀川は東寺道から九条通りまでは昭和21年までに暗渠化されている。
昭和21年の時点で現流路として九条通りを南流し、既に近鉄線に沿って流れていること。
である。
70年の時が経つと川の跡地など全くない都市のただ中になってしまった堀川旧流路。
何かの遺構があると期待して検索してみたが・・・。

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