福島県福島市〜山形県米沢市 萬世大路バックのBGMは中島みゆきさんの 地上の星でお願いします。)

 福島県福島市から山形県の米沢市迄を結ぶ路が有る。
不便だった両県の交通事情を打開するため、新たな新道を開削することになった。
明治九年の計画で米沢〜福島間 48.65km。
そこには前人未踏の栗子山を含む奥羽山脈に、800mもの隧道を穿ち、路を開削。
その他隧道を4本、石橋2橋、板橋2橋、土橋21橋(橋の総数は不明)を造る、大工事だつた。
山形県県令の三島通庸は栗子山隧道工事にて”もしこの工事が竣工しなければ私の身体をほおむる穴にしていくのみ”と内務卿、大久保利通に伝えたといふ。
世界にまだ3台しかない米国製穿坑機を使い、当時としては空前の長大隧道、栗子山隧道を掘削。
多くの人民の労働、数え切れない困難、過酷な自然状況。
それらに男達は、逃げることなく、また退くこともなく、不屈の精神で立ちむかつた。


本題に入る前に幾つかこの路の歴史を知っていただきたい。(栗子峠に見る通づくりの歴史 社団法人東北建設協会 吉越治雄 著 より抜粋)


明治七年頃より福島、米沢間の交通の不便さを憂い、旧米沢藩の秘線があることを知り、新道開削を建議したことがこの新道建設の芽生えとなる。

第四回目の検討の結果明治八年九月、調査員連名で新道切開願書を提出、それを踏まえ、路線を踏査、精査して、良道を得られるとして福島県庁へ具申した。

同年、福島県庁ではさらに土木課員を派遣して明神峠を越え赤浜に出る一応の路線案が出来た。

この当時、隣の置賜県でも同様の企画があり同年九月、置賜県県令 信条厚信から、福島県県令 安馬和保へ米沢、福島間道路計画の照会が有った。

この頃、福島、置賜両県に対して電信線路架設について諸事便宜を図るようにと、明治八年九月、工務卿、伊藤博文より達しがあり、電信路の選定を兼ねた道路 予定線の調査も行われた。

明治九年、若松、盤前の二県を廃止し福島県に合併し、また隣の置賜、鶴岡の二県が廃止、山形県に合併される。その為、新道の話し合いが終わらない内に同年 十月、鶴岡県令である三島通庸が初代山形県令に任命された。

栗子山の周辺には馬車通を設けるのに適した立地は無く、調査の結果を踏まえ三島県令はこの山脈には隧道を設けて二つ小屋に出て中野村に至り、福島に出るよ り他はないとの決断をした。隧道の標高は880mとし、長さは約860mと目論んだ。

当時、栗子山周辺を知る者は、このような長大隧道を奥羽山脈に穿つこと自体冒険であり、実効がきわめて困難と見ていた。

三島県令の新道開削に同時着手することを決定した。時は明治九年十月三十一日である。

新道の検討は七回を数え両県は新道開削に応じるという合意に達し施行の順序等を協議、明治九年十一月四日、両県は新道開削に関する結約書を締結。

両県の工事境界線を栗子山東一町(109m)の地点とし、本年度に測量、その他準備をし、来年(明治十年)消雪を待ち、直ぐに両県が工事に着手する。両県 はその所管に関わる部分について馬車道を開き乗車馬車ともに自在に往復できる道を造る。その期限は明治十年十一月とする。

工事区間は山形県が米沢〜刈安、栗子山隧道(860m)とその東一町(109m)まで、福島県が福島〜中野村堰場〜杉ノ平、二ツ小屋〜山形県の施工境迄、 とした。

山形県管下は刈安新道と称し施工区間は四里二十五町十六間  (約18.28km)
福島県管下は中野新道と称し施工区間は七里二十一町十二間六分(約29.51km)
福島〜米沢迄の合計距離は約48.65kmであった。

山形、福島両県はそれぞれ刈安新道、中野新道開削の伺いを、内務卿大久保利通宛に、明治九年十二月に提出した。

三島県令は福島県との調整を済ませ”世間の疑を払うには実際に工事を進めるに限る”と明治九年十二月二十日、内務省に正式の伺いを提出する二日前の、時、 十二月十八日、多くの反対、不安の声を押し切って栗子山隧道を含む刈安新道開削工事(延長約18km)に着手した。



実際にこの路が竣工したのは明治天皇をむかえられて行われた明治十四年十月三日、と考えて良いと思う。
明治14年と言ったら西暦1881年。126年前の出来事であり、想像もつかない昔と言うことになる。
当時の人々と三島県令は、いったい何故にこのような山奥に、こんな大きな土木工事を行ったのか?。
その答えは通れば分かる。
そう思い、2007年、7月から8月にかけて、2度にわたり踏破を挑んだ。

 万世大路はオブロ−ダ−の先輩諸氏の方々がそれこそ珠玉のレポ−トを公開なされているので、こんな未熟者のレポ−トを公開するのは恥ずかしい限りだが、 栗子隧道まで到達した証として、ここに公開する。

続く

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