藍染川 (2016 1.06)

藍染川は京都市下京区五条富小路付近から流れ出ていた河川である。
この河川も長い間探し求めていた河川であるが、なかなか資料が少なく、検索は困難だったが、なんとか調べ上げられたので公開したい。  
またその上流川流路のほとんどが住宅地であり、図面を多用します。

京都の街中、特に下京区の東側には高瀬川や鴨川が縦に流れ、西側には西洞院川、堀川、西高瀬川、天神川などが流れている。
それらの多くは河川改修を経て地上を流れる都市河川であったり、下水道に転用されたりしているが、それでもまだ残っている。
ところがその中で地図にも載らないような小河川は、抹消されていった。
その一つが今回紹介する藍染川である。

この河川の特徴は何と言っても情報が少ない。
これに尽きる。
第一、先に挙げた河川とは対照的なほど情報がない。
というか無いに等しい。

例えば都名所図会(だったと思う・・・間違ってたらごめん)などでも(私の探し方 が悪いのだろうが)述べられているのはほんの数行。
「藍染川は五条高倉を経て間之町より人家の下を南へ流れる濁水なり。」
・・・・これだけ?。
これだけ。
(探した範囲ではこれだけでしたが、情報をお持ちの方はブログよりお教え頂けると幸いです)

まずはこの情報通に探してみる。
場所は京都市下京区五条下る高倉から間之町近辺
まずは現地に行って・・・・
だ〜め〜で〜し〜た〜 Orz
まず1890年の地図であっても当然都市が存在しており、街として形作られている。
その人家と人家の間を流れていたとすれば、まだ、下水などが整備される前までは残されていたかもしれ無いが、残念ながら下水道が整備されてしまうとこう いった都市内の小河川は衛生面(蚊や臭いの発生源)から敬遠される。
そうなると、あとは河川を埋めようとするのは必至。
もちろん川は流れていたのだろうが、それ以後の地図でさえ、ほぼ川の跡は書き入れられず。
そして、川は地図からも現実からも抹消された。

現地に行ってきたが・・・教えて欲しい。
この画像のどこに河川があるのか、ということを。
住宅、アスファルトの道路、コンクリートの水走り、ブロック屏・・・
無いよ、本当に。
これは完全消滅パターン。
その上に完全に住宅地の中であるため、捜索も困難。
最も最悪なのはこの藍染川、街の境界とはなっておらず(なっている部分もある)
町境界からの割り出しがほぼ不可能な点。

こうなるともう・・京都市明細図に望みを託す。


あ、ありのまま今起こったことをお話しいたしますよ
私は古地図や古写真から藍染川を探していたら、京都市明細図に載っていたんです
・・・何を言っているのか解らないかもしれませんが、私も何をされたのかよくわかりません。
頭は元からおかしいので、今更問題ありませんが(^_^;)
昭和10年頃の航空写真だとか、花洛名所図会だとかでは断じてありません
京都市明細図の恐ろしさの片鱗を味わいましたよ・・・

やはりというか、明細図を名乗るだけのことはある、それが正直な感想。
恐ろしい拡大閲覧にも耐えうるこの京都市明細図は、河川検索においても強力な武器となりえます。
では、とりあえず京都市明細図から割り出せた六条通以南の藍染川流路をまずご覧に なってください。

京都でも古くからの住宅地となっていた地域であり、近くには枳殻邸、さらにすぐ東 には高瀬川があり、この藍染川に気がつくのは相当後になってからだった。
藍を染めると書くからには、水の色がそうだったのかということになりそうだが、これは半分は当たっていると思う。
資料にも「濁水」とあるからには、おそらく水の色もそれにつかかったのだろう。
しかし私もそれ以外で、もう一つ藍染川の情報でどこかで見たものとしては「藍」つまり「蓼」という作物をこの川の流域で育てていたから、という物を目にし たことがある(未確認)
何か情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。

その藍染川の流路現在辿ることができるのは、最上流に当たる富小路の六条通下る (南)付近。
この付近から藍染川は唐突に姿を現している。
この先の流れは富小路沿いなのか、それとも東側なのかのまるで解らない。
ただ、唐突にこの位置から河川が描かれているということだけ。
となるとこの付近をひとまずの源流として、流路は西に向かっている。
 完全に住宅地の中を流れている為、住宅地内の写真公開は控えたい。
住宅地の西にある南北の通りは高倉通だ。


この付近の赤くペイントした付近で藍染川は高倉通を潜って西に流れていた。
住宅地の玄関先なので公開しませんが、京都市の境界の印が打ち込まれていて、その間隔はまるで藍染川の幅に一致するようになっているところが興味深かっ た。
幅としてはまさに小さな流れ、1m前後ではなかっただろうか?
もしそれ以上大きな流れだと、何かしらの後が残るだろうし、それ以下だと通りにもならず、敷地に分断されて完全消滅だっただろう。

そして再び西に流れ次の南北の通り、間之町通も潜ってい他が、この間之町通には橋 がかかっていたようだ。
現実では、橋なんて掛ってないじゃないですかやだぁ〜 Orz
まあ、ここでなんらかの川の痕跡があったのであれば、それだけでシャウトする自信があるものの、今回はシャウトはなかった・・・なかったんだよう〜  (ToT;)
それにしても町名も気にかかる。
「橋詰町」
橋を詰める町。
橋の袂にあった町という意味なのかもしれない。
ただそれがどうして現在では河川の「か」の字もない場所にこのような地名がついているのか?。
京都市内の地名では水に関わる文字がそこそこある
「壬生川通」壬生川が流れていた通り・・・検索は今しばしお待ちを・・・
「今出川通」今出川が流れていた通り
「堀川通」 堀川が流れていた通り
通りの名前だけに限らなければ
「木津屋橋通」「下河原町」「泉水町」「醒ヶ井」などなど
実に様々な水、ないしは水辺に関わる単語がちりばめられている。

(住宅地内のため写真掲載せず)
さらに西に進む藍染川。
そして次の南北の通りは東洞院通で、この通・・・までは藍染川は流れていない。
間之町通と東洞院通通のちょうど中間点で消えるカーブも真っ青な90度直角カーブで、流路を南に変える。
ここで北に向かっているような流れも見えるがこれは後述する。
南に向かって流れ出した藍染川は、まさに書かれていた通り民家の下(裏)を直線的に流れていく。
この辺りの住宅地を見て感じるのは、まさに鰻の寝床だったんだなー、ということ。
昔は家の間口の幅(広さ?)によって税金が決められていたようで、それを避けるために通りに面している面を狭くして、奥行きが長い、まさに鰻が寝ていると きのような姿に例えられる京都の伝統的な間取りの名残がここには残っている。
もちろん現在はそういう風にはなっておらず、奥に入れるように路地を作って近年に作られた家屋もあったけど、家の配置や並びは昔の鰻の寝床のような配置に 沿って作られている。


南にあるまず最初の通りは花屋町通。
この川の西には東洞院通が、西には間之町通と、それに面する枳殻邸が存在する。
かつての枳殻邸内には御土居の縁があったり、高瀬川が直接流れ込んでいたりという情報もあるが、それはまた別の機会に・・・。
南に流れていくと、一つの天満宮がある。

文 子天満宮
これは持論だが、この天満宮の禊を行うための河川ではなかったのか?。
京都市内に点在する寺院も、市街地にポツリと存在しているものであっても、必ずその近く(そば)には川があったと考えている。
例えば、南区にある御旅御所も、すぐ西には堀川が流れていた。
つまり神事を行うのには必ず水が近くにないといけなかった。

この文子天満宮の西側を沿うように流れた藍染川は次に上珠数屋町通を潜る。
残念ながら河川跡を残しているものは何もない。
ただ、家屋の並びの境目、それだけが残っている。
それを目印に淡々と私は歩いて河川跡を探す。

さらにそのまま民家と民家の間を流れて正面通を通過する。
この正面通を東に行けば枳殻邸の正面入り口となる。
ここにも何もない。
左の建物はとても時間の経過を感じさせる外観・・・
この付近はアパートが建っておりこの河川跡の痕跡も境界線の家屋の並びのみとなる。

下珠数屋町通を潜り南へ流れると、いよいよ家屋が新しくなり河川跡と言える家屋の 並びの空きも姿を消していくが、ひとつ気が付いたことがある。
それは写真のような小さな祠(神社)のようなものがこのレポートした河川跡に何箇所か存在していることだ。
これは昔からここにあったのか?それとも河川跡で土地が空いたからここに作られたのか?
残念だがわからない。


流路はいよいよ七条通へ差し掛かる。
この七条通は少し東には内浜と呼ばれる高瀬舟の荷揚げ場があり、さらに後述するが一つ南の通り、塩小路の西側には初代京都駅である七条停車場があった。
それこそ京都でも明治以前からずっと使われてきた通りであったが、昔は現在のような広さはない。
常々言っているけど、昔の通りの広さは「現在の四条通から、南北に一筋入ったところのような広さ」だった。
この広さはまさに車一台分。
戦前までは京都市内の主だった通り(環状線として北大路、西大路、東大路、九条通や市電が走った通りは造成時から広かった)はどこでも車一台分という広さ であった。
京都という町の通りの広さは、戦前のまま、ないしは若干広くなっただけという箇所が多く、今だにしない中心部の四条界隈は昔のままの幅である。
空襲による被害が軽微で、他の都市圏のように市街地が灰燼に帰したような被害を被っていないことが主な理由であり、良い意味で京都らしい面でもある。
そのため、今でも(だいぶ取り壊されたりで変わっては来ているが)昔ながらの家屋や間取りの土地が残ってはいるが、その通りの狭さを解消するために
西洞院通では西洞院川を埋めて道路幅を確保。
堀川、五条通では強制疎開。
など、環境や住民の犠牲の上で、通りの広さは確保されてきた。
ここ東洞院通でも鉄道が敷設された時におそらく埋められたのではないだろうか?
資料がないためなんとも言えないが、このあたりはより資料の照査を行ってみたいと思う。


藍染川は七条通にそのまま流れるかと思いきや、川は若干の弧を描いて今度は東洞院 通沿いに流れる。
この跡は簡単に見つけられる。
現在の東洞院通七条から南の東洞院通は東側の歩道の幅が西側に比べてかなり広い。
察しのいい方なら想像できると思うが、この歩道付近が藍染川だった。
しかし、京都市明細図にさえ、この位置には河川が書かれていない。
この位置の流路が埋められたのはおそらく上記の理由からだろう。
 ひとまず藍染川はなんとか消滅を避けて南へと流れていたが、一つ気になる箇所を発見した。

(私有地にかかる道路のため写真掲載なし、地図表記のみ)
・・・検索しているともうひとつの可能性も存在するかもしれない、そういう思いを抱いた。
それは東洞院通通りを塩小路方向に下った半ばあたり。
パデシオンマンションの東側から入る入り口付近、東洞院通から東に少し入れる道路があり、その先にはマンション建物の駐車場や入口に通じているのですが、 東洞院通中に入って いく通りの入口付近が窪んだ地形になっており、その窪地が若干ではあるが南に続いているのです。
人工地形とするのなら、このような窪みをつける意味がわからない。
雨が降ればここに水が集まってくることになるし、何よりなんらかの意図があるとは思えないのだ。
となると自然地形ということになるが、窪みを伴うような地形になり得るのはただひとつ。
河川跡だ。
もしかしたら藍染川には旧流路が存在していたのかもしれないし、あるいはなんらかの水路がここに存在したのかもしれない。
しかし河川跡となるとなぜこのような窪地のみが残ったのか?
ますますわからない。
建設の事は専門外なので、私はこのくぼみを説明できないが、くぼみや出っ張りなどは整地で均して水平を出す物ではないのだろうか?
建設を専門にされている方の意見を聞いてみたい。

そして東洞院通通沿いに南へ流れている藍染川は次に、塩小路通に差し掛かる。
塩小路通、この通りは現在では京都駅北口が面しており、通りに面した南側は京都では巨大とも言えるバスターミナルとなり、その南側には1997年に様々な 景観論争を生んだ四代目の京都駅が存在する。
この京都駅は実は設置された当時はこの塩小路通付近に存在していたようだ。

つまり初代の停車場が置かれた際の東海道線は現在より北に100m付近にあった時 代だ。
これは当時の京都停車場がお土居の縁にあったことに起因する(ちなみに京都駅の0番ホームはお土居の上には造られていない)。
当時の京都市街地の南の端は現在の塩小路南付近であり、新たに鉄道を敷設して停車場を作る場合に都合が良かったため、初代の京都停車場はこの位置になった という(上図は1909年測図・1912年製作)。
その後、東海道線の東山隧道による通行が可能に、直線上の現在の東海道線の姿となった。

ここで藍染川の現存を示す唯一の写真であろうものを公開する。



(K様より絵葉書の提供を受けました、K様、ありがとうございます)

これは正直貴重な情報だった。
知人のK様より藍染川の親柱らしきものが映った絵葉書を入手しましたとの情報を頂いた時は、かなり驚いた。
そして納得した。
なるほど、昔は写真は貴重であったから絵葉書にプリント、か・・・。
完全に盲点だった。
これは塩小路東洞院通よりやや東から西を向かって撮影されている古写真であるが・・・おわかりいただけるだろうか・・・
写真右側に奇妙な石柱が建てられているのを。
これがおそらく藍染川に架かっていた橋の親柱だ。
さらに写真左手の柵のようなもの、これは橋の欄干ではないだろうか?
いずれにしろこの写真資料から得られる情報は多い。


(出典 Wikipedia 京都駅より)
後述もするが初代京都駅と呼べる七条停車場は、1877年に鉄道が敷かれるにあたり、神戸からの終点として建設された。
Wikipediaの写真は1880年頃の七条停車場であるが、この頃はまだ特徴的な西洋風建築の中央部分のみだったが、後年の上の古写真ではこの西側に 建物が追加されている。
この写真自体はおそらく烏丸通の西側から撮られたものであろう。
この写真では、まだ西側には建物が存在していない。
となると、東洞院通側から撮られた写真はこれより後年のものとなる。
まず年代の確認に使えるものは京都電気鉄道(のちの京都市電)の車両が並んでいる事だろう。
京都電気鉄道は1895年に七条ー伏見油掛、同年に木屋町二条や南禅寺橋などの区間までの区間で開通した路線である(当時より、伏見に向かうためには東海 道線に寸断されており、七条踏切北と踏切南と徒歩による連絡が必要であった)
その停車場があるという事は1895年以降となる。
 またこの1895年頃から京都鉄道(現在の山陰線)や奈良電気鉄道(現在の近鉄京都線)、などが乗り入れて駅前がかなり手狭になっていたという事だ。
そして、1914年は東海道線が南に移設され、京都駅も2代目のものとなる。
この写真の撮影時期はおそらく説明書きどおりであろうが、東洞院通方向からの撮影されたものは年代が特定できない。
それを解明するための幾つかの情報がある。

・東九条の発電所
当時は蹴上の発電所で発電をする関係上、水路に絡みつく「藻」の清掃をするために定期的に発電を止める必要があり、当然電気を使用するものもストップす る。
となると電車もストップする。
1899年に東九条(現在のアバンティの西付近)に火力発電所が建設されて、電車が運休することもなくなったが、そうなると一つの予想ができる。
写っている電線の中でひときわたくさんの電線を架している電柱は明らかに東海道線方向(南)から電線を伸ばしてきてる。
それだけ大量の電線を配線できるのは発電所が存在してそこからの電力を配線するためではないか?
という事は発電所が作られた1899年以降の写真ではないだろうか?。

・高倉陸橋
1900年6月に官営鉄道(東海道線)を越えるための高倉陸橋が竣工し、その時に東海道線を挟んだ東洞院通が閉鎖となり、1901年4月には陸橋が完成し て、当時の木屋町線七条踏切北と、東海道線を挟んだ踏切南の間が廃止され他ということだ。
つまり、写真のように人が歩いているということは南に行く理由があってではないと、南に方向には歩かないはずだ。
もちろん写っている、走る二人の子供と立ち止まる一人の大人、この人数で判断することは無茶ではあるが、おそらく南に通行できる時期にものではないか?
そうでない限り、明らかに立ち止まる大人の足は南に向いており、南に向かって歩いていそうに見えるのだ。
(逆に走っている子供はこの近辺の子供か、大人に連れられて乗り換えの間遊んでいる子供かという推測はできる)

・写真奥の建物
明らかに初代の七条停車場から東西に建物が増えている。
しかも西側にもだ。
これは京都鉄道のプラットフォームの屋根部分か駅舎部分ではないだろうか?
京都鉄道は1897年に七条停車場付近に乗り入れており、ちょうど写真の奥方向に路線が伸びていた。
となると写真は京都鉄道が乗り入れた1897年以降ではないだろうか?。

・この写真自体の疑問
まず一見して非常に気になるのは、ガラス乾板からの転写か?それともシートフィルムからの転写か?、それともロールフィルムからの引き伸ばしか?というこ とだ。
一つ除外できるのは日本国産のカメラ・フィルム等ではなかったということだ。
国産フィルムやカメラが市販されるのは1920年後半であるから、年代的にこれらの使用をしてということはあり得ない。
となると、どのようなカメラを使ったかを特定できればこの写真が撮影された時期を特定できそうな気がする。
ただガラス乾板であっても、ロールフィルムであっても1899年までには登場しているので、どちらでもある、そういう可能性は捨てきれない。

読み取れる情報は・・・

・撮影者は誰?
この写真だが、なんとなく海外の人間が撮った雰囲気がある。
当時は写真が珍しく撮られるとなると、人はこちらに注視している場合が多いのだが、逆に遊んでいる子供を写真に入れるなど、なんとなくだが撮影者が日本人 らしくない写真なのだ(日本人であれば、おそらく撮影が終わるまで止まるように言うだろうし、当時の撮影時に周囲に払う注意を考えると、子供達を止めてお くことは可能だと思えるが、あえてそれをしていない)。
私は撮影者が海外の人間ではないかと考える。
対案としては日本人であり、子供たちに止まるように言ったが、当時の撮影時にはいつシャッターが切れたかというものを確認できるのは、ストロボを炊きでも しない限り撮影者のみであり、現像してみると結果として動きのある写真が撮れて「しまった」場合や、そもそも撮影枚数が多いので、いい加減に移したら、た またまはしゃぐ子供が写ってしまったか。
 そもそも絵葉書に写真を撮影するための人材は京都府や京都市、そういった組織が雇ったのだろうか?。
もしそうだとすれば、当時の給与を探れば何かわかるかもしれないが・・・。

・レンズの焦点距離
あくまで135判の焦点距離という話で語るが、焦点距離はおそらく50mm〜もう少し望遠ではないだろうか?
理由として電柱などの直線が直線のまま写っているということ。
パースがほぼついていないこと、だ。
広角レンズで撮影した場合、撮された写真には広角レンズ特有の歪みがあるが、この写真にはそのような広々とした光景を写し取ったのではなく、被写体とその 周囲を写し取る、いや切り取るために今ある焦点距離のレンズでいい一枚を切り取るために、色々と位置を思考錯誤した上で撮影した節がある。
そのため、広角レンズのパースとは異なる、望遠レンズの被写体が遠くにあっても近くにいるような写り、望遠レンズの圧縮効果にも見える。
少なくとも135mm判では50mmから望遠、キャビネ判では120mm、4*5では180mm前後の焦点距離のレンズではないだろうか?。
(ただこれも、トリミングをされている場合は不明。)
 1899年頃は広角レンズも存在していたかもしれないが、ほとんどは現在の135mm版の50mm前後のレンズであり、実用的に使用できるレンズになる のはもっと時代が下ってからだ。

・シャッタースピードは1秒前後(中央の人物が被写体ぶれを起こしている)
まず1秒前後のシャッタースピードを実現していたシャッターを使ったのか?、それとも手で開閉したのか?ということだが、この写真自体が絵葉書として使わ れているということ、さらには電車などの効率性を追求するものがあったことから、一枚一枚手でシャッターを開閉することは考えにくい。
となると機械式シャッターで1秒前後で撮影していたということだ。
そして中央の子供はなんらかの理由で走り出し他ので、その様子がブレとして記録されたということではないだろうか?。

・ピントについて
全てにピントが合っているように見える。
まさに奥から手前まで。
おそらく限界近くまで絞りを絞っている、ないしはそもそも開放値が大きいレンズ。
プリントなので、原盤を見なければ正確なことは言えないが可能性としては

1・大型カメラでアオった。
2・大型カメラ以外でほぼ限界まで絞りを絞った。

アオリを効かせたとすれば大型のカメラ以外ではあり得ない。
撮影したい被写体の面を撮影面に平行にすることでピントの合焦する範囲を変更できる技法で、特に奥行きのある被写体を撮影する場合に効果があるが、アオル ということは、それ以外のピント面はボケるということであり、この写真からはそのように煽った時に発生するボケは見受けられない。
 とすると大型カメラ以外のピント面と撮影像面が平行のカメラで撮影したということになるが、それでもかなりの範囲にピントがあっているように見えるた め、絞りを相当に絞っているか、限界まで絞ったか、だ。
おそらく最初から絞ってある暗いレンズか、撮影者が限界近く、ないしは限界まで絞ったか、だ。
ただ大型カメラであれば、いつの時代でも存在していたが普及型の中型カメラになると、その登場は1890年代まで待たねばならず
kodac社のフォールディング・ポケット・コダック(1897)やポケット・コダック(1896)となる。
小型カメラはさらに時代が進んで1925年のライカの登場を待たなければならない。
となると1890年代後半から1900年前半にかけて、撮影できるカメラとしては中判カメラか大判カメラしかない。

・撮影媒体の感度は?
このプリントの様子からして、良質なネガからプリントされているものと思われるが、逆に考えると当時の撮影媒体の感度では高感度だったのではないか?
写真は主に

シャッタースピード
絞り
感度

の三つで構成される(モノクロであるためデジタルカメラでいうホワイトバランスはここでは除外)。

これらはすべて相関関係にあり「現在」の写真の法則ではこの三つから逸脱すると、とんでもないアンダーかオーバーの写真が撮れる。
そう、現在の写真であれば、ね。
現在の感覚で話すと
シャッタースピード(以後SS)、絞り(F)、感度(ISO)で特定の値が入力されると、ある一定のまとまりを持った線を描くことになる。
SS=1/1secなら F5.6 Iso12とか
SS=1/1sec F45 iso 100とか
基本的に感度は不変であったから、それ以外のSSとFが可変だ。
そう、現在の写真では、ね。
ところが、当時は現像と撮影のプロセスは同時ではなかった。
例えばこういうこともある。
撮影時に誤って乾板ないしはフィルムに1/10の露光量しか与えなかった。
つまり「ど」のつくアンダーな原盤になった。
これを現像液に普段の10倍の時間漬け込んで使える原盤として得た・・・。
もちろんこれはこううまくいく話ではないし、あくまで数値を埋め合わせるような話でしかないのだが、今のようにスタンダードなやり方から「足を踏み外す」 ことも可能で、「足を踏み外しても」結果が同じとすることも不可能ではなかったわけだ。
これは一つの可能性を浮かび上がらせてくる。
乾板フィルムかロールフィルムはおそらく低感度だが、現像まで撮影者がコントロールしようとしていた場合は、フィルムの感度など関係がなくなってしまうの だ。
なぜなら、Jpegなどの一般的なデジタルな写真では撮影時のパラメーターで結果は決まってくるが、RAWで出力すると後でパラメーターを調整できること と同じで、そのパラメーターの調整幅が異常に大きいのもフィルム現像という行為なのだ。
残念上がら媒体感度は正直不明だ。
(つまり撮影者が意図的に露光で1/10の露光量しか与えずに、現像時間を延ばして濃いネガ(原盤)を出していた場合なども考えられるため)

・影の出方
影の出方から太陽は南南西の天頂、およそ45-50°付近に存在している。
太陽は当然南から照らすわけだが、季節ごとに微妙に変化をしている。
京都であれば、田中久重が開発した「万年自鳴鐘」の天象像にあるよう、冬の冬至は太陽が最も南の低い位置を通過し、夏の夏至には太陽が最も高い東西の天頂 を通過する。
そして、春と秋の春分と秋分には太陽はほぼ同じ高さを東西に通過する。
よって、のこ影の高さがわかればある程度の季節と時間が割り出せる。
撮影時刻は午前10−13時前後
季節が分かるものは少ないが木々に葉が付いていないことから、おおよそ4月の半ばから、5月前半、ないしは10月の半ばから11月半ば頃?

・撮影方向と位置
撮影した方向とその位置は塩小路と東洞院通交差点よりほぼ西、南側の初代京都駅に向かって撮影している。

うーん、もしも中型カメラで撮影している場合であればもしかしたらKodak社のものかもしれない。
なんとなくだが写真に写っている人間がこちらを気にしているそぶりを見せていないし、大型カメラで撮影しているような雰囲気でもないのだ。
ただ、カメラのフォーマットも多彩であったであろうし、キャビネ版ぐらいのカメラでそのまま密着焼きをしていたのかもしれない・・・

・・・話が逸れてしまった・・・。

これは上記の絵葉書の同一位置を撮影(PoewrShotG12 F4 SS1/15 ISO 400この条件を見るとわかるかもしれないが、実は夕暮れ間近)。
塩小路通と東洞院通の交差点、この位置で藍染川は塩小路通を潜ってさらに南に流れていた。
現在ではこの南側には京都の市街地を南北に分断する東海道線が横たわっているが、七条停車場に東海道線があった時期は南には田畑が広がっており、わずかに 東九 条村の人家があるだけだった。
そしてその中に藍染川は南に向かい流れ続ける。

塩小路から南も現在は道路が続いているが、残念上がらその途中で東海道線によって 寸断されている。
しかしこの東海道線と塩小路付近の間にはかつて川が地上を流れていた時に船がここまで上がってくることができたらしく、舟留石(勝手に命名)が残されてい るようだ。
この石は高瀬川のレポートでも書いたが、

この石だが、よくもまあ・・・残っていてくれた。
この石が残っていた真意は不明だ(逆に業者であれば撤去したがる傾向にある)が、もしこの石が昔からこの位置にこのまま置かれていたのだとすればこの面が 削れていることは辻褄が合う。

つまり京都市内では河川は(一部例外(第二疏水等)を除いて)おおよそ北から南へ 流れる。
この付近の流れは当然北から南に流れていた。
となると、もし船をこの付近に係留しようとすると当然何かにくくりつけておく必要がある。
そしてこの石に船を止めておく縄を括り付けた。
すると船の流される方向から最も離れている面、この石であれば右上(方向で言えば北北東)方向が水に流される船の力を伝える縄にによって削られることとな る。
最初は四隅共に四角形の石柱だったのであろうが、長い年月の間に川の流れる方向は同一であって、常に同じ側の面が削られることとなった。
そしてこのような窪みを持つ石柱となった。
これが第一の仮説(できればこうであってくれたら相当に嬉しい)

ただ夢を壊すような考えも同時にある。
この東洞院通は南方面を竹田(大和)街道という名称で呼ばれており、洛内(御土居の内側)から南側に向かい交易路でもあった。
交易路は多くの人馬や大八車などが通行しており、特に轍のついた物は同じ箇所を通ることで、そこに敷かれていたであろう敷石に轍跡を刻み込んで行った。
そして、敷石には溝が刻まれていった。
つまり、ただ単に近くにあった車石を縦にして置いただけかもしれない。
これが第二の仮説(あまりこうであって欲しくはない)

どちらにせよ相当に古そうな石柱であり、このような近代構造物のただ中で残っていてくれること自体が奇跡、京都市及びこの自動車パーキングを管理する管理 者は末長い保存を求めたい。

さらにもう少し南(現在では京都駅構内の建物付近)で高瀬川分流からの流れが合わ さっていたが、現状は常にそれはないということを知らしめてくる。
写真を撮っている時に私の頭に聞こえてきた声は
「神は言っている ここで死ぬ定めではないと」
「デットエンド(行き止まり)」
ついに東海道線の通っている場所までやってきた。
この向こう側に現在の東海道線と新幹線が走っている。
そこへ向かう道の終わりは、現在では京都駅の忘れ物保管センター(遺失物保管所)になっているようだ。
現実はいつも非情だ。
しかしまあ・・いつものことながら全く跡形も残っていない。

航空写真ではこの付近だ。
しかしここから先は京都市明細図とともにもう一つの強力な解析ツール(?)を使うことができる。
京都市内を流れていた河川の多くは自動車が多くなると、暗渠として地下を流れることになった。
そしてこの流路跡はそのほとんどが下水に転用されており、その下水道の流路を京都市下水道局で見ることができる。
航空写真ではこのように見ることができない地下の河川も京都市下水道局のデータではその位置を下水道が通っていることがわかる
(転載不可である為、図面はご自身で確認されてください IE Chrome推奨。)
京都市下水道局台帳 スミト ン
そう、この藍染川もまた下水道に転用されているようだ。
現在の京都駅の下を流れている河川(下水道)は藍染川ともう一つ、西洞院川である。
こういった意味では京都市の河川の再利用法も悪いとは言えない。
完全消滅させるのは簡単だが、残して使う。
これを地で行っているなぁ〜・・・。
で、この行き止まりの向こうで、藍染川は高瀬川分流と水を合わせていた。
高瀬川分流は規模こそ小さいものであれ、今でも高倉跨線橋の基礎の下に見ることができる。
だがこれも建物と東海道線の敷地の寸前にあったため、おそらくこれも消滅しているだろう。

東海道線を南から見ていると、気になるものがあった。
あのホームの下の空洞は・・・何?
これって・・・まさか・・・そんなことはないよね・・・。
かつて藍染川が流れていたであろう位置とは一致するんだけど・・・。
ホームの下を流すためにこんな空洞があったなんてことは・・・ないかな。

高倉跨線橋から竹田街道への取り付け部が迫ってくる。
新幹線が頭上の高架をがたんごとんと音を立てて走っていく。
ここは竹田街道と八条通の交差点、先ほどの東洞院通の延長線上に当たる。
ちなみにこの京都駅はほとんどの新幹線車両が停車するようなので、山陽新幹線のどこかの駅のように時速300kmで通過する弾丸状態は見ることはできませ ん。
東海道線を潜った藍染川は高倉通の高橋と八条通の交差点付近から南に向かい、今度は竹田街道の東側に沿って流れる。
高倉通の高橋は新幹線が造成されたときに線形が変化していおり、以前はまだ屈曲が緩かったものの、現在の南から塩小路通方向へ向かう時の屈曲はかなりきつ い。
そして、この交差点のすぐ東側には高瀬川の旧流路が流れていた。
それは東高瀬川(1)のレポートにて・・・。

さて、目の前に見える竹田街道東側を藍染川は南に流れていた。
すぐ西には京都駅南地区再開発事業で建てられたAVANTIがある。
私が幼い頃はこのAVANTIによく来ていたが、まさかこのような場所に川とは当時も思ってなたったなーというのが本音。
 さらに当時は京都駅から南は地下鉄が開通しておらず、また北大路以北にも地下鉄は開通していなかった。
この付近の風景は幼い日に見たものとそんなに変化してはいない。
しかし一つだけ消え去っていたものがあった。
京都市電の伏見線、それがこの竹田街道沿いを南に、まさに藍染川と並走するように走っていた。
残念ながらこの伏見線は1970年に廃止となっており、この区間も自動車化のため敷設線路の撤去が行われて、片側2車線の道路になった。
しかし藍染川自体はそれ以前に姿を消していたようだ。
すでに京都市明細図でさえ複線の京都市電が書き込まれており、その脇を流れるはずの藍染川自体が書き込まれていない。
これもやはり西洞院川の事例に続いて行われた暗渠化だろうか?
京都市下水道台帳ではこの付近を走る太い下水幹線を確認することができる。
おそらくは、これだ。
しかし当然のことながら地上を歩いて良いても藍染川を見ることもできなし、普段生きている範囲では、この地下に下水幹線が走っていて、それは昔地上を川が 流れていて、それを流用なしいは利用したものだ、なんていうことは想像もしないだろう(そんなことを追い求めているおかしな人間がここにいますが・・・)

さて藍染川は南に向かってどんどん流れる。
まずは東寺道を潜り、もう一つ南の通りも潜ると、九条通に行き当たる。
しかしこの九条通、この付近が造成されたのは昭和に入ってからであり、それ以前はそれこそ、通りに面した場所にしか人家しか存在していなかった。
さらには現在の九条跨線橋もなく、東に向かう時は東山橋から地道で東福寺方面へ抜けるしかなく、交通の便はあまり良くはなかったようだ。
九条通を潜った藍染川は緩やかに屈曲する竹田街道沿いに南へ向かう。

竹田街道は緩やかに弧を描いて南へ向かって進む。
やがて前方には札辻通が見えてくるが、この南東部分で高瀬川からの分流が合わさっていた。
この分流が正確にはどれほどの流路幅を持ったものかはわからない。
しかし、水量調整などに使われていたのではないだろうか?、もしかすれば、ここにも船を通船させるとすれば、通船している河川(高瀬川)から船を回すとい うのが自然かもしれない。
以前、西高瀬川の流れを探っていた時にあった鳥瞰図では、西高瀬川はもちろんのこと、高瀬川にも堀川にも、そして天神川最下流にも船が浮かんでいたこと を思い出す。
つまり現在の京都市南部は一面の田畑であり、その田畑への用水が網の目のように張り巡らされていた。
それらの用水が流れていれば、船を使えば確かに農作物の運搬などは捗るだろう。
しかし現状では農地はおろか、河川を含めて地上からは完全消滅。

さらに南に進むと・・・・見えてきました。
阪神高速8号京都線。
京都駅から10分程度の所にも高速道路が存在しているんです。
・・・そう、この時はすごいなーと思っていたけど、この阪神高速京都線は造成された場所の地形を完全に改変しているため、もはや昔を知ることは難しいが、 京都市明細図から拾い出してみる。
徐々に通りに沿って再び弧を描いて流れていた藍染川はここでも完全に消滅。

十条通りもかつては狭い道路であった。
藍染川はその十条通と交差するが、地形図的にみつと、鴨川の堤防に向かい竹田街道十条通の交差点から南東方向への勾配が道にはついており南と東、特に南は 石垣をこさえなければならないほどの登りとなっていたようだ。
しかしその通りに挟まれた場所にあった「浜口染工場」「京都機械工具製作所」はちょうど堤防と道の間にあった窪地のような状況だったようだが、この場所を 現在は高速道路の出口が使っており、地形は総て一変している。
ただ、この竹田街道東沿いを藍染川は地上を流れていた・・・昭和20年前後でも京都市明細図の素面から読み取るには。
この高速道路の用地取得に関してはかなりゴタゴタなことが起こっていたようだが、ここでは触れない。
これ以上南は鴨川が流れているので、多分鴨川に合わさっているのだろう・・・そう思っていました。
しかし藍染川は分かれていた。

一つはそのまま勧進橋の下で、鴨川と交わる流路。
そしてもう一つは勧進橋の袂で西に向かう流路。
鴨川に合わさる流路は、現在の勧進橋南にある水門付近ではなく橋の直下付近だったようだが、これも下水土台帳では流路を流用したもののようだ。
これが一つの藍染川の終点、勧進橋付近から鴨川へと合流する。
そしてもう一方の流路は竹田街道から勧進橋を進む袂で、久世橋通が交わってきているが、なんと久世橋通方向へ90度以上カーブをして西に流れる。

久世橋通は近年になってから造成された通りではあるが、それ以前からもこの付近は区画整備の計画はあったらしく、1945年の航空写真でも意図的とも言え る田畑の並びや通りの線形が見て取れるが、これ以前はこの付近はこのような通りの配置ではなかったようだ。
で、藍染川は竹田街道からスイングバイをして西に向かって流れすぐ西にある烏丸通を潜る。
そして最後には西洞院川の東流に現在の任天堂の社屋の南東付近で合わさる。
・・・文章上で書くことは大変に簡単だ。
だが実際はもう、完全に消え去った流路跡であり、住宅地が形成されているので、もはや跡形も残っていなかった。
しかしこの流路もその存在があったのかどうかも正直疑わしいと思える節がある。
古地図には記載のある地図とない地図があり、1909年測図のものにはそれらしい横線が地図に走り、西高瀬川東流と流れを合わせているように見える。
証拠を求めて1946年の航空写真を見ると確かに現在の任天堂社屋の南西を沿うように流れていた西洞院川の東流を見ることはできる。
しかし、藍染川とこの流れを結ぶ流れは見当たらない。
残念ながら、ここでの結論は出すことはできな。
ここが藍染川のもう一方の終着点。

ここから西洞院川の東流は現在で言うと近鉄京都線を潜りさらに西で、現在の堀川現流路に似た流れで南に向かい鴨川と合わさっていた。
それらは堀川(新レポート)で探していきたいと思う。
私が生きているこの時代でさえ、ここがかつて工場用地であり、ゴルフ練習場であり今は任天堂の社屋になるという変遷が起こっている。
私は今の時代は変質と変遷の時代だと思う。
どこまで変遷するのか?
その記録を、私は私が生きている時間内で記録してみよう。
どこまで続くかはわからないが・・・・。
(ちなみに今回の検索中に1日のうちに自転車はパンクするわ、お金は落とすは(¥500)、鳥の糞の直撃は食らうわ散々だった・・・Orz)
続く

レポート目次へ 川の行方へ 

inserted by FC2 system